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非生産活動推進委員会

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1979年頃のディスコのお話

2005年10月29日
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ディスコ・バナナビーチは、石川県金沢市片町のメインストリートの交差点に面したビルの6階にありました。
企画事務所エスメラルダの初めてのDJ派遣として、当時ワンプラスワンにいたトモミが飛びました。
期待通りの仕事をこなしてくれたトモミですが、当初の約束3ヶ月が過ぎても中々後任が見つからず、だらだらとひと月が経ち、ふた月が経ちするうちに彼の苛立ちも限界に来て、仕方なく間に合わせにサム岡田を送ることになりました。
ところがこのサム岡田がとんでもない不始末をしでかしてしまい、その償いも含めエスメラルダを代表する委員長が出張ることとなったのでした。

当時の金沢ではこのバナナビーチは異常なほどの盛況振りで、ライブコンサートなどでこの地を訪れた大物アーティストの方々なども必ず顔を出すといったような、地元では大変人気のあるプレイングスポットでした。
また、地方都市では東京に少なからず憧れやコンプレックスのようなものがありますから、東京からやってきたDJが人気者にならぬはずがありません。
もちろん東京から来たといってもそれが東京人であるかどうかは別問題で、その雰囲気に夢見る若者が多かったってことだけです。
その東京ですら地方人の集合体ですから、一体何を持って都会というのか難しいところですが、まあいつの時代でも若者は未知の世界に憧れるものです。

トモミの後釜が見つかるまでという約束でイヤイヤ飛ばされたサム岡田でしたが、なんとこいつは店の従業員と出来てしまい、しかも東京に連れて来てしまったものですからジュリーの逆鱗に触れたのは言うまでもありません。
元々いい加減な世界ですからジュリーや委員長も偉そうなことは言えませんが、店の従業員に手を出したとなると話は別問題です。
当事者はお互い軽い気持ちで合い通じたのでしょうが、こちらとしてみればスポンサーの信頼を失墜させる一大事です。
結局のところ彼女が抱いていた夢の東京生活も、サム岡田のだらしなさを目の当たりにして一週間も持たず喧嘩別れの後、彼女は金沢に戻りお店にもそのまま復帰しました。

かくして、この落とし前は責任者の委員長が出張って行って直々にお詫びするしかないだろうということになったのでした。
と同時に、この頃バナナビーチのあるビルの地階に姉妹店として大人向けの「つなぎ」専門のディスコがオープンしたということもあり、ゲストDJ&ダンサーということで委員長が無料奉仕にお伺いいたしますという話になったのでした。

小松空港に降り立った委員長を出迎えてくれたのは新米DJ○弘君でした。
彼は高田馬場リチャード三世で実施していたブル渡辺講師のDJ教室を優秀な成績で卒業し(笑)、見事ここ金沢でDJデビューを果たした大学生でした。
そしてもう一人バナナビーチのオリジナルDJのXX君が、自分の車を運転してはるばるやってきてくれていました。

霙の降る小松空港からXX君の軽自動車に乗りこんだ委員長は、車中で○弘から店の状況や金沢の土地柄などを聞かされましたが、目の前を過ぎゆく景色はどんよりと暗く、いつになく不安な気持ちに苛まれました。
委員長は金沢到着と同時に関○部長にサム岡田の一件を詫び、新たにオープンした姉妹店の派遣DJが決まるまでの間、両店のお手伝いをさせて頂くということで何とか丸く収めて頂きました。

この関○部長という人は、バナナビーチがオープンした頃のマネージャーだったのですが、当時出演していたフィリッピンバンドのメンバーが急病で倒れた際に、音楽の心得があったことからメンバーのトラを務め、以後バンドとマネージャーを兼務したという中々異色な才能の持ち主でした。
そんな才能を会社に買われてバナナビーチ店長となり、そしてこの第二次ディスコブームを契機にして部長に昇格、姉妹店のオープンとなったというような経緯でした。
更にこの関○部長自身がミュージシャンということもあり、サウンドシステムも自ら設計デザインし、当時東京でも珍しかったシンセサイザーを取り込んだサウンドエフェクターなども使用しておりました。(タイプ的にちょっとムラちゃんに似てて神経質そうでした。ポジションもベースだったし、顔や体型も良く似てました)

当時はやはりスタジオ54から始まった「つなぎ」という新しいタイプのDJスタイルに皆が関心を持っており、関○部長も自身がチャレンジすると共に若手の育成にも力を入れておりました。そこで紹介された関○部長の秘蔵っ子がモンチ田中でした。
まさしくモンチッチ、小柄のお猿さんというような風貌の彼は何故かすでに委員長の名前だけは知っており、初対面ながら先輩として立ててくれたその態度に好感を持ちました。
関○部長も「彼はルックスはペケだけど音楽性が優れているから、裏方つなぎ向きだね」と彼の評価を付け加えてくれたりしました。
まさかこの彼が後に東京で一旗上げるとは、この時の委員長には想像もつきませんでした。まわりの従業員にも陰口でサル、サルと呼ばれていた彼は、何だか豊臣秀吉のようでしたね。(笑)

その晩は取りあえず社員寮に泊まることになった委員長、その寮として使われていたアパートに行って驚きました。
東京でも特別良い暮らしをしていた委員長ではありませんが、そこは委員長の想像をはるかに超えた余りにも過酷な住まいでした。
アパート自体はモルタル造りとはいえ中々しっかりとした建物だったのですが、部屋の中に入った途端に北陸の冬の夜は委員長の体を凍りつかせました。
異常に高く積み上げられた綿布団が一組ぽつんとある四畳半に通された委員長、空港まで迎えに来てくれたXX君が親切にも小さな電気ストーブを運んで来てくれましたが、もうすでに手足の先は凍りついておりました。
更に後輩の○弘が追い討ちをかけます。

「明け方は異常に寒くなりますから、ストーブはつけっぱなしにしておいた方が良いですよ」(凍死するのか?)

「お前もここに住んでんのか?」

「いやぁ、ボクはちょっと・・・・、あの彼女ができたもんで・・・」

あー、そーかい。こんな牢獄のような部屋でオレ一人寝かせようってのかい。
などと心の中で八つ当たりしても仕方ありません。
委員長の殺気をそれとなく察知した○弘君、恐る恐る委員長に尋ねました。

「そうっすよね。ロニーさんじゃ、ここには住めませんよね。取りあえず今夜はボクんトコへ来ますか?」

「別にオレはどんなとこでも住める男だけど、寒いのだけはダメなんだよな。とにかくもう一度街まで連れてってくれる?」

ということで、委員長は片町に引き返して店の近くの金沢プリンスホテルにチェックインしました。まさかホテルに泊まるとは思ってもいませんでしたから、フロントで滞在日程を聞かれたものの返答に困ってしまい、取りあえず2日、あとは状況によって変わります、と説明すると「それでは2日分前金でお願い致します」と言われ、なけなしのお小遣いを支払いました。

やれやれって感じで、早速C子に電話して至急に金を送ってもらうことにしましたが、どうもホテル側は委員長を胡散臭い客と思っているような感じでした。
金沢到着初日から北陸の厳しさを体験した委員長、この前後のビータ(旅)が南方系の暖かい仕事だったせいか特別にそう感じたのかもしれません。
慌しい一日が終わり、ようやくホテルで落ち着くと今度は空腹感が襲ってきます。
何か食い物はないかフロントに電話すると、「館内の食堂はすでに閉店しております」とちょっと訛りのある職員のそっけない返事。
それじゃ仕方ないから外で食うか、ってことで外出しようとするとフロントの職員がジロっと委員長を睨んで「カギをお預かりします」と事務的対応。

「この近くで食事できるところありますか?」

「さあ、商店街は9時でほとんど閉まりますから」

と、またもそっけない態度。

外に出てまたまた驚きです。
本当にホテルの従業員が言うように、街は暗く静まり返っています。
横丁の裏通りに提灯がいくつか見えたので路地裏に入ると、バーだかスナックだか数店が営業していましたが、委員長はあまり酒が飲める方ではないし仮に入っても食べ物が無かった日には泣きっ面に蜂です。
とにかくお腹を満たす食べ物を口に入れないことには寝付けませんから、更にあたりをウロつくと冷たい夜の路地裏から暖かそうな湯気の気配。
ラーメン屋が一軒委員長においでおいでをしています。
Oh、神様!
店内は非常に混み合っていて、きっと委員長のように9時までに夕飯を取りそこなった奴らがやってきているのだろうと妙に納得して、早速チャーハンと餃子を頼んでパクつきました。
しかし、満員の店内の客はみな一様に静かに食べ物を口に運んでいます。
そういえば今日は朝からメシ喰ってなかったなぁ、としみじみと噛みしめながら暖かいチャーハンをむさぼる委員長でした。

小さなラーメン屋は旦那と奥さんの二人で切り盛りしているようで、カウンターの中でせっせと料理を作る旦那さんと忙しく動き回る女将さん、そしてただひたすら黙々と食べる客たち。北国のラーメン屋ってのはこんなもんなのかなぁなどと思いつつも、これでようやく眠れそうだな、と満腹の委員長は席を立ってカウンターの中の女将さんに千円札を渡しました。確か5~6百円だったと思いますが、無愛想に札を受け取った女将さんはどんぶりを片付けたり、コップを洗ったりして中々おつりを用意してくれません。
そのうちにテーブルのお客からオーダーの声が掛かったりして、相変わらず委員長のおつりは無視されています。
どうやらこれは、旅人はチップを置くのが当たり前と言っているのだと理解し、委員長はそのまま店を出ることにしました。
店を出て門戸を閉め終わるまで、とうとう委員長の背後から「ありがとうございました」の声は聞こえませんでした。

寒い国の人は体力を消耗させないように言葉はできるだけ喋らない、とどこかで聞いたような気がしましたが、まさにこのことだったのかと納得した委員長、ホテルに帰ってフロントでキーを受け取りましたが、ここでも「お帰りなさい」とか「おやすみなさい」とかの声は聞けませんでした。

北陸の皆様にとってこれは偏見かもしれませんが、委員長が二十数年前に体験した実話ですのでご不快に思われた方は何卒ご容赦下さい。
それでも、昼間訪れた兼六園と武家屋敷は大変趣があり、日本の歴史を生きたままこの目で見たという感じでした。
あれから二十年以上が経ちますが、日本の歴史遺産がそのまま次世代にも受け継がれていくことを祈っております。






最終更新日  2005年10月29日 11時55分53秒
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2005年10月26日

株式会社エスメラルダは順調に勢力を拡大して、委員長自身一体どのくらいの人数のDJを擁しているのかも把握できないほど次から次へと仕事をこなす毎日が続きました。
この頃、地方都市でもディスコブームは浸透し始めており、企画や営業に関する相談事もよく持ち込まれました。
石川県金沢のバナナビーチへ派遣したトモミは十分期待に応えてくれ、エスメラルダの信用も付き、近日オープンする姉妹店の面倒も頼まれました。
更に茨城県日立市にオープンする「ピント」というディスコからも依頼があり、開業準備から携わることになりました。

この「ピント」というお店は、ある輸入業者が並行輸入で仕入れたディスコ機材を販売しながらフランチャイズを狙っていたもので、すでに茨城県では水戸市に1軒開業しておりました。その肝心な機材というのが、映画「サタデーナイトフィーバー」の舞台となったディスコで使用されたそのままの機材というのが謳い文句で、田舎のオーナーを相手にした格好の商売といえそうでした。照明といっても天井からつるした円形スポットが回転するだけの、さほど目新しいものでもなく、確かに映画の中で使われているものと同様でしたが、肝心な床下照明もなく、DJブース機材とセット販売されていることが唯一のセールスポイントでした。素人ではこれらの機材を揃えるには専門家のアドバイスが必要ですし、参考となる店舗も近くにありませんからコスト的にリーズナブルな価格のセットは重宝されたのでしょう。

ということで、今回は開業から立ち会うという話でしたので、社長のジュリー自ら委員長とヒロシを伴って茨城県日立市へ乗り込みました。
上野駅から常磐線に揺られてたどり着いた日立駅は、田園風景が広がるとてつもない田舎でした。
駅名からも解るように、ここは日立製作所が作った街であり、すべてがこの工場によって成り立っている土地でした。
依頼主の日立ピントの専務の車で10分ほど走ると、商店街らしきものが見えてきました。まるで砂漠の中の街といった感じです。
今までのイメージとはうってかわって、どこの町にもある立派な商店街がそこに広がっていたのです。映画館や大型スーパーまであるちょっとした繁華街でした。
その商店街の中央に立つ雑居ビルの地下が日立「ピント」でした。

未だ改装が終わっていない店内に入ると、件の業者が照明器具の取り付けや、DJブースの中のシステムの取り付け工事を行っていました。
まず委員長たち一行はDJブースを覗き込み、機材を見せてもらいました。
中央にミキサーがあり左右にターンテーブル、ポジションは通常のDJブースですが、ミキサーがちょっと変わっていました。
フェーダーが横一文字になっており、左右に動かすことでターンテーブルの音源をクロスオーバーさせるという横型フェーダーでした。フェーダーを中央の位置に持ってくると、左右の音源が半々に被ります。
更にターンテーブルとこのフェーダーはユニットになっており、フェーダーの上にはインディケーター、その上ミキサーの中央からはマイクが1本突き出ています。
ジュリーはじめ委員長やヒロシも初めて見るタイプの機材にちょっと戸惑いました。
特にジュリーや委員長は古いタイプのDJでしたから、所謂「ツナギ」をさほど重要視していませんでしたので大変陳腐なシステムに見えました。

取り付け作業を行っていたシステム販売業者の社長にジュリーが紹介され、ここは未だ取り付けが完了していないので、先ごろオープンした水戸店を見て欲しいということになりました。上野駅から電車に揺られてようやく辿り着いた目的地から、再び業者の車に乗せられて小一時間ほどかけて水戸ピントへと出向きました。
日立に比べて地方都市としては十分に大きな町で、ディスコもそれなりにお客が入っておりました。
システム自体は無難なそれなりのもので特別目を引くものでもありませんでした。

業者の社長はジュリーに「どうですか?」と尋ねましたが、ジュリーは例のごとく「音、悪いですね」とぶち上げてしまいました。
こじんまりとした地方都市のディスコですから、音がどうした、照明がどうしたというほどのモノでもありませんが、俺らはディスコのプロだぜ、といった得意のハッタリでした。
おかげで業者さんたちに置き去りにされてしまった委員長達一行は、またしても電車に乗って日立まで戻ることになってしまったのです。(やれやれ)

午後9時を過ぎると一斉に店じまいしてしまう水戸の商店街はしんと鎮まり返っていて、
なんとか閉店間際の蕎麦屋で暖かい蕎麦を啜って一息つきましたが、なんの因果でこんな寂しい木枯らしの吹く寒空の水戸駅でドンコウ列車を待たねばならないのか、新宿のディスコで華々しく活躍する花形DJ(笑)二人は凍てつく水戸駅で白い溜息を吐いたのでした。

「おい、ヒロシ、電車来るのか?」

「いや~、こりゃ田舎ですから1時間くらいは待ちますよきっと」

「お前ちょっと時刻表見て来いよ」

「何か懐かしいな、田舎思い出しますよ。ボクもこの常磐線で仙台から東京に来たんですから」

「そんなとこで雰囲気出してんじゃねぇよ。このままじゃ三人とも凍え死ぬぞ」

秋とはいえ、夜の茨城はもうすでに冬そのもので、三人はようやくやってきた鈍行に乗って日立駅へと戻って行きました。

かくして日立ピントはDJ派遣と企画を任されることになり、1年契約のおいしい仕事にありつきました。
東京に戻ったエスメラルダ幹部は早速、一番の問題である誰を送るかの人材選定に入ったのでした。
余談ですが、この「ピント」のフランチャイズ構想は残念ながら水戸と日立の二店舗で打ち切りとなりました。
このシステム販売業者さんは茨城県のパチンコ業界オーナーを狙っていたようですが、乗ってきたのは二社だけだったようです。
ちなみにこの二社ともに地元ではちょっとした名士で、パチンコ屋、レストラン、喫茶店等など手広く商売をされていた在日の方々でした。

しかし、さんざっぱらバカにしたこのディスク・システムですが、後年スクラッチの流行でこの横型フェーダーが一般的になっていくとは、この時のジュリーも委員長もまったく想像が付きませんでしたね。ってことは、このあたりの時代からすでに委員長達の感性はズレ始めていたのかもしれません。

さてこうして地方都市のおいしい仕事をセコセコとこなしている間に、都内でも相当な動きが出始めていました。
まずはハローホリデーを何故かチェングがハコ取りして、委員長との裏取引で当時エスメラルダの見習いだったマモルを送り込みました。
続いて上野スパングルのオープン。
ここは花見とホリを行かせて、後にM島を送りました。
赤坂シンデレラも手中に収め、続けて新宿シンデレラも取りました。
ちなみにこの頃の赤坂シンデレラには委員長の戦友テリーがいたらしいのですが、エスメラルダがハコ取りした時には既に戦死していたようです。(合掌)
ここは中村マーちゃんからリト、そしてモリへと引き継がれていきました。
新宿の方はサム岡田が入りました。
そして更なるハコ取りはB&Bへと続いて行きます。
(はっきり言って時期的な記憶が曖昧なので多少のズレはあるかもしれません)
そしてこのB&Bが新宿DJ戦争仁義なき戦いの火種となったのです。






最終更新日  2005年10月26日 06時47分18秒
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2005年10月25日

昨日は久しぶりにファンキー・ドールズの名前が出てきたので、委員長の往年のライバル・ジョニーのエピソードをひとつお話ししておきましょう。

この頃の委員長は髪の毛もさっぱりして、昼間はスーツなど着こんで会社ごっこに勤しんでおりました(委員長の場合はすべてゴッコです)が、夜は夜で相変わらずディスコの色に捲かれて脂ぎっちゃったりしちゃう頼もしい大馬鹿野郎でした。
トゥモローUSAから引き連れてきた常連の中には委員長のファンなんぞもおりまして、更に新宿クレージーホースで新たに出来たご縁の若い娘などともヘラヘラしていたわけですが、ある夜二人組のおねーちゃん達にいきなり声をかけられました。
カーリーヘアにチョイ厚化粧、委員長好みのこのおねーちゃん、なんとその昔高校生の頃にトゥモローUSAで委員長と一緒に写真を撮った仲だったそうで、無事ガッコも卒業し社会人となった今、改めて委員長に会う為にやって来たとのことでした。

おーおー、それはそれはありがたいことです。
すっかり美しいお嬢様になられてさぞや親御さんも喜ばれていることでしょうってなことで、早速お二人を六本木ナイトへお誘いした委員長でした。
実はこの頃、ジョニーのバンドBIBが六本木に出ているということを風の噂に聞いていた委員長は、中々訪れるきっかけがなく躊躇しておりました。
そんな時のおねーちゃん二人の訪問ですから、この機会を利用しない手はありません。
靖国通りからタクシーをぶっ飛ばして一路六本木「最後の20セント」へ向かう一行でした。入り口で履物を脱いでお店に入った委員長たちの目の前では、すでにジョニー&BIBが演奏中でした。

「ワ~イ、エム、シーエー、YMCA」

手振りを付けて唄うジョニーの姿は昔に比べてひとまわり萎んだようでした。
衣装も色あせたジャンプスーツ、ナチュラル・アフロヘアも随分とこじんまりとしていて、往年の輝きは見る影もありません。

一体オレは何を期待してここに来たんだろう。

踊り場の客にまるで媚を売るようにして唄うジョニーの姿は、今の自分自身を写す鏡のようでもありました。

悲しかった。

理由なんかありません。ただ悲しかった。
ステージが終わってジョニーがテーブルにやって来ました。

「ロニー、驚いたよ。久しぶりだね」

「ああ、ここに出てるって聞いてたから・・・・」

愛想笑いこそしてはいましたが、お互い続く言葉が出てきませんでした。

「仕事何時に終わるの?」

「次のステージで終わりなんだけど」

「よかったらどっか行かない?」

「そうだね、ここ出たところにピップスって店があるんだけどさ・・・」

「ピップスなら知ってるよ。じゃ、先に行って待ってるから」

とにかく一刻も早くその場を出たかった委員長でした。
もう彼のステージを見たくなかったし、その場の店の雰囲気からとにかく逃げたいと思いました。
連れて来た女の子たちも、入ったばかりなのにすぐ店を移る委員長を不思議に思っているようでしたが、これ以上ここにいたらこのわけのわからない感情に押しつぶされそうだったからです。

六本木のメインストリート、雑居ビルの地階にあるピップスというお店は、今風に言うとビストロ、洋風パブ居酒屋のような趣で、店内にはサッカーゲームなどが置いてあり、店内のフロアーも客層あるいはお客の容貌で踊りを踊るスペースになったりする、当時としてはちょっとおしゃれなお店でした。
特に深夜の常連客は近隣の同業者やアメリカ人を中心とした外国人なども多く、気分的にはちょっとした外国風な感じのお店でもありました。
そんなお店、ピップスに入ったものの委員長の心は激しく動揺していました。
理由はわかりません。久しぶりに会った戦友の顔を見て嬉しかったのと同時に、虚しく、そしてどうしようもなく悲しい感情は自分でもコントロールできません。

一体オレは何を期待してジョニーに会いにきたんだろう。

自身への問いかけはずっと続いていました。

できればジョニーがここに現れないで欲しい。

複雑な気持ちには理由なんてありません。
感傷的とかセンチメンタルとかではなくて、胸の奥につかえた気持ちが自然に沸き起こってきただけです。
未だにこの時の想いはしっかりと覚えています。

委員長の期待通りジョニーは現れませんでした。
閉店間際に店を出た委員長は女の子たちをタクシーに乗せたまま、一人歌舞伎町で降りてそこで別れました。
わけもない悲しさだけに包まれた委員長は、ふらふらとそのままC子の働くクラブ「同期」に入って行きました。

委員長のいきなりの訪問に驚いたC子。

「どうしたんだね、こんな時間にぃ~」

C子の清水弁が妙に心地よく心に沁み込んできました。

「たまには一緒に帰ろうかと思ってさ」

いつもと違う委員長の雰囲気を肌で感じ取ったC子は、何も言わず身支度をして委員長の腕を引いて表に出ました。

「おなか空いてないかね?」

「・・・・・・」

「何か食べて行こう」

未だ薄暗い明け方の歌舞伎町を抜けて、新大久保近くにあるナイト・レストランに入りハンバーグステーキを注文しました。
C子はビールを頼んで一気に飲み干しました。

「なんかあったのかね?」

「いや、何にもないよ」

委員長はC子の飲み残しのビールをコップに注ぎ、一気に飲み込みました。

「どうしただね?」

「たまにはこうゆう日もあるさ」

「何カッコつけてるだね、この人は。なんかあったんならはっきり言いな」

大きな目を緩ませて笑うC子の顔は一段と優しく委員長の眼に映りました。

「こうしてオレ達も歳取ってっちゃうのかなあ」

「何言ってる?」

「オレは何にも変わってないのに歳は取っていくんだよな」

「変わってなくないよ、あんただって随分変わったよ」

「そうかな、オレはずーっと変わってないと思ってたんだけどな」

「人間は知らないうちに変わっていくんだよ」

二人のテーブルにハンバーク・ステーキが運ばれてきました。

「わぁ、美味しそう。食べよう」

一度知った美味しいハンバークの味はたぶん一生忘れないと思う。
歳を取っても舌が覚えた味は一生消すことができないと思う。
自分の中では変わっていない味だから、また食べたくなるんだと思う。

そんなことを漠然と思いながら、C子と仲良くハンバーグ・ステーキを食べた委員長でした。(今日はちょっとマジな話になってしまいましたね)






最終更新日  2005年10月25日 06時51分51秒
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2005年10月24日
株式会社エスメラルダ設立。
神谷町飯倉のオフィスビルに事務所を構え音楽に関する幅広い活動を開始しました。
と云っても正式に登記した会社ではありません。
いわゆるモグリの音楽事務所、プロダクションです。

委員長も背広などを買い込んできてネクタイなどを首に捲き、毎朝9時に事務所に出勤するようになりました。もちろん夜はDJのお仕事や、地方のディスコへDJやダンサーの出前も取り扱いながら、正規の株式会社設立目指して頑張りました。
事務所の実質オーナーF氏は事務机から応接セット、電話機器などの事務用品一切を取り揃えてくれました。
事務所をお借りする条件はといえば、F氏が開業した商社(?)株式会社タートルの事務を代行するという、言って見れば事務所の電話番と管理でした。
事務所開きはアチコチから花輪なども届き、風呂敷に包まれた「ご祝儀」を持って駆けつける黒服の紳士たちはいかにもといった方々ばかりでした。

来賓のお客様が来るたびにF氏はネクタイ姿のジュリーをいちいち紹介してくれました。

「あー、鈴木君、こちらがXX組の△○さん」

といった具合に音楽業界にはあまり役立ちそうもないお歴々ばかりでしたが、その度にF氏が「若社長の鈴木君」と言って紹介してくれる姿は心強いスポンサーのようでした。

これら大物来賓客に混じって、渡部氏を筆頭にレコード会社の面々も訪れてくれましたが、余りにも立派な事務所にみな大変驚いておりました。
そりゃそうですよね。飯倉といえば立正佼成会の本部がある都内一等地。しかも交差点の角ビルです。地上階には銀行も入っているビルの一室、それも社長室まである大きなスペースに事務所を構えたのですからこれほどのハッタリはないでしょう。

この時雁首を揃えたエスメラルダ幹部は、鈴木社長、ロニー営業部長、マネージャーのヒロシ、ホリ、花見、事務員のMちゃんの6人。
華々しい晴れの舞台で業界の訪問を受けた面々でした。
事務所の開業と同時にエスメラルダの所属DJは社員扱いとなり、給料も事務所で手渡すようになりました。
事務所を訪れたDJの面々もこのハッタリにかなりビビってしまい、この後ディスコDJも含めタレント志願者が続々と訪れるようになりました。

中でもかなりプロっぽいことをしたのが歌手志望の女性二人組でした。
当時シンジが付き合っていた彼女がシンジを通じて事務所開業の話を聞きつけ、自分たちを売り出してくれないかと持ちかけてきたことがきっかけでした。
早速業界に話を回してみると、クラウンレコードの某プロデューサーが興味を示してくれて早速デモ録りとなりました。
さあ、ここでヨンタナ氏が再度登場です。アレンジャーの仕事も勉強中だった彼を売り込むチャンスでもありました。
バックバンドとしてシゲル、石○君を招集、これにキーボードのスパンキーというアフロの娘を入れて即席バンド結成です。

みな良い仕事をしてくれました。
デモは「ナオミの夢」(出ましたヘドバとダビデ、覚えている人は五十路に手が届く方ですね)と「恋の仲直り(Reunited)」ピーチス&ハーブの二曲でした。
歌唱力はまあまあといったところで特別目を引くものはありません。
プロデューサー曰く、このタマで勝負するのなら「色気」しかないだろうとのことでした。
年齢的にもすでに二十歳は過ぎていましたから、今更アイドル系では無理だろうということもあって、ピンクレディー以上の露出でもすればという話でした。

エスメラルダとしても正規の事務所ではありませんから、彼女たちを抱えるだけの余裕はないので、後はあなたたち次第ですということになりました。
シンジの彼女はやってみたいと言いましたが、パートナーの娘の方がどうも親の反対にあったようで、結局はお流れとなってしまいました。
シンジも内心は反対だったようで、赤坂の東芝スタジオでデモを録ったという想い出話が唯一残っただけでした。

もう一組、事務所を訪れた変わり者がおりました。
ダンサー志望のニックという青年が、ある日委員長を尋ねて来たのです。
彼は、ジャパニーズとしてデビューしたダンスチーム・インフォメーションズの元々のリーダーだったそうで、できればもう一度ダンサーズの仕事をしたいということで委員長を頼りにやって来たとのことでした。
彼の話によると、赤坂のシンデレラでファンキー・ドールズを名乗ってダンス・ショーを始めたグループがいるそうで、それなら自分はバッドチルドレンを名乗りたいので委員長の許可を貰いたいという相談でした。
往年のライバル、ジョニーのファンキー・ドールズのことも、委員長のバッドチルドレンのことも良く知っていた彼は、この二つのダンスチームに憧れて自分もダンサーを目指したという話を語ってくれました。
悪い気はしないし、ちょっと嬉しかった委員長ですが、この時期ダンサーでメシを食うということはかなり難しい時代でもあり、一応、話だけは聞きましたが、シゴトがあれば紹介するということでお引取り頂きました。

ところがこのニック、毎日事務所にやってきては委員長の傍を離れません。
夕方頃にやってきてそのままウダウダと事務所で雑用などを手伝い、夕方の5時に事務所を閉めて夜の仕事場、新宿に向かう委員長にべったりと付いて来ます。
新宿クレージーホースにも委員長の鞄持ちのように付いてきてはそのまま終電までウダウダしています。
やれやれ困ったものです。
こりゃあ早く何とか仕事見つけてどっかに押し込んでしまわないと一日中付きまとわれそうです。
そんなややこしい数日が過ぎた頃、ヒロシがうってつけの仕事を拾ってきました。

「横山エミーの歌手デビュー」

グラビア・アイドルの彼女がレコードデビューするということで、プロモーションに男二人のダンサーを付けてはどうかという企画が持ち上がりました。
曲名も内容も忘れましたが、ディスコアレンジなのでディスコ・プロモーションの仕込み依頼でもあったので、早速ニックを呼び出してねじ込みました。
ダンサー二人はドラキュラ風のコスチュームで彼女に絡むという内容だったと思います。加えてインタビューを我らがジュリーが担当し、週刊誌やスポーツ紙に載るというので我エスメラルダにとっても恰好の宣伝になりますからとにかく派手に目立つようニックに指示した委員長、しばらくは都内のディスコを回るということで、これでようやくニックの呪縛から解放されることになったのです。(しかし変ったヤツだったなあ)






最終更新日  2005年10月24日 07時11分12秒
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2005年10月23日

かつてそうであったように、道楽者人生の更なる山場はある日突然にやってきました。
それはジュリーが幼い頃兄のように慕っていたという、S氏との偶然の再会から始まりました。
何十年ぶりかでジュリーが再会したというS氏は、数人の仲間と金融関係の仕事をしていて、これから新しい事務所を六本木に構える準備をしているとのことでした。
事務所を開業するとなれば事務員や電話番も必要になりますから、それならエスメラルダに事務代行を任せるから、同居して会社を立ちあげてみてはどうかという話になったのです。
まさに渡りに船、事務所を探していた委員長とジュリーにはもってこいの話でした。
(上手い話は必ずオチがつくんですけどね。二人ともまだ若かったから)

早速S氏がジュリーと委員長の二人を相棒のF氏に紹介してくれました。
新宿歌舞伎町、普段エスメラルダが溜まり場にしている喫茶店「トゥモローエース」で初顔合わせが行われました。
イタリア製ダブルのスーツに太めのネクタイ、金の指輪にローレックス、中々恰幅の良い落ち着いた紳士F氏は誰がどう見てもそのまんま、筋の人でした。
また、そのひょうきんな話し振りはどことなく人をひきつけるカリスマ性があり、おとなしいS氏とは対照的にどことなくユーモラスな感じさえしました。

委員長はどうもこのF氏の顔に見覚えがあり、それとなく聞いてみると間違いなく委員長の知っている方でした。もちろん委員長が一方的に知っていただけのことですが、まさかこんなところでこういう出会いをするとは思ってもいませんでした。
その昔、ツッパリ修行に明け暮れていた高校生の頃、ボンタンなどを仕立てに出かけたテーラー並木の柱に刻まれた文字「国士F参上」の文字が目の前にいるF氏の顔と重なりました。そうです、当時ツッパリ少年の間で勇名を馳せた国士舘高校の超有名人F氏その人だったのです。

なんのこたぁない、不良高校生のボスはそのまんまプロの世界にデビューして、現在はS会に所属する中堅幹部でした。
委員長が知っているくらいですから歳だって未だ若いのに、すでに落ち着いた風格を漂わせているF氏に親近感の湧く委員長でもありました。
ふ~ん、それじゃ金融業っていうのもそれなりのお仕事ってことですね。
心の中でそう思った委員長、所詮俺達が関わるのはこんな感じの人でしかないんだろうなぁ、などと自身で納得しつつも、乗りかかった船ですからとにかく船出と相成りました。

「じゃあ、皆で事務所見に行こうか」

そう言って店を出るF氏の後に続く委員長とジュリーは、近くの駐車場に止めてあったロールスロイスに乗り込むと一路六本木へと向かいました。
麻布を抜け神谷町飯倉の交差点、角地にあるビルを指差してF氏が言いました。

「このビルの4階なんだけど、まだ何も入ってないから要るものがあったら言ってくれれば用意しとくから」

道路を隔てて対面にはヨーロッパ車のショールームがありました。
こんな一等地にいきなり事務所出すってのも玄人っぽいよなぁ~、などと感心しつつビルに入ってまたも驚きでした。
部屋は家具こそ入っておりませんが、一般事務スペースの奥には社長室があり、ちょっとした商社のような趣でした。

「どうだい、ここで君達の仕事はできそうかい」

飄々と語るF氏は部屋の中を歩きまわりながら、事務机や応接セット、電話の数などをS氏と相談しています。
委員長はジュリーと顔を見合わせ、余りにも急なことの成り行きに戸惑うばかりでした。

その夜新宿の喫茶店に集合したエスメラルダのメンバーは、この急激な話の進展をジュリーの口から聞かされ目の色を輝かせました。

「良い話ですけど、ヤバくないでしょうね」

ヒロシが心配します。
そりゃ誰だってこんな上手すぎる話を丸呑みできるはずがありません。

「まあ、どのみち俺たちだけで元手なしで何かを起こそうとすれば、それなりにヤバい話にも乗らなきゃならないだろうし、博打にはリスクはつきものってことだよな」

委員長がそう説明すると皆納得したようでした。

「これはジュリーの知り合いが持ってきてくれた話だからオレも乗ったんで、仮に失敗してダメになったとしてもオレ達が失うものなんて何もないじゃないか」

更にそう付け加えると、心持ちみんなの顔が晴れ晴れとしていくようでした。

「さて、こうして事務所を持つとなると、今までのように皆でDJをやりながら片手間の仕事というわけにもいかなくなるから、ここでマネージメントの担当者を決めたいんだけどどうだろう?」

ジュリーがそう言って組織をまとめに入ります。

「今までの動きから見て、ヒロシと花見に営業に回ってもらおうと思うんだけど、ロニーはどう思う?」

少々不服気味なヒロシでしたが、委員長も含め全員が同意したので渋々ながらも受けざるを得ないヒロシでした。
花見キョンはすでにレコード会社の代行プロモーションの仕事を着々とこなしていたせいか、本人の意思とも合致して快諾しました。

「あとは事務なんだけど、経理というか簿記の方はチーちゃん(ジュリーの彼女)の親父さんが税理士なんで面倒見てもらうことにするとして、事務所で働く事務員がいると思うんだ。そこで、今まで手伝ってもらっていたMちゃんを正式にパートで雇おうと思うんだけどどう思う?」

Mちゃんは今までボランティアで手伝ってもらっていた女子大生ですが、その並々ならぬ奉仕の姿勢はメンバー全員が納得するほどの活躍ぶりでしたから即決です。
本人の意思を確認しなくて良いのかなとも思いましたが、ジュリーがそこまで言うのだから内諾は取れているのだろうと納得した委員長でした。(元々ジュリーのファンだからね)
この組織作り、人選に間違いはなかったのですが、次第に人も増えて所帯もどんどん膨らんでいくと当然の成り行きで派閥が生まれていきます。
どんな団体や組織でもみな同じです。人間が群れて集まると必ず仲間内で衝突が起きるのが当たり前で、これに損得勘定が加わるから尚更やっかいなことになります。
24歳の二人を頭にして20歳前後の後輩が追随する組織ですから当然といえば当然です。ただ、ディスコがあるから自分達の存在があるという原理原則にまで気付くにはまだまだ若い組織でした。
喩え店は潰れてもディスコ業界はずっと続いていくものだと皆信じていましたからね。






最終更新日  2005年10月23日 07時21分13秒
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2005年10月22日
1979年夏。企画事務所エスメラルダは幸先の良いスタート切りました。
ところがこれと前後して立川スタジオ5から火の手が上がりました。
って、冗談じゃなくて本当に小火を出してしまったのです。
さすが温和な新○社長もこれには辛抱できず、その日で店は閉業、従業員は全員即日解雇、後の話はすべて地元の△○組を通すようにと言い残して新○社長は二度と姿を現しませんでした。
路頭に迷ったチャーリーやシンジは新宿の委員長の元へ相談にやって来ましたが、委員長としても仕事の世話はしたけど、自分たちが招いた不始末までは面倒見切れません。結局これでチャーリーとも縁切りです。
可哀想ではありましたが、委員長自身もこれから先どうなるか判らない状態では相談に乗るほどの余裕もありませんでした。
シンジはそれなりにDJの仕事も覚えたようなので、エスメラルダで取り込んで次の仕事を探す段取りをすることにしました。

捨てる神あれば拾う神あり。

一週間ほどして、なんと驚いたことに立川北口に新しいディスコがオープンするという話が舞い込んできたのです。
早速マネージャー役のヒロシと花見キョンが出かけていってハコ取り成立。

立川北口ディスコ・エモン

ドラえもんみたいな名前ですが、当時はエモン・グループといって立川ではビルも持つ、名の通った会社でした。
オープンDJはシンジを頭にDJデビューのユウジが入り、これでシンジも委員長に続いてディスコ業界にドップリとはまっていくことになったのです。
しかしローカルの仕事はギャラも高く、大した知名度も必要ないのでピンハネ業にはもってこいの美味しい仕事でした。

しかし委員長もこの79年の夏はビータ(旅)が多かったですね。
とにかく仕事を取ってくることに異常な執念を燃やしたジュリーは、手当たり次第に来る話を受けていきましたから委員長の出番もやたらとありました。
まずはエスメラルダの名前を売ることが先決でしたから、大きなスポンサーの話にはまず委員長が出張って行ってハッタリかますみたいな、往年のコンビの面目躍如といったところでしょうか。

千葉鴨川のナメガワ・アイランドは屋外のオープンDJでシンジとタッグを組んで出かけました。シンジがステージの上手にあるブースでサラを回し、委員長はステージでMCとDJをやりながらお客と踊るという、ちょっとしたパフォーマンス・ショーみたいなものでした。
ここでジョイントしたのがタヒチアン・ショーだったんですけど、彼らの演奏する音楽が当時ディスコヒットしていたボヤージというグループのジャングルって曲の中に入っていたメドレーと同じだったんで驚きました。(ケチャックダンス?とかいうタイトルだったかなぁ)

千葉から戻ると、今度はユピテル・レコードからイベントの仕込み依頼で北海道へ行くことになりました。
当時カラオケ機器で当てたユピテル工業が幾つかのマイナー・レーベルを抱えてレコード製作販売に乗り出し、偶然にも北海道のディスコでマイナーヒットが出たという話から、ダンスコンテストのイベント企画の依頼が持ち込まれたのでした。
曲はシンデレラというグループの「赤い靴」というポップなディスコサウンドで、たまたま北海道に「赤い靴」というディスコがあり、この店のテーマソングに使っていたものが近隣のディスコで人気を呼ぶようになったようでした。

オリコンの地方チャート、北海道の部で上位ランキングしたので、これを機会に全国ヒットを狙うという企画でした。
内容はディスコ「赤い靴」とタイアップでダンスコンテストを行うというありきたりのパターンではありましたが、なんと東京で予選を行い、勝ち抜いてきた参加者を集めて北海道で決勝大会をやるという、もの凄いヤラセでした。
この仕事を持ってきたのはMC役のマイク越谷さんでしたが、踊りと来れば委員長=エスメラルダですから今後お互いの利益のためにもここは一番委員長自らの出番となりました。つまり、この予選通過者の仕出しが委員長の仕事ということです。

しかし曲が曲なので、適当に東京のディスコ・ファッションを散りばめたコンテスト参加者を集めねばなりません。オカマあり、テクノあり、ファンキーありという具合にバラエティーに飛んでいないと、決勝大会の話題にもなりませから、エキストラのオーディションなんぞもやったりしました。ギャラこそ出ませんが、3泊4日北海道の旅に連れて行ってもらえるとなれば、それはそれは暇を持て余した道楽野郎たちが続々と集まって来ました。
そして男女混合5人ほどの選抜チームが結成され、まずは函館地区予選、札幌決勝大会へと進んで行ったのです。これが縁で、委員長はユピテル・レコードのライナーを幾つか書かせてもらったりしました。

札幌から戻ってくると、今度は九州長崎のディスコがオープンするので踊れるDJをひとつ頼みます、ってな具合でまるで蕎麦屋の出前のようでした。
長崎は島原半島、こんなとこでディスコやって客が来るのかって処でしたが、偶然にもオーナーと委員長の姓が同じだったこともあり、大変な歓迎をして頂きました。
駆け足のような時代のたった10日間ほどの滞在でしたが、きちんとしたご挨拶もないままそれっきりとなってしまい失礼致しました。
二十数年前のことではありますが、この場をお借りしてあらためて御礼申し上げます。

天草フェリーに乗れなかったのが心残りでしたが、一家ご自慢の焼肉、活き魚料理、海水浴、更にお別れパーティーには家族のバンド演奏と、本当に素晴らしいおもてなしをして頂きました。また、ホテルの前にあった掘っ立て小屋のストリップショーも楽しかったです。(バカヤロウ!)
お客さんの中にトゥモローUSAの常連さんがいて声をかけられたのにも驚きましたが、みな夏休みで帰省されていたのですね。(やっぱ新宿は凄いと思いました)
1日1回のダンス・ショータイムを大汗かいて踊った後の委員長に、「暑かろう?」と言って女の子が差し出してくれたハンカチは新宿では味わうことの出来ない優しさが滲み出ておりました。
おどみゃ~島原の~(島原の子守唄)のフレーズもこの時初めて聞きました。
天草四朗の歴史も未だ興味が尽きません。
ということで、委員長のディスコ人生の中でひときわ印象深い長崎県島原の想い出でした。

日本列島北から南まで大活躍の委員長でしたが、この他にもレコード会社の代行プロモーションを組織的に行うシステム作りも手がけました。
これは自主制作盤を作った時の経験を生かし、エスメラルダのメンバーを総動員して都内全域に拡大させていきました。
有線放送の電話リクエストなどは10円作戦と名付けてメンバーに1日1回リクエストをかけさせたり、ディスコ・プロモーションも試聴盤の配布と共に必ずその場で回してもらうDJへの個人アタックなども行いました。
結果的にこのディスコ回りが新たなハコ取りに大いに役立ったわけで、組織的に活動することのパワーというものを実感した委員長でした。

更に日本フォノグラムの渡部氏なども、その人脈から色々な仕事を拾ってきてくれました。エレクトーン教室の発表会コンサートをディスコ風に企画し、MCをDJスタイルでやったり、邦楽の新人アイドル歌手のプロモーションにディスコ・ダンサーズを使ったりなど、他業界への食い込みも徐々に行っていったのです。
トゥモローUSAの崩壊から何とか立ち直り始め、いよいよエスメラルダという団体が認知されるようになって来たのは、夏も終わり秋風の吹き始めた頃でした。
そしてこのエスメラルダは、ここでまた大きな山場を迎えることになります。






最終更新日  2005年10月22日 22時51分43秒
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2005年10月21日
1979年初夏、企画事務所エスメラルダが設立されました。
RCAレコードK部長や日本フォノグラムの渡部氏も出資するという話も出ました。
とは云うものの、事業内容もわからない会社では投資の対象にもなりません。
早速委員長が無い頭を絞って事業計画書を作りました。
会計収支も無い単なる会社設立企画書でしたが、新宿の小さな会議室を借りて株式会社設立準備のための緊急ミーティングが行われました。

ジュリーの後ろ盾である二名の他にもレコード会社洋楽宣伝の関係者が数名出席して、それなりに会社設立準備委員会のような会議となりましたが、最終的には「何をして利益を出すの?」という非常に単純な質問がでるような稚拙な内容でした。
当たり前ですね。毎晩ディスコでドンちゃん騒ぎしていたような奴らが、いきなり畏まってネクタイしてみたところで世の中それほど甘くないってものです。
しかも相手は、音楽業界とはいえきちんとカタギの生活をしている方たちばかりです。

ディスコダンスや、SOUL、ファンク、ディスコヒットの話には耳を傾けますが、会社設立や営業に関しては十分に知識も経験もある方たちですから、遊び人の戯言を本気で聞いてくれるわけがありません。しかも企画書には肝心の売上見込みとか、経営理念のようなものは全く無く、小手先の金儲けみたいな企画ばかりです。これで出資しろという方が無理な話で、1時間程度の会議は何の結論もないまま終わりました。

「もういいよロニー、オレ達だけでやろうぜ」

今更ジュリーが言い出すまでも無く最初から見えていた結果です。
いずれにせよ、もう動き出した以上は止めるわけにも行きません。
新宿歌舞伎町、モナミビル5階「クレージーホース」に収まったジュリーと委員長はここで後輩の育成に力を入れました。(って、ピンハネの合理化ですね)
要はひとつでも多くのハコを取ってDJを派遣させることが当面の目標です。

トゥモローUSAの崩壊は同業者であるDJ連中にもかなりの衝撃を与えたようで、野次馬根性からかアチコチのDJたちが頻繁にクレージーホースに出入りするようになりました。
まずは階下のムゲン、階上のポップコーン、チェスターバリー、ミルキーウェイなどなど、古株連中が陣中見舞いのように御機嫌伺いにやって来ました。
もちろん彼らの関心は何と言ってもジュリーが立ち上げた会社「エスメラルダ」に尽きるわけで、噂が先行するこの業界では早くも注目を集めていました。
誰しも考えることは同じで、上手い話なら俺も一枚咬ませてくれみたいなことで集まってくる奴らが殆どでした。

特にポップコーンの山ちゃんなどは年齢も年齢だし、できることなら一緒に組みたいなどとも云って来たりしました。
DJだのなんだと言ったところで所詮は店がなくなれば失業するわけで、あれほどの権勢を誇ったトゥモローUSAでさえ脆くも崩れ去る様を目の当たりにして、明日は我が身と切実に感じた連中も多かったのではないでしょうか。
誰もが皆将来には一抹の不安を抱えていましたから、会社を立ち上げるなどという話には目ざとく乗ってくるのも仕方のないことです。

立ち上げた当人である委員長たちにしてみればせざるを得ない、今を生き延びるための貧乏人の浅知恵のようなものでした。
ですから起業に対する思い入れ、経営理念や営業方針など考えるどころの話ではなく、今の生活をどのようにして維持させるかという切羽詰った状況でした。
傍から見れば業界の異端児のような印象も持たれたりしましたが、決してそんな大そうなものでなく、目的は現状の手取り収入をいかにして維持させるかということに尽きました。

まあ、後見人の皆さんが相当に支援をしてくれたおかげで、瞬く間にエスメラルダのハコ取り作戦は成功し、派遣DJが追いつかないようになっていきました。
クレージーホースは、当初ジュリーとロニーの名前でUSAからの常連客を相当引っ張りましたので、それなりにハコ取りの評価も高く当面はエスメラルダの拠点となりました。
ここから先は余りにも目まぐるしい事態が続いたので、時代や店、人名の記憶が曖昧ですが適当に整理してみましょう。

新宿クレージーホース
ジュリー、ロニー、サム岡田、ホリがシフトで入り、見習いとしてユウジ、マモル、アクタローの三人が付きました。

ワンプラスワン
ヒロシ、トモミ、リト

高田馬場リチャード三世
花見キョン、モリ
ここでブルさんことナベちゃんが講師となりDJの養成講座を開きました。
ここに集った面々が後に地方のディスコ等へと派遣されていくことになります。

スタートはこんな感じでしたが、この後地方も含めエスメラルダの快進撃は続きました。
ちなみにブラザー・ジョーは会社との正式契約があったので、期間満了まではUSAに残っていました。USAの後すぐに改装工事に入ったようですが、どうも委員長は想い出したくないという無意識からなのか、崩壊後の記憶が全くありません。
本当に覚えが全然ないのです。頭の中で自らの記憶を自ら抹消してしまったのかもしれませんね。

さてエスメラルダがスタートしてすぐはもちろん事務所も無く、昼間の連絡先が無いのも不便と言うことになり、たまたまジュリーのファンクラブのような女の子二人がボランティアを買って出てくれたので、当面は彼女達に事務と経理を任せることになりました。
今なら携帯やメールがありますが、当時はせいぜいポケベル、それもただピーピー音がなるだけで近くの公衆電話を探して連絡するというようなシロモノでした。
(それでも当時はかなり便利だったですよね)
このポケベルの中継点も彼女達のアパートの電話を使わせてもらい、なんとか会社設立に向けて着々と準備を進めて行ったのでした。

いかにも水商売って感じの公私混同、立ってる者なら親でも使えってくらいグチャグチャなスタートを切ったエスメラルダでしたが、ここで地方の仕事第一弾がやって来ました。
金沢のバナナ・ビーチというところから派遣DJの依頼が舞い込んで来たのです。
なんと話はマイク越谷さんからで、地元金沢でプリンスホテルも所有するという相当な名士「寿観光」の部長経由でした。さあ、初めての地方派遣、誰を送るかという話になって、集められた若手DJ達は内心ドキドキです。そりゃ大方の若手は地方からの上京組ですから、自分の故郷でもない地方に行きたがるわけがありません。
とは云うものの、後々のことを考えると適当に見習いDJを送るわけにもいかず、それなりの人間を用意しなければなりません。
緊張の時間が流れます。

「金沢って海ある?」

沈黙を破った突然の質問はトモミです。

「サーフィンができるんだったら俺行っても良いよ」

「日本海だけど、海はあるよ」

花見キョンが答えます。
季節はこれから夏ですから、3ヶ月の約束でトモミの派遣が決定しました。
エスメラルダDJ派遣業務第一弾は石川県金沢市のディスコ「バナナビーチ」でした。






最終更新日  2005年10月22日 22時51分25秒
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2005年10月20日
ダンサーからDJ、そしてバンドと委員長の歴史はそのままトゥモローUSAの歴史でした。
その歴史がある日突然なんの前触れもなく終了してしまったのですから、これほどの一大事はありません。
しかも、レコードデビュー、ジュリーとのコンビ復活、後輩DJを従えグループ結成、プライベートでもまさに絶好調というような時期に、いきなり足払いをくって転がされたようでした。
もうすぐ迎える24回目の誕生日を前にして、委員長の人生は行き止まりにぶち当たってしまいました。

小林社長も日が経つに連れてコトの深刻さに実感が現れてきます。
全員をワンプラスワンで引き取ると言っていましたが、トゥモローUSAの半分にも満たないキャパではこれだけの大所帯を抱え込むのは現実的に不可能です。
結果的には人員整理となります。
従業員の方はまずバイト社員がはずされ、社長から説明を受けて転職が出来るものは店を移って行きました。
DJも人数削減が言い渡されました。
1ヶ月は保証するが、このままワンプラスワンに残ったとしてもUSAでのギャラは保証できないということでした。

このニュースをいち早く受けて、立川スタジオ5の新○社長が声をかけてくれました。
「30出す」ってこの社長、キャラは全然変わっていません。
委員長はジュリーと違い流転系の道楽者ですから、すぐに職を失ったところでさほど生活に困ることはありません。強いて言えば楽器貧乏、心配なのは毎月のクレジット支払いくらいのものです。C子も「それなら音楽活動に専念したら」と言ってくれました。
心強い言葉を受けて逆に闘志が湧いてきた委員長でした。

城の明け渡しから一週間が過ぎようとする頃、ようやくいつもの委員長の道楽者魂が戻り、なんとか立ち直り始めました。
毎日不安と無気力に苛まれながら通っていたワンプラスワンの事務所でしたが、この日決意も新たに全員を集めて采配を振るうことになった委員長でした。

「ここで頭が倒れたら元も子もないから、まずはジュリーのことを優先させよう」

委員長の意見に誰も異存はありませんが、ジュリーを優先させるといっても皆今ひとつ意味を理解できません。

「まず、今、職を失ってすぐに生活に困るのはヒロシだけだから、ここ(ワンプラスワン)はジュリーとヒロシに残って貰う。残りはオレについて一旦立川に移り、転職の手立てを考えるってことでどうだろう?」

実際には高田馬場のリチャード三世や、新小岩のピラミッドなど、潜り込めるハコもあったので、新宿から都落ちするつもりなら取り敢えずは職を失うことにはなりませんでした。
と、ここで友情大好き男のジュリーが一世一代の大見得を切りました。

「そこまでロニーが言ってくれるのなら、オレも本気でハコ取りに動くからいっそのこと一気にカンタベリーと勝負しようぜ」

どん底で繋がった友情にウソはありません。
たとえそれが一時の感情であったとしても、全員の心がひとつになった瞬間です。
傷つき飢えているときの団結力は、その目標を目指す強い絆で結ばれます。
そしてその団結力で目標に近づき、飢えが満たされるに従って人の心は病んでいくということを知ったのはずっと後のことでした。

何かに張り合うということは、人の人生に新たなパワーを注ぎ込みます。
競争やゲームの原理です。
加えて城を取られたという屈辱はより一層のパワーとなって溢れ出ました。
このままじゃ絶対に終わらせないという決意は今までの成り行きからではなく、委員長自身が意思を持って鈴木昇二という男を相棒に選んだ決断でもありました。
高校を卒業してディスコ業界にドップリと浸りきり、好きこそものの上手なれ、と何とか運にも恵まれここまでやってこれた委員長でしたが、「明日の保証は何もないのだ」そう天からの声、戒めを受けたような人生の変わり目でした。

どうせこの先まともな仕事ができるような人間じゃないし、こうなったらいけるトコまで行ってみよう、そう割り切った委員長でもありました。
年齢的にもアイドルみたいなことでメシが食える時代は終わっていますし、色物や奇をてらった売り方で生き残るにはすでに限界に来ています。
どのみちこのままカタギの仕事に就く気も起こりませんから、それならジュリーと運命を共にしてみようと云う気になっていました。

早速ジュリーはハコ取りに動き、委員長はH君のグループとの合併に向けて交渉再開、トゥモローUSA崩壊の衝撃から二週間目のことです。
ところがここで再び衝撃のニュースが飛び込んできました。
H君が交通事故で死亡したと云うのです。
余りにも唐突過ぎる話で俄に信じ難いことでした。

「ジュリー、どうする?これじゃテリトリーも広がらないし、ハコ取りも期待できないよ」

合併交渉は中途半端だっただけにダメージは少なかったのですが、都内のハコを押さえるという意味では大きな繋がりを失ったことになります。

「この話はこれで打ち切りにしよう。後は俺たちだけでやろう」

そう強気のジュリーでしたが、この時すでに新宿クレージーホースのハコ取りを決めていた裏づけがあっての発言でした。

「ギャラは落ちるけど、まずは本拠地がないと動けないからな」

「で、誰が入るの?」

「一応ハコの条件ではオレが入らなきゃならないんだけど、オレは外で動くから現場はロニーが仕切ってくれよ」

「オッケー解った」

「ギャラのことなんだけど、たぶんこれじゃやっていけないと思うから、事務所を作って一旦そこにハコのギャラ集めて、それで分配するってことで良いよな?」

要はピンハネしようってことです。
当時のジュリーは業界でもかなりのギャラを取っていましたから、その生活を維持させるためには仕方のない苦肉の策だったと思います。
そして、クレージーホースのハコ取りが決まった日、グループは田無のジュリーのウチに集合しました。

「いいか、これからオレとロニーで事務所を作るから、契約したハコのギャラは一旦事務所に入れて、お前らのギャラは事務所から支払うようになる」

一方的と言えば一方的な通告でしたが、皆今の仕事はジュリーあってのものですから誰一人異存のあるはずはありません。

「ギャラの比率は後で発表するけど、取り敢えずオレとロニーが頭で五分五分。後はキャリアと仕事の内容で決めるから」

「いや、ジュリー、チョット待ってくれよ。ジュリーとオレが五分ってのもおかしいと思うんだよな。事務所の社長はジュリーなんだから、オレとも序列を作らなければおかしいだろ」

「ロニーには現場の方を見てもらい、オレはどんどん仕事を取ってくるから五分で良いと思うんだ」

これはジュリーの友情だったと思います。
そしてもうひとつの理由は、これから先は一蓮托生、ピンハネの共犯者だぞという意味です。

「ところで事務所の名前、会社名はどうする?」

ジュリーのネーミングのセンスを知っているだけに嫌な予感のした委員長でした。
一方的な話であまりにも急展開すぎる成り行きに一同は沈黙です。

「サンタ・エスメラルダの大ヒットに肖って、エスメラルダってのはどうかな?」

「悲しき願い」のリバイバルヒット、ディスコカバーで大爆発したサンタ・エスメラルダは日本フォノグラム社、渡部ピカイチ氏が仕掛けたメガヒットでした。






最終更新日  2005年10月22日 22時51分06秒
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2005年10月19日
歌舞伎町の入り口近辺、靖国通りから西口へ抜ける大ガードから吹き込んでくる南風
の匂いを感じるようになると、それは甘い蜜の香りにも似た夏の始まりを知らせるイントロダクションでもありました。
また今年も夏がやって来る。
得も知れぬ期待感はちょっとした誘惑にも似て、何かを期待する道楽者の夏はもう目の前まで来ているという感じでした。
そんな委員長の甘い期待とは裏腹に、時代は迫り来る新しい波に今まさに呑み込まれようとしていました。

その日、いつものように従業員用エレベーターに乗ってトゥモローUSAに出勤した委員長は、フロントの周りに見慣れない黒服が数人立っているのに気がつきました。
更にDJブースに向かうホールの通路を進むと、従業員の数がやたら多いのが気になります。なんとなく店全体に緊張感が漂っているのを感じつつも、DJブースに入るといつものようにリト君がサラを回しています。

「リト、なんか変じゃない?」

「アア、ナンダカワカラナイケド、オレガキタトキカラ、チョットヘンナンダヨ」

なんとなく妙な雰囲気でしたが、それでもいつものようにお客が入りいつも通りの営業に入ります。
続いてブラザー・ジョーもやってきましたが、もともとホールにはあまり感心のないジョーは相変わらずオーバー・アクションでHERE WE GO!などと叫んでおりました。
8時を回って、ようやく我らがチーフDJジュリーの登場です。

「ロニー、何があったのよ?なんかヘンじゃない?」

「ああ、オープンからずっとこんな感じなんだけど、見慣れない従業員が多いよね」

「オレ、糸数さん(店長)に聞いてくるわ」

そう言って社長室に入っていったジュリーですが、中々戻って来ません。
深夜番のサム岡田も出勤してきて、これでメンバー全員が揃いましたが、ジュリーは相変わらず社長室に入ったまま出てきません。
皆不安な気持ちを抱きつつもいつもどおりのパートをこなして行きます。
そこへなんとカンタベリーのオーティス中村がやって来ました。
過去一度も遊びに来たことのない彼の突然の訪問に益々動揺する委員長たち。

オーティスはDJブースに寄って軽く挨拶しただけでフロントへ立ち去りました。
一体どうなっているのか皆目見当がつきません。
ようやくジュリーがブースに戻ってきました。
仏頂面したジュリーはサム岡田にDJを任せて、委員長を楽屋に呼び寄せました。

「売っ飛ばされちゃったよ」

吐き捨てるようにジュリーが言いました。

「カンタベリーに売っちゃったんだってよ」

これで全ての謎が解けました。

「社長は?」

「オーナーと話しているらしいんだけど、俺らもこれでお払い箱だな」

「社長が身売りしたなんて信じられないな」

「売ったのはオーナーだよ。○億キャッシュだってよ」

「社長は反対しなかったのかな」

「社長ったって、大株主はオーナーだから力はないんだよ」

意外な展開というか、思ってもみなかった結末はまるで夢でも見ているようでした。
取りあえず下階のワンプラスワンに全員移動ということになりましたが、こうなったら持ち出せるモンは何でも持ち出そうってことになりました。
とは言うもののレコードくらいしか持ち出すものはありませんが、全員で手分けして運び出しました。フロント近くでは検問のようにニッシンの黒服が目を光らせていますが、「私物です」と大嘘ミエミエながらせっせと引越しです。

ワンプラスワンの小さな事務所に集結したジュリー・ファミリーは、早速今後の対策を検討します。

「社長との話では、当面は全員ここで面倒見るって言ってるけど、こんなにゾロゾロDJばっかりいてもしょうがないだろ」

ジュリーの話では、とにかく一旦はこのまま全員をワンプラスワンで引き取るということになっているようでした。
ヒロシやトモミも相当な動揺を隠せません。
いきなり親が死んだようなものですから、不安と言うよりは考えがまとまらないのは無理ないことです。
とにかく全ての話がきちんとついてからゆっくり考えようということになり、ジュリーも委員長も一旦はトゥモローUSAの仕事に戻りました。

フロントではUSAの糸数店長、須貝主任やその他黒服がニッシンの黒服と対峙しています。
須貝さんはかなりテンションが高まっていて、一触即発状態、エレベーター前でカンタベリー系の黒服とガンの飛ばし合いになっていました。
DJブースではサム岡田がサラを回していましたが、アップナンバー、スロータイムと逐一フロントから指示が届き、その通り従わなくてはなりません。
その様子を見ていてジュリーが切れそうになったところで、フロントからチーフDJの呼び出しがかかりました。

「ジュリー、オレも一緒に行くよ」

ジュリー一人に行かせるのも心配でしたし、最後の最後まで見届けたいという気持ちから一緒に出向いて行きました。
フロントにはカウチとソファーが置かれ、従来のレイアウトがすでに変えられていました。
ソファーには斜に腰掛けた貫禄のあるおっさんが待ち構えていました。
そしてその横にはオーティスが立っています。

「ボクがチーフDJの鈴木です」

おっさんはジュリーと委員長の顔をジロっと見て静かな口調で一言。

「おまえら、相当に腕の良いDJらしいなぁ」

えっ、と言う感じでしたが、これに答えてジュリーのいつものハッタリが飛び出します。

「はい、みんな個性ある一流のDJばかりですから」

「そうやない、こんな少ないレコードでよう勤まるなぁ言うとんのや」

そういうことですか。こりゃ一枚上手と言うか、こりゃかなりヤバイ雰囲気です。

「それはもう皆キャリアもありますし、実力も一流ですから」

どうも困ったヤツです。ジュリーってのはイマイチこういう駆け引きがわからないところがあります。

「これがお前らの仁義かい」

静かに、しかも凄みのある言葉でジュリーを見据えた目は相当な迫力でした。
おっと、やっぱりこのおっさんはかたぎではなさそうです。
ここでこのやり取りの始終を見ていたオーティスが見かねて助け舟を出してくれました。

「オレも手伝うからブースの整理しようよ」

そう言ってジュリーと委員長の肩を押すようにしてその場から連れ出してくれました。
無言のまま三人はブースに行き、オーティスがサムに「代わろう」と言ってDJを引き継ぎました。
フロントのおっさんはニッシンの部長で「人斬りマサ」と呼ばれる有名人だったそうで、確かに迫力のある方でした。
うまくオーティスが取り持ってくれたから良いようなもので、あのままジュリーとおっさんが言い争いにでもなったりしたら、USAの黒服連中も黙ってはいなかったでしょうし、下手したら乱闘なんて事態にもなっていたかもわかりません。
心優しいオーティスが一番で乗り込んで来てくれたことが幸運だったと言えるでしょう。

委員長は未だオーティスにこの時の借りを返せずにいることが心残りです。
人斬りマサこと高橋部長は既にお亡くなりになられたそうですが、オーティスは未だ健在、NETで再会を果たしましたので近いうちになんとかこの時の借りをお返ししたいと思っています。(とは言うものの僻地に住んでるもんで中々実現できませんねぇ)

さて城を明け渡すことになった小林社長以下USAの社員は全員ワンプラスワンに移動することになりました。
そのままカンタベリーの社員となって残ったウェイターも数人いました。
ニッシンの従業員と先輩後輩の関係にあった数名のウェイターが仲間を引き連れて移籍しました。
須貝主任は辞表を出しました。
ワンプラスワンの規模を考えれば、社長に負担をかけたくないというつもりだったようです。もともとギャンブラー志向でしたから、これを機会に吹っ切ったってとこでしょうか。
最後はエレベーター前でカンタベリーの主任といざこざもありましたが、この時の須貝さんはカッコ良かったですね。

「俺はこの会社(小林商事)も辞めたし、もう誰にもとやかく言われる筋はねぇんだから、お前ら(ニッシン)の指図は受けねぇからよく覚えとけよ。文句があるんならいつでも相手になってやるから(下に)降りて来い」

そう啖呵を切ってエレベーターに乗り込むと、ニッシンの黒服数人を挑発するように中へ呼び寄せる仕草をしました。
もちろん誰も挑発にはのりませんでしたが、男の意地みたいなものを見せた須貝さんの最後でした。
ちなみに須貝さん、この後同ビルの地下二階にオープンしたカラオケスナックの店長になりました。
余談ですが、当時東宝会館地下はカントリー&ウェスタンバー「ウィッシュボン」やJAZZバー、レストラン、居酒屋、スタンド割烹などこじんまりした店がいくつか入っていました。

お祭り好きのお調子者とは言え、さすがにこの時ばかりは目の前が暗くなった委員長でした。これから先一体どうなるのか、まるで交通事故にでもあったような感じで、何も考えられずただ呆然とするばかりでした。
過去どんな状況でも臨機応変に生き延びてきた委員長ですが、なんの前触れもなくいきなり訪れたこの衝撃には為す術もありませんでした。






最終更新日  2005年10月22日 22時50分48秒
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2005年10月18日
この昔話、今回で144回目となりましたが、委員長はこの「144」という数字には大変なこだわりがあります。
1979年当時、一丁前のミュージシャン気取りだった委員長は、稼いだ金の殆どを楽器に注ぎ込んでおりました。
道楽者の「玩具」集めはとどまる事を知らず、次から次へと楽器の山に埋もれていった高円寺亀屋マンションですが、この時一緒に暮らしておりました彼女のC子は委員長の道楽に大変な理解を示してくれて、当時の生活費の負担を一手に引き受けてくれておりました。(そりゃ単なるヒモやんけ)
ですから委員長は心の赴くまま心置きなく玩具集めに専念できたのです。
気がつけば2DKのマンションには家具らしきものはテレビとステレオ以外何一つなく、ピアノ、パーカッション、シンセ、ギター、ベース、リズムマシーン、アンプ類各種といった具合で、ドラムセット以外はこれでバンドができるほどの道具だらけになっておりました。
これに加えてレコードが200枚弱とステージ衣装が20着前後、まるでどこかのクラブの楽屋のような住まいでした。

そんな楽器コレクションの中、委員長の道楽人生にとって衝撃的な「玩具」との出会いがあったのです。
それがティアック・サウンド・スタジオ144という録音機能付き4CHミキサーでした。
これは市販されているカセットテープを使用して、4チャンネル4トラックの録音ができるという当時では非常に画期的な機材でした。
カセットテープのA面B面を用いて同一方向に録音ヘッドを当て、合計4トラックの録音を可能にするというアマバンドにとってはプロ並の自宅録音が行えるという優れものでした。ダビングによる音質の劣化を防ぐために録音スピードも通常の速度の約2倍になっていました。今でこそ自宅録音機器はデジタル化やPCへの移行で飛躍的な進化を遂げましたが、当時はこれだけの録音システムを作るとなると、オープンリールやミキサーをセットするだけでもちょっとしたスペースが必要になり、費用も相当な額になると言う時代でもありました。
それがたった1台の機器で、しかも多重録音には欠かせないパンチ・イン、ピンポン録音なども行えるというのですから、マニアにとってはもの凄い衝撃だったわけです。

発売と同時にミュージシャンには反響を呼びました。
価格は15万円。
高額商品とはいえ、手の届かない金額ではありませんでした。
当時、米国フェンダー社製ギターの低価格商品(テレキャスター)が11万円くらいでしたから、音楽マニアにとってはお手頃価格といえました。
早速委員長は丸井のクレジットでこれを購入し、遂に亀屋マンションにミニ・スタジオが出来上がったのでした。

ティアック・いちよんよん(144)

バンドメンバーの揃わない委員長のバンドごっこは、こうして一人多重録音によって創作活動の道を切り開いていきました。
「いちよんよん」はこの後デジタル化の時代に入るまで、委員長の道楽人生の良きパートナーとしてアーティスト活動を支えてくれました。(ってそんな大そうなものでもありませんが)
ということで、144にまつわる個人的な委員長の思い出でした。

さて、新宿では雨後のタケノコのごとくディスコが乱立し、DJの数もやたらと増え始めてゆき新旧の確執なども生まれ出しました。
古株といったところで二十歳代中間から後半がせいぜいですから、後に続く後輩にしてみれば同業のライバルでもあるわけです。
同じ会社やチェーン店舗ならいざ知らず、他店や別地域となれば先輩後輩のケジメがきちんとつくはずはありません。
そうなってくると必然的に群れをなして勢力下に取り込む以外、これら上下の関係を作ることはできなくなります。
そんな成り行きから古株同志の利害が一致して群れを成したといったところでしょうか。
まあ、大方フリーランスの世界では似たり寄ったりでしょう。
フリーランスの世界では縦の関係を縛るルールは何もありませんから、現役の先輩方はこうして自らをプロテクトするしかありません。
業界で名を売った人間は別として、こじんまりと活動を続けている先輩方は新人との面識も薄く、存在感を蔑ろにされることなどもあったわけです。

「知らねぇーよ、そんなおっさん。どこで(DJ)やってたか知んないけど、偉そうにノーガキこいてんじゃねぇよ」(こんな感じですか?)

でも考えてみれば自分たちだってそうやって先輩を否定して乗り越えてきたんですから、今更自分たちが、って気もしませんでしたが、自分たちがそうやって生きてきたからこそ同様になりたくないって意識が強かったのかもしれません。

「誰々をバカにするんじゃねぇぞ、ヤツは○○の時代からDJやってるんだからな」

みたいなことで先輩が後輩に言って聞かせて縦の関係を維持したみたいな感じです。
まあ、よく言えば古株同士の友情みたいなもので、悪く言えば俺たちはずっと昔からこの業界にいるんだぞという威嚇みたいなものです。
ただ、その友情にしても所詮は人間関係というか、好き嫌いですから、古株同士の中でも色分けがあって、出し抜き合いなどもあったわけです。

そんな時代のディスコ業界でもうひとつ頭を取ろうとしたジュリー・グループの合体話が進む中、委員長はH君グループのチェングと個人的に付き合うようになっていきました。
きっかけは非合法ドラッグについての話から始まり、その手の情報交換をするようになったという、いかにも道楽者らしい展開ですね。(またしても馬鹿が馬鹿を呼びました)
チェングは横浜のアメリカンスクールを卒業し、ハワイに住んでいたこともあってか特にアメリカンナイズされた雰囲気を漂わせておりました。
名前の通り在日の台湾人ですが、当時ではまだ珍しかったバイリンガル、英語ペラペラでそこのところだけは皆に一目置かれる存在でした。
性格は委員長同様大馬鹿野郎でしたが、委員長にとっては大変に面白いタイプの道楽者で結構興味のある人間でした。(この時はまさかこいつとサイパンに行くとは思ってもいませんでしたけどね)
まず第一印象で気に入ったというか、委員長の大好きな「ザ・個性」というような風貌に興味をそそられました。
アロハにジーンズ、ゴム草履、当時で言うサーファー・ファッションに近かったのですが、ファッションというよりはそのまんまハワイでマリファナでも売ってそうなスタイルで、どう見てもDJには見えず、かなりインパクトのある変人系でした。
(こいつ冬でもゴム草履はいてましたからね。防寒ジャケットにゴム草履ですよ、変でしょ?もちろんサーファーなんかじゃありません)

またまた話はちょっと逸脱しますが、このチェングの面白いエピソードがあります。
ディスコブームが一時下降気味だった頃、委員長の先輩であるマイク越谷氏が新宿のダイタン商事にうまく食い込んで「DJ講座」なるものを開いたことがありました。
マイク越谷さんといえば、初代ローリングストーンズ・ファンクラブ会長やテレビ番組の司会(紺野ゆうじさんと出てました)、ライナーノート、音楽関係書籍の監修、イベントの司会などなど、音楽業界では幅広い活躍をしていた我々の大先輩です。
そんな越谷さんが、当時新宿で最多店舗を所有していたダイタン商事のDJ教育を任され、週に一度講習会を行ったことがありました。
ダイタングループで働くDJ全員がトゥモローUSAに集まり、越谷講師のレクチャーを受けたのでした。確か総勢15名くらいだったと思います。
もちろん当時のメンバーにはマチャアキやジュリーもおりました。

さて、越谷講師のレクチャーは、ディスコ史の変遷に始まり、音楽ジャンルの選別、選曲方法からMCの入れ方まで、ご本人が経験されたブロードキャストでのうん蓄なども踏まえ進められました。
そしてその講義の中で英語MCについての項目があり、英語はDJのリズムや、全体の流れからDJのテンポを盛り上げるための味付けとして使うのです、というような指導がありました。
この指導の内容は要約すると、きちんと英語で喋ったところでリスナー(この場合ディスコのお客様が対象ですね)に意味が通じるわけでもないので、簡単なフレーズを曲間に添えて雰囲気を煽っていくためのもの、と言うようなことでした。

ここでチェングが手を挙げて質問をしました。

「じゃあ、例としてどのような英語を喋るか教えて下さい」

「まあ、私の場合は曲名とかアーティスト名を英語で紹介したりして、DJのテンポにアクセントをつけます」

「あのぉ、ディスコサウンドの場合、元々がタイトルもアーティストも英語名じゃないんですか」

「いや、だからあくまでも味付けという意味で使うわけで、ポイントとしてシャウトするとかですね、あまり英語ということにこだわらずにムード作りを心がけて下さい」

「具体的にどのようなフレーズを喋るのでしょうか?」

「いや、あの、私の場合は基本的にラジオDJがメインですから、英語のフレーズをそのまま喋ると言うことはあまりなくて、オリジナルタイトルを紹介するような時に使います」

同席していた無責任な生徒と言うかギャラリーにとっては、この質疑応答は最高の講義となりました。
チェングがバイリンガルだということは、越谷さんはもちろんDJ連中も知っていましたから、下手に墓穴を掘らぬよう細心の注意を払いながら受け答えする越谷講師のシドロモドロしていく姿に、この日のレクチャーはかつてない盛り上がりを見せたのでした。
ちなみにこの頃のマイク越谷さんの司会、MCの定番フレーズは、「さあ、みんな手拍子足拍子よろしく! マイティ、マイティ、○○○○(アーティスト名)」でした。
Mighty, Mighty、ってトコがいわゆる英語の盛り上げフレーズになるのでしょうか。

しかし、後年チェングはこのマイクさんから結構仕事を貰ったりしていましたから、人との付き合いってのも中々面白いものですね。
更に、マイクさんとサイパンで再会した委員長は、せっかくなので地元FM局に連れて行って紹介しましたが、それなりの英会話を習得していた先輩に頭が下がる思いでした。
この人もエルビスに始まりストーンズ~ディスコまで音楽一筋、未だ現役で道楽を追及するその姿勢には本当に尊敬の念を抱かずにはおられません。
なんと20代で所沢に家建てたんですから、筋金入りの道楽者だと思います。






最終更新日  2005年10月22日 22時50分31秒
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