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1978年頃のディスコのお話

2005年09月11日
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道楽愛好家の皆様、昔話107に書きました内容に一部間違いがございましたので、勝手ながら編集させて頂きました。

1978年桑名正博さんの当時の新曲は「薔薇と海賊」でした。
確か、哀愁トゥナイトのディスコ・ヒットに味を占めたRCAが、それならばということでモロにディスコヒットを狙った企画でした。
そのためのプロモだったんですね。
ただ、この曲、ほとんどウケなかったし、かけませんでした。
ディスコも知らずに、おっさんたちがサウンドだけ真似しても駄目って典型的なパターンでした。ちなみに浅野ゆう子さんのセクシー・バスストップもRCAだったと思います。そんな下地があってやってみたってことじゃないでしょうか。
でもって、桑名さんの方は、次のシングル「サードレディー」、「セクシャルバイオレットNo.1」と続けて新宿のディスコではヒットしました。
流行るものはほっといても流行るんですよね。

ということで、誠実なブログだなぁ~(自分で言うなよ)
それにしても78年は色々なことがドッカン、ドッカン起きた年なもんで、うまく順を追って書けないかもしれませんが、一生懸命思い出して書き続けますので、細部の間違いはお許し下さい。
また、当時の記憶をお持ちの道楽者の皆様には、是非ともBBSにキーワードなどを書き込んで頂くと委員長は嬉しゅうございます。

今夜は徹夜で明日のお話、昔話その108を書きます(^o^)
記憶の断片を繋ぎ合わせる作業はまさにパズルのようです。






最終更新日  2005年09月22日 15時26分07秒
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さてRCAレコードのヤラセ作戦の行動隊長に任命された委員長は、早速サクラとなるべく踊りの踊れる若衆を集め、MASAHIROのロゴ入りTシャツを配りダンスフロアーで待機しておりました。
やらせシナリオは、東京で一番でかいディスコ(トゥモローUSAですね)にぶらっと立ち寄った桑名正博さんが、自分の曲で踊るファンに取り囲まれて新曲の発表をするという、今考えると赤面しそうなアホらしいストーリーでした。
たいした仕掛けではないので打ち合わせはいらないだろうって、ぶっつけ本番いきなり始まりました。
委員長もジュリーも、事前の挨拶もないのかよ~、ってな感じでちょっとブー垂れておりましたが、いきなり本人が登場すると、なんとヤラセじゃなくて親衛隊みたいなファンのおねーちゃんたちが数十人ドカドカと乗り込んできて、抱きつくはキスするはの大混乱。
おいおい、これじゃヤラセの俺達の立場はどーなるんじゃい、って言う間もなく、「哀愁トゥナイト」が流れ出し、本人も混ざって皆で踊り出しました。
バシャ、バシャとフラッシュが焚かれ、テレビクルーのカメラも回ります。
こらこら、ぶらっと立ち寄ったんじゃないんかい?ちょいと疑問でしたが、もうノリは絶好調、委員長の若衆も張り切って踊ります。
更に親衛隊のおねーちゃんたち、「哀愁トゥナイト!哀愁トゥナイト!」の合唱です。
(言っときますが、田原俊彦さんの哀愁デイトじゃありませんよ。お間違いなく)
後半のビートのノリは中々バカに出来ません。これはディスコでも確かに踊れるなぁ~、委員長の実感でした。

さて一息ついてフロアの音が止まり、我らがチーフDJジュリーがマイクを持っての登場です。

「こんにちは、チーフDJの鈴木昇二です」

なんじゃい、こういうことだったんかい。
ということで他愛もないやり取りがあって、新曲「薔薇と海賊」とスローバラードの「月のあかり」が紹介されて終了。

「おつかれさまでした。」

桑名さんから声をかけてもらった委員長は、彼のその素朴な感じに好印象を持ちました。っていっても業界じゃ一応大先輩ですよね。
その日は何度も「哀愁トゥナイト」と「薔薇と海賊」を回しましたが、この時初めて聴いた彼の声は結構心にズシンと効きました。
今までなんで知らなかったんだろうって思いと、聞き込むほどに引き込まれてしまう桑名さんの声にすっかりはまってしまった委員長は、その日からしっかりとファンの一人になってしまったのでした。(しっかし、ホントかぶれ易い性格やのぉ~、ジョー山中はどないなったんやい)

ムラちゃんいわく、ロックファンなら大概知っているよ、とのことで、桑名さんはかなりの有名人であったことを遅まきながら知った委員長でした。
それにしてもこの「哀愁トゥナイト」の後半のベースギターのノリは凄かったですねぇ。
マジでノッてしまいました。
当然と言えば当然で、よくよく調べたらあの後藤次利さんだったのですね。
関西のディスコでは当たり前のように流れてて、みんなで踊ってるって話を聞いたときはどうもウソくさいなって思っていた委員長でしたが、実際に聞いて踊ってみてよく分かりました。歌謡曲とは言えバカにはできないなぁとつくづく思いましたね。
そして、ムラちゃんもこの妙なノリと言うか、雰囲気というか、何かを感じていたようでした。そうかあ、こういう手もあるんだってなもんです。

バンドが売り出すにあたって、どこのマーケットにターゲットを絞るかと言うことを考えれば、これだけ業界の内情を知っていて、かつヤラセもふんだんにこなせるこのディスコを使わない手はないんじゃないか?ってことでムラちゃんと委員長二人の意見が一致しました。それまではディスコ=ディスコ・サウンドという図式しか描けなかった、自分達の単純さというか愚かしさにようやく気がついたということです。
しかも歌謡曲でここまで踊れるんだったら、これは使わない手はないだろう、という結論に達したのでした。
いくらディスコだからって、マジでディスコサウンドなんぞできるわきゃないし、最終的にはお茶の間のアイドルまで登りつめなきゃ大金も掴めません。そう考えると、ディスコはひとつの話題つくりというか突破口であって、ここで勝負したんじゃ何の面白みもないだろうってことに話は進んでいきました。
そうなってくると、こりゃ踊れそうな歌謡曲を徹底的に分析しようじゃないか、ということでムラちゃんと委員長の二人は片っ端から歌謡ポップスを聞きまくりました。

まあ、皆考えることは似たようなもので、委員長とムラちゃんが目を付けた業界ですが、すでに同時期、トミーザビッチの「抱いて火をつけて~Give it to me one more time」を代表とする和製ディスコ~タレントの企画が、業界の裏側では着々と進められていたのでした。後年知ることとなりますが、委員長のライバルだったジョニーのBIBも、キングレコードでインディアン・リバーのカバー・ディスコ・バージョンの企画が進んでいたのです。
ただ、ひとつだけ違っていたのは、レコード会社各社が狙っていたのはディスコヒットで、委員長たちが狙っていたのは「お茶の間の人気者」といったところでした。
委員長たちはディスコでのヒットというよりは、ディスコからブームが始まったという流れを狙っていたのでした。いわゆるオカマダンスのようなノリですね。
元々はディスコのものじゃないけど、何故かディスコから火が付いた、みたいなヤラセのストーリーを考えていたわけです。
このお手本になったのが桑名正博さんの「哀愁トゥナイト」でした。
この曲ははっきり言ってディスコサウンドじゃありません。
でも、たまたま大阪のディスコで踊るようになって、関東圏にも飛び火したという、この構図がポイントでした。
まさしく委員長とムラちゃんの方向性を導いてくれた一曲と言えました。
方向性が決まった二人は、いよいよ生活苦脱出計画を練り始めていくことになったのです。






最終更新日  2005年09月11日 18時37分13秒
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2005年09月10日
委員長の道楽人生にとって激動の1年とも呼べる1978年は俗に言う「22歳の別れ」、普通ならば大学を卒業し社会に出て行く年齢です。
「少しは大人にならなきゃなぁ」などと殊勝なことを言ったりしていた委員長ですが、言ってることとやってることはまったく違っておりました。

あの元旦の運命的な出会いをしたC子とは、中々最後の一線が越えられず多少苛立ちを覚えつつも、理性の無い下半身の赴くままにあちらこちらのお姉様方とテキトーぬかしては遊び歩いていた委員長でもありました。
当時C子は19歳、音大のピアノ科に通う現役バリバリの女子大生、静岡県清水市出身の彼女は結構男っぽい性格でもありました。
下宿学生の彼女と、夜のオツトメの委員長では中々デートする時間も折り合わず、結局はトゥモローUSAで会う程度が精一杯でした。
とは言うものの、その頃の委員長は結構プロっぽいお姉様方ともお付き合いをしており、いよいよ道楽人生にも腰が入ってきた時期でもありました。

家政大文化祭でのバンドデビュー以来、ムラちゃんとのバンドごっこもかなり本気になり始め、武蔵境の新聞少年、別名岩窟王アッちゃんも委員長たちの道楽熱に感染してしまいシコシコとメージャー・デビューを狙う日々が続いておりました。
そんな中、ムラちゃんの「アジトが欲しいな」という一言にすっかりその気になってしまった委員長は、風呂屋の娘Y子をそそのかして歌舞伎町の真裏、新大久保にアパートを借りさせてそこを作戦本部にしたのでした。
Y子はアダルト雑誌のモデルをやっておりまして、結構なお金を稼いでおりましたから、委員長のバンドごっこに同じ夢を見てくれたりしました。
非常に勝気で聡明な娘ではありましたが、未成年の女子大生現役時代に、妻子ある男性との不倫関係で裁判沙汰まで起こしたという、中々のツワモノでもありました。

委員長とお付き合いするようになった経緯も色々と込み入った事情がありましたが、とにかくプライドの高さは天下一品、加えて開き直りも大胆な面白い娘でした。
当時はまだAV関係は今ほどオープンではありませんでしたから、この業界に飛び込む度胸は中々たいしたものでした。
彼女のお仕事は「撮影」ですから家を空けることが多かったので、委員長にとってみれば好都合極まりなく、結構デタラメなことを平気でしておりました。

ちなみに、彼女と同時代にすでに名前がちらほら売れ始めていた青山京子という名のモデルさんが、後年愛染恭子として大ブレイクしたときには驚きました。
当時、別冊プレイボーイとかのグラビアにY子と一緒に載っていた彼女を見て、鼻の下を伸ばしていた委員長が「可愛いなこの子」などというのを耳にした彼女は、お仕事でご一緒した青山さんと委員長をお電話でお話しさせてくれたりして、結構な変わり者でもありました。まさかこの十年後、この青山京子さんこと愛染恭子さんとサイパンで再会するとは夢にも思いませんでいた。(当時の愛染さんの事務所がサイパンにスタジオを持っていた関係で、こちらでお仕事をされておりました)

しかし、下ネタになりますが、アダルト雑誌に自分の彼女が載っているってのも何だか妙な気分でしたね。雑誌で大胆な姿を見せている女が、今自分の目の前に同じ状態の「生」でいるっつーのは、ちょっと複雑な気分でした。
この雑誌見て興奮しているヤツがいるってことと、今自分がここにその「生」といるってことが交錯して不思議な気がしましたね。
更に、もう一人お風呂屋さんで働いている娘とも付き合っていたのですが、これも何だか非常に複雑な気分でしたね。お風呂屋さんに行って彼女と遊ぶとお金がいるのに、自分は彼女とタダで遊んでいて、しかも二人がいるこの部屋の家賃は彼女と遊んだ男から貰った金で払っているってことは・・・・ってこれも不思議な気分でした。

「カゴに乗る人担ぐ人、そのまた草鞋を作る人」って名文句がありますが、委員長の場合はさしずめ、「春を売る人ひさぐ人、そのまたヒモで食べる人は男の人とは限りません」ってことですか。(なんかよくわかりませんが、言いたいことわかってもらえますか)

ということで、新大久保の作戦本部には夜な夜なバカな道楽者が出入りするようになっていったのでした。
まあ、とにかく78年は幕開けから波乱含みだったことは前述しましたが、委員長の「若さ」もまさに絶頂期に向かって突き進んでいたと言えます。
この頃ムラちゃんは、音楽プロデューサー養成講座なるものに参加して、いよいよ業界への斬りこみを画策しておりました。
委員長はバンドのメンバーをグレードアップすべく、シゲルとメンバー探しに明け暮れておりました。っていうほど真剣に探してたわけじゃなく、そういう名目で夜な夜な遊び回っていただけのことでした。しかもすべておねーちゃんのおこづかいでやりたい放題し放題でした。(だから後年罰当たりな人生に成り下がったわけです)

そんな頃、犬猿の仲となっていたジュリーから久々の仕事依頼がありました。
以前サルサでご一緒したRCAレコードのA氏からのお願いということで、再びプロモのお手伝いをすることになりました。
仕事はお馴染みのヤラセで、関西では超人気の桑名正博氏が東京のディスコ、トゥモローUSAにふらりと立ち寄ったら、自分の曲が踊られていて大喜び、といった非常に白々しい内容の企画でした。
RCAのA氏いわく、大阪のディスコではガンガンかかってて皆踊ってるとのことでしたが、東京では未だ知名度も薄く、その大ヒット曲「哀愁トゥナイト」ですら馴染みがありませんでした。更に今回は新曲「薔薇と海賊」の発表を兼ねて、ディスコヒットを狙った東京進出作戦ということでもありました。

「男ながらSEXYで色っぽいし、だからといって女々しくない男っぽさのあるヤツ」

というA氏の言葉に半信半疑の委員長でしたが、どうせ歌謡曲なんかディスコで流行るわきゃないだろと、たかを括っておりました。
まあ、雑誌やテレビの取材も入るってことなら店の宣伝にも貢献するし、一丁やったるか、みたいな感じで引き受けました。
まさかこのお仕事が委員長とムラちゃんのバンドごっこに相当な影響を与えることになるとは、夢にも思っていませんでした。






最終更新日  2005年09月22日 15時35分41秒
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2005年09月09日
前回、前々回と1978年当時のディスコをリストアップしてみましたけど、この頃はどの店もまだまだパターンが同じでしたね。六本木もこの数年後にはがらっと様変わりしてしまいますが、1978年頃は第一次ディスコ(ソウル)ブームの頃に比べると、米兵が少なくなったってのもあるし、円が強くなったってこともあってか、昔ほど米兵も気軽に遊ばなくなったというか、遊べなくなったといったところでしょうか。
そういった意味では、「六本木」というブランドが大衆化していった時代かもしれません。
それでも赤坂、六本木に比べると、新宿はかなりガキ扱いされていたような気がします。
確かに新宿は子供が多かったんですけど、文化的に言えば新宿の方がはるかに面白かったと思いますね。六本木が昔からの輸入文化を踏襲する中で、新宿ではオカマとかテクノとかタケノコとか歌謡ディスコとか、独自の文化をどんどん生み出したしていったのではなかったでしょうか。

パフォーマンスなる表現が出てきたのもこの頃でした。後に一世風靡セピアとか、ストリート・パフォーマンスなるものが出てきますけど、少なからず当時の踊り好きなヤツはみんな道の上で踊りたがっていたんじゃないかな。委員長の時代もBAD CHILDRENは新宿の歩行者天国で踊ったりしましたからね。自己主張というよりは単なる自己顕示欲を満足させるためのものでした。だから、タケノコが原宿で踊り始めたときは妙に親近感が湧いたと言うか、考えることは皆同じだなと思いました。更に一世風靡セピアが登場したとき「遅えよ、お前ら」ってな感じもしましたね。でも見る側(観客)の方の環境が整っていったのは、やはりタケノコ族のおかげでしょうね。
委員長の時代は誰もそんなのマジで相手にしてくれませんでしたからね。
うるさいからあっち行けみたいな感じで、面白がって見てくれるほど周りの人間も練れていませんでいたからね。
そういう意味では、委員長は個人的に一世風靡よりは元祖タケノコ族を評価したいですね。彼らがこの文化を作ったのは間違いないことですから、そこの部分だけはきちんと認めてあげるべきでしょうね。
元祖ストリート・パフォーマンスってやつでしょうか。
彼らの発想は踊る場所を求めて原宿に辿り着いたってことですから、「見世物化」していったのは後年のことですね。
きっかけは自分たちの場所を作ったってことで、やはり「道の上で踊った」先駆けだと思います。
後年に続くロックンローラーとかセピアなどは、潜在的に売名行為というか「見世物」としてのパフォーマンスを意識したものでありましたから、根本的にモチベーションは違っていたと思います。
それでも、タケノコも続けていくうちに結局は見世物の流れに取り込まれていってしまったんですけどね。一番最初に踊り出したヤツがやっぱりホンモノの道楽者だったのではないでしょうか。

ちなみに委員長も、店に出入りしていた中高生をよく可愛がったりましたが、彼らの感性には結構刺激を受けましたね。(可愛がったと言っても怪しい関係ではありませんヨ)
特に面白かったのは、今までのディスコの流れというか、踊りの形態が淘汰されていくのがはっきりとわかったことでした。
トゥモローUSAにちょこちょこ紛れ込んでいた女子高生二人組がいたんですけど、まずファッションが面白かったですね。当時はオカマ系っていうのが随分と枝分かれしてきていて、中近東風のコスプレ型、エスニック無機質系テクノ型、もんぺ風麦踏ダンス型などがありました。で、彼女たちは無難なもんぺ風麦踏ダンス・ファッションだったんですけど、踊りが実に個性的というか先輩方の流れをきちんと引き継いでいるんですね。しかも色々と混ざり合った情報として受け継がれていました。
まず、両手を振り上げてウォークしていく踊りはたぶんステップとオカマが混ざった型で、途中両手をパシッと打ってジャンプして止まってポーズ、これはいわゆるファンキーフルーツですか?更にスキップして横に移動、かけ声がかかる、これはタケノコ系でしょうか。
要は、彼女たちの目に映ったディスコの先輩の踊りがそこで体現されているんですね。
ファンキーフルーツとかロボットなども、彼女たちの目を通して見るとこのように映っているのかぁ、と妙に納得したりしました。

見るからに子供子供した顔立ちで可愛かったので、よくゴハンを食べさせてあげたりしましたが、案の定慣れてくると群れをなしてやってきて軍団化してしまい、結局はタケノコになっていってしまったんですけどね。
この頃の委員長はバンドデビューとか狙っていましたから、今時の中高生の趣向と言うか好みが知りたくて可愛がっていたこともありますが、高々5~6年とはいえこの感性の違いには正直言って驚きました。

もう少し年上の子たちになると、まだSOUL時代のディスコを自身が体験していますから、きちんと選択がなされているわけです。私たちはファンキーな踊りは出来ないから、オカマで良いんだとか、僕らは正統なSOULダンス派ですとか、これからはテクノポップですよ、のようにそれぞれがきちんと趣向を分けて掌握しているんですね。
更にその上の委員長の時代の人間になると、時流についていけなくなっているのも何人かいて、昔のステップとかに固執するやつなんかも出てきたりして、たった数年のディスコ文化でこれだけ感性が違っているというのも別の意味で驚きでした。

委員長の時代はやはり頂点には黒人がいて、その流れを踏襲することで自分をアピールしていたわけですが、数年後のダンスフリークには、もうSOULとかFUNKとかDISCOが一本化されていて、ジャンルにこだわる自分の方が逆に恥ずかしくなっていった感すらありました。
どこでどうジャンル別けされるのかというとこれも甚だ疑問ですが、この78年にブームの火付け役となったサタデーナイトフィーバー以降は、黒人っぽい音楽はFUNKとかヘビーファンクとか呼ばれるようになっていって、その他をひっくるめてディスコサウンドと表現したように思います。
殊更黒人にコダワッタ委員長は、この時点で趣味と仕事の分割が行われたと言っても良いでしょう。自分が楽しんで聴いたり踊ったりする音楽は、もう仕事場ではしょっちゅうかけることはできないという戒めを行ったのでした。(笑)
少なくともヨーロピアン系のサウンドは、委員長の中ではお仕事の音楽という位置付けがなされました。
サタデーナイトフィーバーとよく比較される映画にT.G.I.F.がありますが、これはコモドアーズが出てるって事くらいで、委員長にとっては似たり寄ったりにしか過ぎず、SOULマンはやっぱりドナ・サマーじゃ踊れませんでしたね。
かといって、78年代のディスコじゃパーリャメントやファンカデリック、JBですらかけるのに抵抗がありましたから、まさに時代の変わり目だったのかもしれませんね。
ということで、この年委員長はアフロ頭を落としケジメをつけることになりました。
といってもチリチリ頭のカーリー・ヘアという往生際の悪い断髪式でもありました。
ああ、もう一度薄暗いダンスフロアでアフロのおねーちゃんとSEXYにダブルパンプを踊ってみたい。
ディスコが健康的になったらエアロビですよね。
やっぱり不良は薄暗い店内で如何わしさの漂う雰囲気が好みです。






最終更新日  2012年03月30日 17時50分53秒
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2005年09月08日
今日もまたまた調子コイて、1978年代のディスコめぐり赤坂~六本木篇です。

赤坂ビブロス(赤坂見附駅前)
白人系も多かったロックディスコですか?
言うなれば元祖サーファー系じゃないでしょうか。
正直言って委員長は、かなり昔に1~2度行っただけでもうお腹一杯でした。(確か2階席からタバコの灰をアフロ頭に落とされたことがあって、それ以来行ってなかったと思います)
2ドリンク付 男性3000円、女性2000円

赤坂ムゲン(ビブロスの同ビル隣)
1ドリンク付 男性2500円、女性1500円
二階建てになっていて、バンド演奏時はDJブースがクレーンで上に上がります。
バンドもホンモノ黒人バンドで、コンファンクシャンがここに出ていたことは有名。
ステージが丁度中間くらいに位置するような造りになっていて、一階のダンスフロアーからは見上げる感じで、二階席からだとライブ・コンサートを観賞するような感じでした。
委員長はとにかくこの店が大好きでしたね。とにかくバンドが皆カッコよかった。
下手な外タレのコンサートなんかよりよっぽど楽しめました。ブラザーも多くて、ちょっと異国情緒溢れるディスコって感じで、赤坂の雰囲気も好きでした。
こんな店が残らなかったのは本当に残念で仕方ありませんね。

赤坂ブッチー(青山通り側扇屋ビル4階)
ディスコというよりはパブでした。
入場料無料で水割り600円~。女の子同士が多かった。
ブッチーで思い出しましたが、プロレスラーのブッチャーってのがよく赤坂で遊んでいましたっけ。酒飲んで暴れて店の備品とかぶっ壊しちゃったりするんで、非常に嫌われておりました。でもってキャッシュ(札びら)切って弁償するんですけど、結構ムチャクチャなヤツでしたね。

赤坂ポテトクラブ(みすじ通り松平ビル11階)
大人っぽい店でした。いかにも赤坂って感じ。(どんな感じやねん)
男女ともに3500円チョイ高かったケド落ち着いた雰囲気が赤坂っぽかった?

赤坂ホワイトハウス(かなり青山に近かったですね)
ここも大人のお店って感じでした。ゲーノー人やスーホ(ホステスさんですね)が客連れていくような玄人ぽい店でした。いわゆるサパー系みたいな。
男女共に4500円ってちょっと高くね~?

赤坂ハレム
このブログにも何度も登場しましたが、一ツ木通りの赤坂見附寄りにあった黒人専門店(笑)でした。入場料は1ドリンク付で1000円だったかなぁ~。とにかく店の中に入った途端ムスクの香りがぷんぷんして、古くさいボックスシートに黒い人達がウザウザと座っていて、目ん玉だけが白くギョロギョロって感じのスリリングな店でした。

赤坂マンハッタン(千代田線赤坂駅より徒歩10分)
赤坂から六本木に抜ける道の一角にありました。
現在のツインビルを抜けてIBMへ向かう坂の途中を右に折れた変なところにありました。入り口が斜面になっていて、隠れ家みたいな感じでしたね。隣に神社もあったし。
道路隔てて、前はホテル・シャンテ赤坂(お城のような連れ込みホテル)が当時はとってもおしゃれでした。(戦後ここは外人娼婦の溜まり場だったそうな)
この時代はディスコ教会勝本会長が仕切っておりました。
DJはガミタ君ことタガミ君でした。深夜遊びに行くと、EMOさんが一人で昔のステップ踊ってたりして、ちょっと暗かったですね。雰囲気的に。
後に知ったのですが、このマンハッタンのオーナーは細木数子さんだったらしいですね。
もちろんオーナーは何度か代替わりしたと思いますが、島倉千代子さんも所有してらっしゃったこともあるとか、由緒あるお店のようです。(なんのこっちゃねん)
1ドリンク付 男性1500円、女性1000円

この頃、スーパーコップスはまだあったのかなぁ。記憶がはっきりしません。
でも五郎さん二郎さんが新小岩に居たってことはもう潰れてたんですかねぇ。
六本木のパート2も寿命が短かった気がしますから、78年には両店とも無くなっていたのかなあ。。。。。

というわけで次は六本木です。

インフィニティ(飯倉方面レーヌビル1階)
ハイ、お馴染みニック岡井店長のお店です。
入場料無料。水割り500円~(名門ですか?)

エンバシー(渋谷方面渡辺ビル2階)
この時期は飲み放題食べ放題で男性1500円、女性1000円でした。
今にして思えばやっぱり時代の流れには逆らえなかったのかなあ。

グリーングラス(エンバシーのチョイ手前ユニ六本木3階)
学生ディスコとか言われてましたが、パブっぽい感じの明るい店でした。
雰囲気は悪くなかったケド、面白みのない店だったかな。
男女共に2200円。なんとオープンDJは、委員長の昔馴染みのマチャアキでした。

サハラ(メインストリート沿い六本木プラザ5階)
大衆パブって感じで新宿ぽかった記憶があります。歌謡曲とかもかかってたし。
1ドリンクおつまみ付で男女共に1100円。六本木にしちゃ中途半端な感じだったなぁ。

TGIF(サハラのチョイ先を入った所にありました)
委員長の大先輩サミーさんのお店でした。
相変わらずサミー・ディビスJr.の物真似ショータイムとかやってましたね。
1ドリンク付男女共800円、週末は確か1000円だったような?
ここも寿命は短かったと思います。後年すぐ近くにキサナがオープンして、話題も客も皆持ってかれたって感じです。(委員長の個人的見解ですヨ。笑)

ズッケロ(エンバシーのひとつ先オリエンタルビル地下1階)
昔から大人の店でした。ディスコと言うよりはパブ系です。
その昔、年上の彼女とよく行ってましたが、この時代はほとんど行かなかったですね。
男女共に入場料1000円。ボトル・メンバー制だったと思う。

スタジオONE(スクエアビル6階)
はいはい、お馴染みですね。スクエアの代表選手みたいな店でした。
内装は特別な感じはしませんでした。長方形のスケートリンクみたいな感じだったなぁ。
2ドリンク付男女共1500円で朝の4時までがうたい文句でした。

ネペンタ(スクエアビル8階)
はいはい、こちらもお馴染み、というかやっぱりスクエアの顔でした。
アフリカ像が好き!って妙な感じの店でした。
飲み放題食べ放題で男性3000円、女性2500円。
インテリア以外はあまり記憶に無いのはなぜでしょう?

バイカウント(スクエアビル3階)
変なショータイムがありました。でもはっきり言って1度しか行ったことありません。
1ドリンク付男女共2000円。
確か、一時フィリッピン人のレビンがDJやってたような気がするんですが、定かじゃありませんね。アメリカ人のベガスショーみたいなの演ってたんじゃなかったかなぁ。中に美人のオカマがいて、レビンに騙されて声かけた覚えがありますね。もちろん満足に英語喋れませんから、テーブルでお話しただけですよ。レビンがネタばらすまで女だと信じてましたからねぇ。ちょっと小柄で金髪、胸が大きくて結構やばかったですね。(笑)

パウワウ(スクエアビル10階)
はっきり言って行ったことありません。すんません。
男女共2500円。

フーフー(スクエアビル9階)
店内は装飾されたレストランとネオンのフロアーに分かれていました。
飲み放題食べ放題で男女共4000円。高かったケド料理は一流でした。
ちょっと高級な感じで、

ボビーマギー(ロアビル13階)
新宿プレイハウスのアダルト版みたいな店でした。
客層も大人というかオッサンやらスーホ(ホステスさんですね)が多かった。
昔はバンドも出てましたが、この頃はDJだけになってたんかな?
1ドリンク+フリーフードで男性3000円、女性2500円。

メビウス(六本木ハイツ1階)
俳優座を越えて日本フォノグラム社の先でした。
そういえば同じ通りに「ピクニック」っていう小さなレストランがありましたね。
ということで、この頃は1ドリンク500円になってしまっていました。
レオパ変身前の末期的状態だったような・・・・。

パープルオニオン(ミラックスビル地下1階)
TGIFのもうひとつ先、ピットインの手前でした。
半円形のフロアーからライトが照らし出され、ちょっとファンタスティック(笑)な雰囲気の店でした。男女共1500円。

ということで、1978年当時の新宿~渋谷~赤坂~六本木界隈のディスコを思いつくままに振り返ってみましたが、まだまだ他にもあったと思います。
どうも時代がはっきりしない店もあって、アイとかプラスワン、ジュニアとかウィスキー・ア・ゴーゴーとか78年に未だあったのか、閉店していたのか、よくわからないものは書きませんでした。
当時遊んでいた方達には、甘く切ない思い出が蘇ったのではないでしょうか。
オレの店が抜けてるぞぉ~とか、この店を知らなくてどーする、みたいな方がおいででしたら、是非ともキーワードを掲示板にでも書き込んで頂けましたら幸いです。
また、現役バリバリの道楽者の皆様には、現在のこれら繁華街の20数年前の姿を想像して頂き、今と比べたら結構可愛い遊びで皆喜んでいた古き良き時代に少しでも触れて頂ければ幸甚と存じます。






最終更新日  2005年09月22日 15時24分43秒
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2005年09月07日
今日は昨日に引き続いて1978年当時のディスコをざっくり振り返ってみましょう。
まずは新宿地区です。

新宿ムゲン(歌舞伎町モナミビル3階)
席料+料理一品+飲み物サービス(税込)女性1580円男性2300円
ボトル・オールド4500円、カティサーク・ホワイトホース6500円、レミー1万五千円
この当時はまだバンドも出演していました。この年は委員長のライバル・ジョニーのバンドBIBが出演していました。

新宿クレージーホース(歌舞伎町モナミビル5階)
ボトル+料理一品(税込)で会員は約2000円、初回はこれに2000円プラス。
ボトルはロバート・ブラウン。全員が自動的に会員になる独自のシステムですね。

ポップコーン(歌舞伎町モナミビル8階)
値段はムゲンと同じ。

*確かこのモナミビルの7階は炉辺焼き「北の家族」だったと思います。
座敷(板の間)があって、DJがよくここに集って飲み食いした記憶があります。
ポップコーンのファンキー太郎こと山田氏がここの厚揚げ豆腐を皆に薦めていました。ちなみに最上階は焼肉屋さんでした。後年ここが大爆発起こして、ディスコの床が抜けて大事故になったんだよね。

新宿インディペンデントハウス(歌舞伎町東亜会館6階)
飲み放題・食べ放題のバイキングシステム
平日は夕方6時までに入店すると女性900円、男性1700円
6時以降は女性1500円、男性2300円
土曜及び祭日前夜は6時までが女性1800円、男性2000円
6時以降は女性1800円男性2500円
営業時間は夕方5時~11時30分、土曜、祭日前夜は深夜1時まで。
ジョイ吉野が作り上げたサウンド・システムは素晴らしかったです。
彼は元々三菱電機出身で、配線図なんかも自身で書いてたし、機材も全部自分で調達していました。

新宿シンデレラ(東亜会館5階)
5時~深夜
飲み物+料理付きで男性2500円、女性1500円
確かオープンは夏だったと思います。9月だったかなぁ~。

カンタベリーハウス・ギリシャ館(東亜会館4階)
5時~11時30分
飲み放題食べ放題(税込)男女共3000円

カンタベリーハウス・ビバ館(東亜会館3階)
5時~11時30分
飲み放題食べ放題(税込)男性2200円、女性2000円

カンタベリーハウス・三号館(新宿東口武蔵野館4階)
5時~11時30分
飲み放題食べ放題(税込)男女共3000円
このビルの1階は映画館でした。三愛もありましたね。地下の喫茶店エトワール?だったかな、コーヒー・ゼリーが美味しかった。

カンタベリー・ツバキハウス(テアトル新宿5階)
5時~深夜
飲み放題食べ放題(税込)男女共3000円
1階に映画館のあるおしゃれなビルで、ここもいつの間にかカンタベリー系になっていました。

こうして見てみると、この年はまさにカンタベリー・チェーンの快進撃って感じですね。
オーティス中村氏が偲ばれます。(って故人みたいな言い方するなよ)

ブロウハウス(風林会館裏HIDEビル地下1階)
会員は年間2000円でボトルはロバート・ブラウン5000円。
女性同士はいつでも1500円フルーツ・サービス付。5時~5時まで。
ここはフィリッピン・バンドが出ていて、ちょっと大人というかオッちゃんたちのパブって感じでした。ダイショウ・チェーンですからクレージーホース系です。

アップルハウス(新宿歌舞伎町)
5時~1時
飲み放題食べ放題(税込)男性1800円、女性1600円

ブラックシープ(歌舞伎町千代田ビル地下1階)
5時~深夜
男性1980円、女性1480円

ゲット(新宿東口ロイヤルプリンス・ビル4階)
3時~11時30分
1ドリンク付き700円

ソウルトレイン(東口みよしビル3階)
4時~11時30分
男女共入場料1000円

スキャット(歌舞伎ビル3階)
4時~深夜
飲み放題食べ放題(税込)男性2000円、女性1500円
その昔イサムちゃんがDJやってた店ですね。
確かダイタン商事崩壊のあと、杉社長が買ったんだと思います。
店の前に掲げられた看板が絵で、トゥモローUSAの大型写真が模倣してあり、アフロ頭のDJが手を振っている姿のモデルはなんと委員長でした。結構笑えましたね。

ステージ(アシベ会館隣)
5時~深夜
飲み放題食べ放題(税込)男性2000円、女性1500円
このお店はいつ開業していつ閉店したのかもわからないほど、知る人ぞ知るって感じのディスコでした。一時ダンサーズのTGIFが練習場所にしてたので、何度か監督をお願いされたことがありました。

ソウルハウスGO(新宿三丁目高山ランドビル地下2階)
4時~11時30分
1ドリンク付 男性1000円、女性700円
このお店もよく代替わりしましたねぇ。確か開業時はソウルハウス「GOOD」で、次がDを取って「GOO」、さらにOを取って「GO」、最後は何も無くなりました。

チェスターバリー(歌舞伎町ピアザタテハナビル4階)
5時~深夜
1ドリンク+料理一品(税込)男性2400円、女性1800円
ダブルDJ方式って単にDJが同時に二人いるってことでした。
この後ミルキーウェイがオープンして、なんだかいっぱいDJがいたような気がします。
それだけ出入りが激しかったってことですか。
ざっと思いつくだけでも、赤シャツのみつぐ氏、イサムちゃん、ペケ、ジン君、テリーもいたそうですね、更にあのV-oneの恐怖のM浦さんがアフロして現れたときには、どーしようかと思いましたね。

プレイハウス~ニューヨーク・ニューヨーク
たぶん改装してオープンしたのは翌年79年だと思いますので省略。
同じく、ビッグ・トゥゲザー、ツモローUSAも省略。
ニューヨークは赤シャツのみつぐ氏が売り出したお店として印象に残っています。
トゥゲザーは後にハローホリデー、ゼノンと変わっていったんでしたっけ。

ワンプラスワン(東宝会館6階)
トゥモローUSAの姉妹店でした。
元々はパブ「青春の館」という店で、池袋にも支店があったはずです。
ダイタン商事崩壊の時に、USAの小林社長が買ってディスコにしたんですね。
この時、仲間の杉社長はパブスキャットを買ったんだと思います。
オープン時はジュリー共々委員長も交代でDJに入りました。

PUBツモロー(スタッセビル4階)
5時~深夜3時
飲み放題食べ放題 男女共2500円
その昔、ハリマオという日本のロックバンドがここからデビューしました。
メンバーは中々の苦労人だったようです。その彼らを育てたのがUSAの小林社長だったとのことです。当時小林社長は支配人をやっていたらしいですが、バンドメンバーは休憩時間に客席回ってオーダー取ったと言ってました。もちろん契約切られないためですね。
はっきりとした記憶はないのですが、確か腰にガンベルトのようなストラップをつけて、ギターをくるくる回すパフォーマンスで有名になったのではなかったでしょうか。

ブギーボーイ(新宿2丁目)
9時~深夜
20歳未満お断りの本格ゲイ・ディスコ
料金は飲み物食べ物すべて500円
オカマ・ダンスの流行から、皆でホンモノのオカマを観察に行ったらしいです。(なんかようわからんかったですね)
オカマっつーよりモーホーが多かった気がします。
踊りの勉強にはならなかったようですが、常連になってしまったヤツもいるとか。

ブラックボックス(新宿厚生年金会館裏)
9時~深夜
1ドリンク付男性500円、女性1000円
男の方が安い! 当たり前ですね。当時一番有名な店だったのではないでしょうか。
ホンモノのオカマダンスが見られるぞぉ~ってことで行きましたが、確かに本当のオカマが踊っていましたが、ファッショナブルでも上手でもなく、ドサクサに紛れて体を触られるだけのことでした。倒錯した世界が好きな方が多かったですね。

ついでですから渋谷~原宿もいっちゃいましょう。

渋谷パブ野郎(道玄坂大外ビル8階)
ボトル会員は料理二品、ミネラル・ウォーター1本(税込)1980円。
1ドリンク付きの場合は料理二品(税込)2530円。
ボトルはロバート・ブラウン2300円。
5時~11時30分まで。
この時の店長伊藤さんは以前新宿ブラックシープにいました。

渋谷ブラックシープ(プリンスビル4階)
5時~11時30分。男女共に1980円。
ちなみに上野にもありました。(御徒町寄り上野広小路側大和ビル3階)

渋谷ソウルトレイン(岩本ビル3階)
すんませーん。委員長は一度も行ったことがありませんでした。

78年当時の渋谷はディスコってダメだったですね。
盛り上がってきたのは後のサーファーブームあたりからでしょうか。

原宿イベリア(表参道と明治通りの角GA-Zビル6階)
5時~11時30分、土曜日は深夜2時まで。第一と第三月曜が休み。
1ドリンク付き平日女性800円、男性1300円
土日は女性1000円、男性1300円
平日6時までの入店は女性無料、男性800円
ボトルはウィリアム・ローソン3500円
確か社長は薬屋の息子だったとか?
この当時の原宿、青山は大人しくて、ディスコと言う感じではありませんでしたね。
店を出たところ、まわりがやたら静かでかえって落ち着きませんでした。

ついでに池袋いっちゃいましょう。

池袋エル・クレッセント(池袋西口勝又ビル1階)
8時~4時日曜休み
1ドリンク・システム男女とも平日550円、土曜が1100円。
店長の村上さんは元パブ・ツモローの主任でした。

池袋アダムス・アップル(西口ロサ会館)
男性2000円 女性1500円
バンドとDJの交代制。

特別に新小岩もご紹介しちゃいましょう。

新小岩アリマ(新小岩北口かに谷ビル4階)
5時~11時45分、土曜日は深夜2時まで。第三月曜定休日。
前金チケット制で女性1500円、男性2000円

新小岩ピラミッド(新小岩南口東栄ビル5階)
5時~0時
1ドリンク付き(税込)女性1100円、男性1650円
なんと支配人は、あのメビウス~コップス~シンデレラの五郎さんでした。
一時こんなトコでシブイことしてたんですね、五郎さんこと吉山店長。

いや~、とにかく凄い数ですね。
特に新宿歌舞伎町はディスコの街って感じです。
あと、小さい店もいくつかあったのですが、名前とか場所とかが曖昧です。
資料も殆どないので、当時のチラシの断片とか雑誌の記事の切り抜き(っていうかたまたま残っていたページの切れ端みたいな)から辿ってますので、皆様からのキーワードなど頂けると非常に嬉しく思います。
歌舞伎町の入り口あたり(一番街じゃない方の通り)にもいくつかあったと思いますが、親爺の記憶も断片的で時代も曖昧です。
さらに区役所通り近辺とか、伊勢丹前とか、色々なお店があったと思うのですが、時代と場所が今ひとつ噛み合いませんので、また思い出したら書きますね。
ということで、なんだか資料みたいになってしまいましたが、明日は六本木~赤坂も振り返ってみたいと思います。






最終更新日  2005年09月22日 15時24分23秒
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2005年09月06日
1978年が道楽者にとってどれだけ激動の年であったか、一年間の出来事をちょっと振り返ってみましょう。
まずはこの年最大の話題と言えば、カラオケ・ブームの始まりだったですね。
8トラック・カラオケ・システムでスタートしたカラオケは、瞬く間に飲み屋の必需品となりました。「カラオケあります」の張り紙が懐かしいですね。

1月:TBS放送歌謡番組「ザ・ベストテン」がスタートしました。
札幌でブリティシュ・ロック「レインボー」のコンサート会場で女子大生一人が圧死、8人が重傷を負った事件は、「悪魔に魂を売った男」の伝説を裏付けました。

2月:フォークの神様ボブ・ディランが来日。ちょっと時代がずれた感もありますが、学生運動で大活躍された団塊の世代が随喜の涙でお迎えしました。
映画ではスピルバーグの未知との遭遇封切。パピポパペ~という妙なトーンが耳についていますね。
さらにモンチッチが流行します。とにかく流行りましたおサルのモンチッチ。

3月:世界最大客船クイーン・エリザベス号が横浜に来航。こんな船で世界一周する人たちって?そのスケールの大きさにビビりました。
国鉄(JR)常磐線・地下鉄千代田線・小田急線の三線が直通運転開始。
委員長は小田急線梅が丘駅に居住していましたので、大変便利になりました。
ミス・ユニバース代表に萬田久子が選ばれました。翌々年にNHKの「なっちゃんの写真館」で女優デビュー。

4月:VANジャケット倒産 日本人アイビーの元祖、あの青山通りの看板が消えました。
創業者の石津謙介氏と「メンクラ」こと男性ファッション誌メンズクラブが、日本男子にもたらせたおしゃれ感覚への功績は大きなものでした。
キャンディーズ後楽園で解散コンサート。
「私たち明日からフツーの女の子に戻ります」って涙のセリフが忘れられません。
ピンクレディーとともに時代を飾ったアイドル、バラドルの元祖でした。
この系統は、後に続くヲタク系とかコスプレ系とかアキバ系とかに受け継がれていきました。

5月:新東京国際空港(成田)開港。千葉でなぜ東京空港なのか?皆の疑問でした。
勝新太郎アヘン所持容疑で書類送検。このあとパンツ事件に続きますね。

6月:スターウォーズ封切。記念すべき第一作目です。シリーズ最新作までざっと26年ですよ。凄いですね。それでもウルトラマンにゃかなわんね。

7月:山口組田岡組長狙撃事件。京都のナイトクラブ「ベラミ」で銃撃された山口組三代目。業界では大騒ぎとなりました。後に映画化されましたが、日本の西のドン撃たれるは衝撃的でした。
サタデーナイトフィーバー封切。第二次ディスコ・ブームの起爆剤となったジョン・トラボルタ主演の青春映画は世界的なブームを巻き起こしました。

8月:矢沢永吉の後楽園コンサート三万人動員。我らが永ちゃん28歳、キャロル解散から三年目の偉業を達成。星のマークが印象的でした。
さらば宇宙戦艦ヤマト封切。未だにヲタク系には異常な人気があります。
巨人軍王選手800号ホームラン達成。日本中の話題をさらいました。
堀内孝雄の君の瞳は百万ボルトが資生堂のCMソングとしてヒット。

9月:時間よとまれ、ミスター・サマータイムがイメージソングとしてヒット。
ディスコでもよ~くかかりましたね、この2曲は。

10月:テレビドラマ「西遊記」モンキー・マジック放映開始。夏目雅子、堺正章、岸部四朗、西田敏行出演、ゴダイゴのテーマソング「ガンダーラ」がヒット。
世界5000号のマクドナルド江ノ島店開業。
このあたりからサーフィンブーム到来 湘南・千葉方面大渋滞しました。
西武ライオンズ誕生。クラウンライター・ライオンズをコクドが買収。

11月:国鉄(JR)「いい日旅立ち」キャンペーン。山口百恵さんですね。
円広志「夢想花」世界歌謡祭グランプリ受賞。「とんで、とんで、とんで、とんで・・・・」
本人もこれ一曲で飛んでいってしまいました。

11月:江川投手巨人軍と空白の1日電撃契約。そこまでやるか、と言われた歴史に残る茶番劇でした。悲劇の小林投手が歌手デビューしたりと、プロ野球界も色々と楽しませてくれました。

12月:俳優田宮二郎自殺。名優の突然の悲報にファンは愕然としました。
そして日本レコード大賞はピンクレディの「UFO」。
どうしてもアホの坂田を思い出してしまうのは何故でしょう。「アッホー!」

そしていわゆる竹の子族が登場してきたのもこの頃でした。
まだタケノコとは呼ばれていませんでしたね。皆ディスコで踊ってたし。
中高生が段々と群れを成していくようになってしまい、警察からも睨まれ、ディスコからも迷惑がられ、遂には追い出されていったというのが実情でした。

サラ金地獄で自殺者多発。これも一種のブームと言うか社会現象でした。
フレンチジーンズ・ウェッジソールシューズが大流行。ディナー・ジーンズとか呼ばれてましたが、意味よくわかんないですね。夕飯の喰えるジーンズって何か特別なことだったのでしょうか?
ファラ・フォーセットのヘアスタイルが一世を風靡。初代チャーリーズ・エンジェルですね。サーファー・ルックのおねーちゃんたちにこの手の髪型が多かったような気がします。

小松政夫と伊藤四朗の名コンビが放ったギャグがバカウケでした。
「しらけ鳥、飛んでゆ~く南のそ~ら~へ、ミジメ~ミジメ~」

まあ、とにかく次から次へと話題に事欠かない年でもありました。
とは言うものの、やはり遊びの主流はディスコでした。
サタデーナイトフィーバーのおかげで、まさに雨後のタケノコのようにディスコが乱立したのもこの時代ですね。
せっかくですから明日は当時のディスコをざっくりピックアップしてみましょうか。
乞ご期待!






最終更新日  2005年09月22日 15時23分57秒
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