480623 ランダム
 ホーム | 日記 | プロフィール 【フォローする】 【ログイン】

非生産活動推進委員会

PR

X

全8件 (8件中 1-8件目)

1

1980年頃のディスコのお話

2005年11月06日
XML

1980年の暮れにディスコ「マジック」はオープンしました。
「マジック」は当時の六本木を代表するスクエアビルの近くで、ステーキ瀬里奈の裏手にあたる日拓ビルの地下2階にありました。
普通、地下というと天井が低くせせこましい感じがするのですが、この店は通常の2階分のスペースが充当されており、天井が非常に高くとってあって全体に奥行きのある造りでした。ダンスフロアーはさほど広くはありませんでしたが、天井が高く感じられる分だけ吹き抜けのようなイメージがあり、天井からは大きな筒状の照明が4本ぶら下がるような格好でフロアーが彩られておりました。特別凝った照明というほどではなく、ヤマギワ電器お薦めの最新モデル使用というような感じでした。

当時のディスコシーンというと必ずこの手の専門家達が設計を任され、キャバレーだかナイトクラブだかのデザインと混同しつつ、音響には必ずJBLが配置され、職人肌の電器屋さんが勝手に設計したコンソールというのがつきものでした。
今で言うオタクに近いエンジニアが最先端の機材を使いつつも、それを使う側であるDJの職人意識はほとんど無視されて設計されるのが常でした。
だからいつまでたってもディスコDJという職業は陽の目をみず、サウンドミキサーの見習い程度の地位しか得られなかったのではないでしょうか。

さて、「マジック」のDJブースはと云うと、ダンスフロアーと客席を仕切る壁際にかけられた梯子を昇ったところ、中二階に位置する屋根裏部屋のような中々凝った装いでした。
中央にミキサーを置いて左右にターンテーブル、正面は大きな窓になっていて、そこから下のダンスフロアーを見下ろすような感じで踊り客を見ながら選曲をしてミキシングをしていくわけです。ブースのコンソールには照明用の調光卓があり、一人がミキシングをしている時はもう一人が照明をコントロールするといった感じのパートナーシップでした。
ここに集められた通称サラ(皿)と呼ばれる12インチレコードやLP盤のほとんどは、目と鼻の先にある六本木ウィナーズからの調達モノで比較的新しめの皿で取り揃えられておりました。適当に買い漁った感じで、中にはまだ聴いていない未封盤もかなり含まれていました。

そして問題のパートナーはというと、スクエアビルのファーマーズとかいう店から流れてきたという店名そのまんま、百姓っつう感じの渋○というおっさんと、多少なりとも因縁のある新宿ビッグトゥゲザーから来た通称金ちゃんこと金○君、更にもう一人オヤジ顔したちびガキがひとりおりました。
三人とも以前リチャード三世のオーディションで一度顔を合わせた面々でしたが、若造の彼については未だに名前も思い出せないくらいどこにでもいそうな学生くずれの半端者といった感じで、無精ひげに寝不足な顔、確か平井に住んでいるとか言ってましたが、その平井がどこにあるのかも知らなかったし、とにかく毒にも薬にもならないようなにーちゃんでした。
対照的に渋○のおっさんはやたら目がぎらぎらしていて、みるからにポン中というような痩せ型中背、格好は若いがどう見ても30は越えていそうなモーホーぽいヤツで、おネェ言葉っぽい喋り方には多少九州訛りのアクセントがあり、薄気味悪いと言うか陰険そうな面立ち通り、やたらと陰険なヤツでした。
金ちゃんは小太りにおかっぱ頭のサーファーで、委員長には「金太郎の金ちゃん」というイメージが未だに抜けていません。
マサカリ担がせたらピッタシって感じでしたね。
性格も顔立ちそのまま屈託のない明るいヤツで、このメンバーの中では唯一委員長がまともに話のできる相手でした。

お店の方はおおかたの予想通り高田馬場リチャード三世の菊○店長がそのまま店長として入店し、サポート役に副店長(マネージャー)が二人付きました。
その一人が菊○店長と対立していたK氏で、もう一人はやはり高田馬場のパブから配属されてきたH氏でした。
K氏とH氏は元々同期入社だったのですが、水商売かぶれしている分だけK氏の方が上司受けが良く、企画面では菊○店長の頭を越えて部長と結託しておりました。
要は菊○店長は田舎者扱いされていましたから、音楽的な面や営業面での主張は全てK氏が優先されるというような状況でもありました。
だからってこのK氏がまともかっつーとそんなことはなく、委員長にしてみれば単なる水商売かぶれのカッコマンといった田舎者にしか見えませんでした。
本来ならば、菊○店長からエスメラルダが任されてハコ取りするはずだったのですが、このK氏がこの話に割り込んで金○君たちを引っ張ってきたのでした。

この金ちゃんこと金○君はK氏と吉祥寺時代の知り合いだったということからマジックに引っ張られたのですが、実はこのしばらく前に金ちゃんがいた新宿ビッグトゥゲザーのハコをエスメラルダに横取りされたという経緯があり、始まりからしてすでに菊○店長対K氏の代理戦争の様相を呈しておりました。
そして委員長達がオープンDJとして働き出してからまもなく、鳴り物入りでやってきたニックという兄ちゃんがおりました。(またニックかよって感じですね)
こいつは平井のちびガキや渋谷のおっちゃんが「凄い」とか「デキる」とか、入る前から前評判の高かったヤツで、六本木の伝説に残るディスコ、ソウル・イン・アフロレイキ出身、ソニー・ロリンズに憧れサックスを持ってアメリカに渡り、英語もぺらぺら、など随分とハッタリの効いた野郎で、会う前からすでに皆が一目を置くような存在でありました。

委員長にしてみれば、この業界でオレの事を知らないヤツのほうがモグリだぜ、というようにほとんどのヤツをなめまくっていましたので、実際にどんなヤツが現れるのか非常に興味がありました。
確かにここは新宿じゃないし、六本木の裏街道もそれほどよくは知らない委員長でしたが、少なくとも同じ業界にいてそんなにすげえヤツならオレの名前ぐらいは知ってて当然だろ、ぐらいにしか思っていませんでした。
そしてそんな前評判に乗ってついにヤツが委員長の目の前に姿を現したのです。

その日は遅番だったので9時ごろ店に入り、よっこらしょっと梯子を上ってDJブースの中に入ると、ミキサーの前にひしゃげたアフロヘアに薄色のサングラス、カーキ色の分厚いジャケットに古びたジーンズという小汚い格好の男が座っておりました。どうみても昔の学生運動華やかりし頃のフーテンって感じの男でした。
隣で調光卓をいじって照明を見ていた平井のちびガキが委員長に気づき、その男に促すようにして委員長を紹介しました。椅子からぼそっと立ち上がったフーテン男が「ニックです」と言って、俺の方を照れくさそうに見た瞬間、お互いに「やばっ!」という冷や汗のようなものが走りました。

「あれっ、確か東京デザイナー学院・・・・にいたよね」俺が指差しながら聞くと、彼はくねくねと身体を捩るように「ついに俺の過去がばれてしまったか」とぼそっと呟きました。

椅子から立ち上がったままの平井のちびガキは、ぽかんとした顔で俺とニックの顔を交互に覗き込んでいました。

「名前・・・・忘れちゃったな・・・」と委員長が言うと、彼は相変わらずニヤニヤしながら身体をくねらせながら、手に持ったレコードをターンテーブルに乗せました。

思い出した!そうです、コイツはシゲです。
そう、あの東京デザイナー学院で同じアフロバカウィルスに感染した仲間です。
なにがニックだよ、ふざけんなよ、などと心の中で委員長がつぶやいていると、そこに渋○のおっさんが入ってきました。
なんとなく不自然でぎこちない雰囲気を感じ取った渋谷のおっさんは、無難な平井のちびガキに今日の客の入りとか選曲について話しかけたりしていました。

「シゲ、確かシゲだったよな。そういえばアフロレイキにいたんだっけ?」

おもむろに委員長が話しかけたのですが、ニックことシゲはニヤニヤしながら相変わらず身悶えるようにクネクネして頷くだけでした。(相変わらず軟弱野郎そのまんまだなぁ)

「俺はずっと新宿だったからさ、こっちのことはまだよくわかんないんだよね」

委員長の言葉に答えもせずに相変わらずニタニタしているだけのシゲ。
そこへ渋○のおっさんが話に割り込んできます。

「知り合いだったの?」やっぱりこのおっさんは訛ってます。

おっさんの問いかけに委員長もシゲも返事はしませんでした。
というか、どう答えて良いものやら言葉に詰まったといった方が正しいでしょう。
(知り合いっちゃあ、知り合いだけど、特別な関係でもないし)
しかし、そんな態度とは裏腹に、委員長は喋りたい衝動をぐっと抑えて心の中で叫んでおりました。

こいつはね、東京デザイナー学院なんぞという専門学校の服飾科で俺と同級生だったんだよ。昔はスリーピースのバギースーツかなんか着てて、赤坂のビブロスなんかで遊んでた軟派野郎なんだよ。俺は中途で辞めちゃったから、こいつが卒業したかどうかしんないけどファッション・デザイナーになってないことだけは確かで、結局こいつも俺と同じドロップアウトした単なる落ちこぼれのアホたれなんだよ。

ブースはDJの交代ですから、ここでシゲはゆっくりと立ち上がってケース入りのアルトサックスを小脇に抱えながら渋○に向かって言いました。

「じゃ、あとはよろしく。俺は帰ります。」

そう言い残してさっさと梯子を降り始めたシゲでした。
後を引き継いで皿を回している平井のちびガキがぼそっと言いました。

「ニックさん、これからサックスのレッスンなんですって。ソニー・ロリンズを尊敬しているらしいですよ」

委員長はまたまた叫びたい衝動に駆られたのでした。
そんならミュージシャンにでもなりゃいいじゃねェか。これ見よがしにサックスなんぞ持ってきやがって、笑わせんなよ。

「彼は英語もできるらしいよ。音楽の勉強にニューヨークにも行ってたらしいし」

まるで自分の自慢でもするように話す渋○のおっさんの訛りの強い言葉が、更に委員長の叫びたくなるような衝動をかきたてます。

おいおい、ニューヨークに勉強に行ってて、なんで六本木の有名DJなんだよ。少なくともこの業界じゃ、1年も空けば忘れられちまうぜ。どうせホームステイなんたらとかのツアーで1~2ヶ月行っただけだろ。
そんなにスゲーヤツなら、なんでこんなところでDJなんかやってんだよ。

まあそんなこんなでこのディスコ「マジック」の幕開けは初めから波乱含みだったことは間違いありませんでした。






最終更新日  2005年11月06日 08時18分09秒
コメント(4) | コメントを書く


2005年11月05日

茨城県水戸市は水戸黄門でお馴染み水戸光圀将軍所縁の地で、日本三大庭園のひとつである偕楽園があり歴史的にも由緒ある土地です。
ちなみに金沢兼六園に続いてこの偕楽園も見ることができた委員長は、偶然とは言え史跡を巡るのも何かの因縁かと思ったりもしました。

さて、そんな水戸のディスコ「ピント」に急遽トラとして派遣された委員長のビータ(旅)は、到着したその日から滞在中のパートナーとなるカット君の熱烈な歓迎を受けて、いきなりピースパイプでお友達となり愛と世界平和、更には救世主到来について朝まで語り明かすという、そんな思いがけない出会いから始まったのでした。
何でもカット君のおじいちゃんは「ピース」を吸っていたそうで、世界平和実現の救世主は鳩に乗ってやってくるというような超異次元の世界を垣間見た二人でした。
そして委員長はこの時初めて、茨城県人が類まれなるユニークな民族であるという知られざる事実を思い知ったのでした。
(寺内タケシも筑波山だったし。えっ?)

ということで委員長が寝泊りする社員寮社宅は千波湖という大きな湖の近くの風光明媚なところにありました。
到着日翌日はさすがに昨夜の大討論会で体力は消耗しておりましたが、意識は未だギンギンに冴えたまま朝日は昇り、部屋のベランダから見える朝の湖のすがすがしさに誘われた委員長はウォークマンを手に湖を散歩することにしたのでした。
ところが一歩寮から出た途端に凍てつくような空気が委員長の肌を貫き、手足は数分も立たぬうちに悴み、とてもウォークマンを聞きながら散歩などするというような悠長なことを言っている状況ではなくなっておりました。

「こりゃモモヒキでも買わなきゃ凍死するぞ」

早速カット君に教えられたとおりトロリーバスに乗って商店街まで出て、近くのスーパーで長袖長ズボンの下着を買い込みその場で着込んだ委員長でした。
モモヒキなんて履くのは小学校以来だなぁと思いながらも、こんな便利なものがあったことすら忘れている都会人の見せ掛けだけの感性について思いをめぐらせたりしました。
(完全に二日翔びですね。Hangover)

実はこの時委員長は金沢での暗い体験を彷彿とさせるこの土地には先入観があって、どうも内心引き気味だったのですが、この水戸ピントで出会った人たち、店長以下従業員は皆心暖かい人たちばかりで、当時精神的に殺伐としていた委員長にとってある意味癒しとなりました。

会社が在日系だったこともあるのでしょうが、寮の賄いのオバちゃんやパチンコ店従業員など皆非常に心の優しい方ばかりでした。
この会社の方針でしょうか、「メシだけは食わせる」って感じで、社員は誰でも食堂で御飯を食べることができ、ごはん、味噌汁、キムチは食べ放題で、社員は家族、「一家」といったような昔気質の会社でした。寂しい育ちをした委員長にとっては、この大部屋の感覚がとても暖かくて御飯の時間が楽しみでもありました。
おまけにカット君も四六時中委員長の傍を離れず色々と世話を焼いてくれて、これがまた委員長には大変ありがたく思えました。

自分で言うのもなんですが、彼にしてみれば東京からちょっとしたオオモノが来たみたいな感じで物珍しさもあったのでしょう。滞在中はほぼ四六時中一緒でした。
DJの方も委員長が英語のベシャリを入れるたびにフレーズをメモしたり、ブースの中は英語で会話して下さいとか言われたりして逆にタジタジする始末でした。
なんせ克也さんモドキの受け売りテキトー英語ですからね、あんまりマジになられると恥ずかしくなったりしました。
ただ、ミキサーは以前にも書きましたが横型フェーダーでしたから、つなぎは彼もそれなりにこなしていましたね。でも所詮は水戸ですから、自己満足の域を出ないといったところでした。もちろんお客だってツナギがどうしたと言うほどディスコ好きするヤツがいたわけじゃありませんから、東京ではこんな感じでやってます、みたいな程度でしたね。
この時よくかけていたのが Delegation のHeartache No.9 とかボズ・スキャッグスのシモンとかで、更に時々歌謡曲なんかもかけてましたね。委員長にしてみれば高田馬場の続編のようなものでした。

仕事が終わるとカット君は委員長の部屋にやってきて、ギターをいじくったり、エスメラルダの話を聞いたり、結構目を輝かせて興奮してました。(ほぼ毎日翔んでたんですケド)
自分は詩を書いていることや、一度は東京に出て何かやってみたいこと、自分と同年代のヤツらは帰郷してくるのに自分は反対にこれから上京してみたいことなどを熱く語ってくれる彼もまた自分と同類であることを感じた委員長でした。
どうも委員長の周りにはややこしい経歴の奴らが集まってくる因縁でもあるのでしょうか、彼もまた悲惨な境遇の体験者でした。
高校を卒業して同級生のほとんどが東京に出て行った時、自分は母親を亡くした為地元に残って妹の面倒を見なければならず、その流れについていけなかったことが心残りであったようでした。
大方の上京組連中が大学や専門学校を終えて帰郷してくる現在、自分はようやく自由となり上京することを考えているが、年齢を考えると躊躇してしまうことなどを彼はぽつりぽつりと話してくれました。

そんな彼の熱い告白に答えるべく委員長も、その気があるのならいつでも尋ねておいでよ、みたいな感じのいつもの調子で無責任なことをぬかしておりました。
さすがにエスメラルダに入ることは勧めませんでしたが、委員長の周りにはみな似たような境遇の奴らが沢山いるので、来れば何とかなるだろうみたいな話で盛り上がったりしたのです。
ちなみにこのカット君、後年本当に東京にやって来ることになるのですが、残念ながらそのときにはすでに委員長はモロ落ち目の真っ只中にいて、あまり面倒を見てあげることはできませんでした。

しかし、この水戸で出会った人々は皆ユニークでした。
カット君はじめGrassフリークはみな自分のPOTを持っていて自家栽培している話を聞いたときには正直言ってたまげましたね。こりゃニッポンのカリフォルニアだぜ、みたいな感じでした。しかも東京から刈り取りに来るヤツもいるとかで、その手のマニアの間では茨城県はちょっとしたPOTゾーンだったことをこの時初めて知りました。
この時以来委員長は茨城県出身の方々を非常に尊敬しております。(笑)

もうひとつ面白かった出会いにモルモン教がありました。
昼間ウォークマンを手にあちこちブラブラと徘徊していた委員長は、商店街で白人男性二人にいきなり声をかけられ自宅に招待されたのです。
流暢な日本語を話す彼は、「私の名前はトンカチです」などと笑わせてくれて、あのタワーオブパワーが出たベイエリア出身のミュージシャンであることと、モルモン教の布教に水戸に在住していることを語ってくれました。
このハンマー氏が別れ際、恥ずかしそうにモルモン教の聖書を委員長に買ってくれるように懇願した表情、そのすがすがしさにまたも共鳴を受けてしまいました。
更に彼は布教活動として無料の英会話塾をやっていて、生徒は200人近くいるということを知り、益々この水戸という土地の不思議さを知りました。
彼はネクタイを解いてYシャツの胸ボタンを外し、下着として着用していたTシャツを委員長に指差しました。そこには「I LOVE MITO」とプリントが施したありました。

I LOVE MITO

カット君との出会い、モルモン教との出会い、人と土地、故郷、形にはならないものではありましたが、委員長の心の中で何かが目覚めたようでした。
そして委員長もこの地が本当に好きになりました。

そしてその夜、委員長がエスメラルダのプロモーションとして持ってきていた、つのだひろ&JAPSGAPSのジャイアントシングルLAY BACKのB面、I LOVE TOKYOをプレイして委員長の故郷TOKYOを偲んだのでした。

It’s a sad life, but not a bad life and I know
When I look at the girls so young in Shibuya
Rediscover you down in Shinjuku and in the strange are bright confusion there
I lose my cares.

I love Tokyo, Tokyo in my heart
I love Tokyo, got me up and started
I love Tokyo, Tokyo in my heart
I love Tokyo, never will be parted again

Then I left you thought you were deaf to all my pain
Had enough of the rush the crush in the subway
But I missed the summer in Aoyama and in the sleek and fast Roppongi night
I feel all right

I love Tokyo, Tokyo in my heart
I love Tokyo, got me up and started
I love Tokyo, Tokyo in my heart
I love Tokyo, never will be parted again
(せっかくですから和訳入れときますネ)

そりゃあつらい生活さ
だけどそいつも悪くはない
渋谷には若い娘が溢れているし
新宿に行けば新たな君(東京とかけてありますネ)を発見できる
奇妙な街の雑踏と混乱にボクの心配事もかき消されていく

I LOVE TOKYO ボクの心の東京
I LOVE TOKYO ボクの人生の始まり
I LOVE TOKYO ボクの心の東京
I LOVE TOKYO ボクはもう決して離れたりしない

心の痛みを携えてボクは去った
君(東京とかけてあります)がわかってくれなかったから
地下鉄のラッシュや人のざわめきはもう沢山だった
でも狂おしく恋しい青山の夏やスリルに満ちた六本木ナイト
それは最高さ

(個人的フィーリングが結構入ってます)

東京に戻る前夜、このレコードを委員長は水戸との思い出としてカット君にプレゼントしました。






最終更新日  2005年11月05日 06時40分39秒
コメント(0) | コメントを書く
2005年11月04日

日拓グループの六本木進出が確定すると同時に、エスメラルダは委員長を筆頭にハコ取りに乗り出しました。
菊○店長との約束では、もし自分が昇格人事で六本木への異動が決まれば、DJと企画は全てエスメラルダに任せるということでした。
こうなったら菊○店長にかけるしかないということになり、取り急ぎエスメラルダのマネージャー役ヒロシが高田馬場に張り付きました。
もちろん日拓グループの中でも、この六本木進出に向けての人事異動では水面下の動きも色々とありました。
菊○店長の対抗馬であるK氏が自分の知り合いのDJを連れてきて、自分はディスコに関して知識も経験もあることをアピールするなど社内でも暗闘が起きていたのです。
もちろん菊○店長は委員長を名指しで推してくれていましたので、最悪の場合でも委員長の入店は決まっていましたが、何と言ってもハコ取りしなければエスメラルダの六本木進出は成功したとは言えません。

そして六本木への異動を目前に控えた委員長はここで何故か、茨城県水戸市「ピント」へ飛ぶことになったのでした。
日立ピントの姉妹店、といってもオーナー同士は全く関係ないのですが、店のシステムがフランチャイズ方式の水戸ピントは、当時単独でハコ取りを張っていたジン氏のハコでした。彼が適当に見習いを作って送り込んでいたのですが、店側からの不満と人材不足から彼がギブアップしたところに、上手くヒロシが喰らいついてエスメラルダが引き継ぐことになりました。
どうせ六本木に行く身の委員長ですから、後任が決まるまでの1~2週間務めて下さい、というようなヒロシの指示で冬の茨城県へ旅立ったのでした。
委員中はまさか再びこの地を訪れるとは思ってもいませんでした。

自堕落な生活で精神的にも暗くなっていたこのころの委員長は、出発前に軍団のシンジやユウジを集めて「この2週間の間に最低5曲は作ってくるから、戻ったらバンドをやるぞぉ」などと、矢沢の永吉っつぁん風に旅立つ「兄貴」をしっかりと演じておりました。
私生活でもC子とギクシャクし始めていた頃でしたから、しばらく一人で冷静になってみようなどと多少は殊勝な気持ちもあり、愛用のグレコのテレキャスターを手に冬の茨城へと旅立ったのでした。

当時の上野駅はやっぱり暗かったですね。
冬の常磐線に乗り込んだ委員長は、冷たく暗い景色の中をガタンゴトンと揺られて北上して行きました。
水戸駅に着いたのは夕方の6時を過ぎており、あたりはもうすでに暗く、店に電話をするとバスに乗って大工町で下りるよう言われましたが、その肝心のバス乗り場がどこかもわからないし、土地勘のないこの寒空でバスを待つのも嫌だったので歩いて行くことにしました。道はわかり易い一本道で、大通りをどんどん進むと随分昔に日立から訪れた時の見覚えのある商店街が目に入り心持ち落ち着きました。
大通りの角ビルに看板が見え、階段を降りるとそこは見覚えのあるディスコ・ピントです。店内は結構な客の入りで、外の暗い街並みを忘れさせてくれるような熱気が溢れていました。

店の中央にあるDJブースに入ると、長髪の青年がサラを回しており、その横で照明を操作しているアフロ頭のにーちゃんが委員長に挨拶をしました。

「エスメラルダから来た人ですか?」

「ええ、明日から入りますのでよろしくお願いします」

アフロにーちゃんは委員長の肩に下がったギターケースを見て「ふ~ん」というような顔をしましたが、性格はおっとりタイプなのか威嚇されたような感じはしませんでした。

「エスメラルダだったらさぁ、ロニーとか知ってる?」

えっ!って感じでしたね。何っ?って感じ。
一瞬、委員長の他にロニーって名乗ってるヤツがいるのかとも思いました。
しかもこのおにーちゃんはそのロニーと、さも親しげな口ぶりです。

「あのぉ、ロニーですけど」

委員長がそう言った途端にイスからズレ落ちそうになったアフロにーちゃんでした。

「なんだぁ、ロニーなんだ、そうかぁ、へぇー、ロニーが来たんだぁ」
(言ってる意味わかんねぇーぞ)

ひどく動揺しているその態度が妙に可笑しくて、中々憎めないにーちゃんでした。
バツが悪くなったせいかここでアフロにーちゃんはDJを変わり、今度は長髪のにーちゃんが挨拶をしてくれました。

「どうも、カットです」

「ロニーです」

「ギター持ってきたんですか?」

「ああ、一人じゃ退屈するかなと思って」

「見せてもらっても良いですか?」

「ああ良いよ、テレキャスターだよ。グレコだけどね」

どうやらギターに興味があるようでした。
二人とも初対面にしてはスムーズな入り方で、アフロにーちゃんにしろ、この長髪にーちゃんにしろ性格は良さそうでした。

その日の営業も終わり、終礼で店長からDJの交代が告げられ、委員長が従業員に挨拶を済ませると全員でアフロにーちゃんの送別会となりました。
この会社も地元ではかなり手広く商売をしているようで、マイクロバスに乗せられて連れて行かれた処は湖畔のレストランでした。
もちろん夜ですから湖が近くにあるのかどうかはわかりませんでしたが、「レイクサイド」という店名と、カット君の説明から近くに千波湖という有名な湖があること、ピントの姉妹店であること、この他にもボーリング場やパチンコ屋などを所有するレジャー産業では大手であることなどを知った委員長でした。

送別会と言っても店長以下従業員10人ほどが飲んで喰って話すだけの宴会でした。
そしてこの時初めてアフロにーちゃんがニックという名前であることと、この仕事には奥さんも連れて来ていて共働きしていたことなどを知ったのでした。
(しかしこの当時、ニックって名乗るヤツ多かったよね)

「これでようやく東京に帰れるよ」

そうニックが言いながら奥さんを紹介してくれました。
同会社のパチンコ店で働いていたという小柄ながらテキパキとした感じの人でした。

「どのくらいいたの?」

「一応3ヶ月の約束だったんだけどさ、後釜が見つからなくて結局5ヶ月いたんだよね。」

「へぇー、それで東京に戻ったら何処に行くの?」

「いや、もうこれでDJは辞めようかと思ってんだ」

別に彼の人生に興味も無かったので深くは聞きませんでしたが、東京で仕事があるんだったら何もこんなトコでドサ喰ってるわけないし、まあそんなもんだろうってな感じでした。(どんもんなんだよ)
宴会も恙無く終了し、委員長は他の寮住みの従業員と共にマイクロバスで寮まで送ってもらうことになっておりました。
店を出て駐車場へ向かう委員長に長髪のカット君が声をかけてきました。

「ちょっと話があるんで付き合ってもらえますか?」

そう言ってカット君は委員長を駐車場奥にある非常口に連れ出しました。
ガチャっと非常口のドアが閉まると同時にカット君はタバコを取り出し火を付けました。
もわっとした煙が委員長の顔面に充満して、枯れ草の焦げる臭いが立ち込めます。
あまりにも唐突な事の成り行きに面食らった委員長ですが、カット君の差し出す太めのジョイントを手に取って一気に吸い込みました。

「後で部屋に遊びに行っていいですか?」

ちょっと茨城訛りの口調で尋ねられた委員長は、今目の前で展開されているこの状況を理解することもできぬまま頷いておりました。

「しかし大胆だよね。こんなとこで大っぴらに吸って大丈夫なの?」

「みんなやってますから大丈夫ですよ」

「み、みんなって」

と言いつつ、欲張りな委員長は更に深く煙を吸い込んでいたのでした。

とても良い気持ちになった委員長は会社のマイクロバスに揺られて、近くの寮に案内されました。寮と言っても随分と立派な建物で、鉄筋コンクリートのちょっとした団地と言うような感じでした。寮にはパチンコ屋、レストランなどで働く従業員、独身やら家族やらが住んでいて、過去金沢で経験したような精神的圧迫感はまったく感じられませんでした。
案内された6畳一間には布団が一組敷かれているだけの殺風景な部屋でしたが、金沢の時の布団とは違ってまるで委員長を優しい眠りに誘っているようでありました。

先ずは荷物を放り出してごろんと布団に寝転んだ委員長、部屋は空調システムが付いているのでさほど寒さは厳しく感じませんでした。(っていうか翔んでるからだろ)
ここにどのくらいいるのかなぁ、とぼんやり考えていると誰かがドアをノックしました。
どうぞ、と言ってドアを開けると、伏せ目がちの長髪のカット君が立っておりました。
二人で部屋に入ってどかっと腰をおろすと、カット君はショルダーバッグからキセルを取り出し、ビニール袋に入った刻みをぎゅうぎゅうに詰め込んで火をつけました。
(おい、おいマジかよって感じでしたね)

「ま、一服どうぞ」カット君はそう言ってキセルを委員長に手渡しました。

「もしかしてジャンキー?」委員長が尋ねるように彼の顔を見てキセルを吸い込むと、カット君はにやりと笑って「どうですかこれ、効きます?」と満足気な表情を浮かべました。

「効くも何も、こんなにいっぺんに吸っちゃって良いのかなぁ」
結構効いてきた委員長の意識はゆっくりとオブラートに包まれていきました。

「これは今年一番デキの良いヤツですから結構効きますよ」

キセルに更にタマを詰め込むカット君。
今度は自分は吸わずに委員長にそのままキセルを差し出しました。

「オレはもう十分入ってますから」

ちょっと訛りが気になりますが、次の一服を吸い込んだ委員長は頭の上からもう一枚オブラートに包まれる感じがして目が乾きました。
もう十分ってな感じでキセルを彼に戻すと、彼は軽く吸い込んで煙を一気に吐き出しました。

「おうっ、ケツが宙に浮きそうになった」

茨城訛りが妙に人懐っこくて最高にハッピーな気分の委員長は、そのままカット君と夜を徹して愛による世界制覇と人類の平和について語り明かしたのでした。ピース!






最終更新日  2005年11月04日 06時53分38秒
コメント(0) | コメントを書く
2005年11月03日

1980年、高田馬場リチャード三世を拠点にしてロニー軍団が馬鹿騒ぎに血道を上げていた頃、株式会社エスメラルダはマネージャー役のヒロシの強引な営業で更に勢力の拡大が続いていました。
ジュリーこと昇ちゃんもいよいよ年明けには結婚式が決まり、着実な生活設計を全うしているようでした。
ヒロシが営業に専念するようになってからはサム岡田や花見も多忙になり、昇ちゃんのアシスタントはナガイという新人がするようになっていました。
そしてこの頃、あまりの組織拡大とヒロシの強引さから数名のDJが辞めて行きました。
エスメラルダ設立当時から関わったホリや、アクタロー、マモルなどが次々に去って行きました。マモルは大変性格の良いヤツだったので、チェングのところで引っ張って貰うような話にして上手く辞めさせてやることができましたが、他のヤツらはどうも金銭トラブルですったもんだしたせいで、結局は縁切りとなっていってしまいました。
DJ派遣とか斡旋とかいったところで所詮はピンハネですから、ハコを適当に回しているうちは良かったのですが、そのうちハコの専属のような形になっていくと店の方でも直接雇用した方が使い易いと考えるのが当たり前のことです。

まあ、芸人というかプロダクションの持つ命題のようなもので、いつかは必ずぶつかる問題といえます。
「ここまで育てて仕事まで取ってやったのに」と言えば、「その分は十分返したはず、後は自分たちで直接やらせてくれ」と言い返され、結局はハコのオーナーの意向に従わざるを得ないことになりますから、こうして数人のDJが各店に専属となって切り離されていきました。
もともといい加減な成り立ちで始まった派遣業ですから、ハコとの契約をプロテクトするきちんとしたシステムなどありません。
店側にしてみれば、自社の専属で雇った方が効率が良いのは当たり前だし、DJだってピンハネされずに働ければそれにこしたことはありません。
特にDJ成り立てのような若者には、店には寿命があるということを経験知として持っていませんから、一本立ちしてメインDJになることで一人前になったと勘違いするヤツもいたわけです。(店が潰れたらおしまいってことなんですけどね)
特に時代も第二次ディスコブーム真っ只中ですから、1年にも満たないヤツらがこぞって足抜け(笑)していきました。

ハコを多く抱えているということは失業してもすぐに別のハコに入れてくれるという保険のようなもので、だからこそ皆ピンハネに甘んじているわけで、でなければ誰だって自分の稼ぎを横取りされて我慢するわけがありませんね。
エスメラルダはジュリーこと昇ちゃんの顔が業界でかなりの力を持っていたことと、後に続いた後輩の資質に恵まれたことが勢力拡大に成功した理由でしょう。
さらに起業志向が高かったので、当初からシステマティックに動いたことが人材の育成もスムーズに行えた理由と言えます。
同時代の同業者は、数人の見習いや弟子のような者を従えてハコを仕切るという個人営業がほとんどでしたから、新人DJが食い込むチャンスが少なかったこともエスメラルダに人が集まって来た理由だったと思います。

そんな流れの中で委員長の高円寺亀屋マンション・グループはさすがに委員長に従順でしたから、足抜けこそしませんでしたが皆ヒロシとは対立して不満を持っていたことも確かでした。
このヒロシもゴミ仲間としては中々根性のあるヤツでした。
中卒の彼は仙台のカラオケスナックで司会を始め、そこでオーナーに見込まれてディスコDJになり、たまたまプロモーションで訪れたジュリーに声をかけられたのを契機として上京、ワンプラスワンに就職したものの本体が傾き、エスメラルダ設立と同時に営業に回されたという波乱万丈なヤツでした。
それでもコイツは成り上がりには異常な執着心があり、しばらくはDJにも未練があったようでしたが、事務所を原宿に移した後はそれはもう大変な活躍でハコ取りと売上向上に執念を燃やしていました。
無学歴な自分がのし上がる道はこれしかないと思ったのでしょう。ヤツもヤツなりの夢を見ていたんですね。ハングリー精神という面ではエスメラルダでは一番だったと思います。

それに比べ、このころの委員長は夢も希望もなく、毎日毎日バカなことをすることで憂さを晴らすような自堕落な生活を続けていました。(壊れちゃったねぇ~)
夜遊びに出ない日は高田馬場の雀荘で徹マン、日曜日は後楽園へ競馬、あとはシンジのアパートやユウジのアパートへ行ってバンド結成の夢物語を聞かせては悦に入るというようなどーしょうもない大馬鹿野郎生活の繰り返しでした。
この頃の委員長は道楽者ではなく、まさしく単なる極つぶしに成り下がっていました。
仕事こそしてはいましたが、あいかわらず生活の面倒はすべて彼女のC子任せで、稼いだ金は博打と軍団を引き連れてお山の大将大盤振る舞い、まったく手の付けられない乱行振りでした。

目的もなくただ遊んでいるのですから楽しいに決まっているわけで、一人になって不安が募るとさらに遊んでごまかすみたいな暮らしでした。
さすがにこの年の夏が終わる頃にはC子もいい加減愛想がつき始めたのか、家を開ける日も出てくるようになり、無言電話が増えたりしました。(男が出来たのかぁ?)
当時C子の親友にクラブ歌手10年というツワモノがいて、その彼女の生き方に共鳴を受けたのかC子もまた破天荒な生活にはまり込んで行ったのです。
音楽大学の1年の休学もそのままズルズルとけじめの無いまま退学してしまい、早い時間の仕事もコンパニオンからクラブホステスに移り、深夜の「同期」の仕事もそのまま続けると云った具合に水商売に完璧に浸かりきっていました。

お互いに部屋に戻るのは夜明け近くで、そのまま夕方まで寝ていて起きれば仕事、というような生活でしたから、顔は会わすものの会話も次第に少なくなり、自然二人の関係も殺伐となっていったのでした。
結局この年の夏はこんな調子でバカ騒ぎを繰り返えすばかりの毎日を過ごし、何の進展も進歩も得ぬまま秋を迎えました。
そうこうしているうちにいよいよ日拓グループの六本木進出が具体的に動き出し、高田馬場も慌しくなっていきました。
六本木の新店舗に合わせて新しい従業員の募集が行われ、オープンまでの間は高田馬場リチャード三世で研修を行うということになり急に従業員が倍になりました。

入社してきたのは元々六本木で働いていたヤツばかりで、学生街の高田馬場とは肌が合うはずも無く、仕事が終われば新宿だ六本木だ、と結局委員長も水を得た魚のようになってしまいバカ騒ぎに一段と拍車がかかりました。
エスメラルダの連中も六本木のハコ取りは初めてですから若手DJ達も狙ってきます。
益々調子に乗る委員長でしたが、ここで日拓グループの内紛が起こりました。
以前、高田馬場リチャード三世の階上にあったチェーン店パブに勤めていた一団が、吉祥寺にオープンしたディスコにハコで動いたことがありました。
残念ながらこの店はパッとせぬままオーナーに売却されてしまい、結局この一団はまた高田馬場に戻ってくることになったのでした。
もちろん六本木進出に合わせて出戻りしてきたわけですが、この経緯を知る当時のリチャードの店長は彼らの六本木行きを阻止しようとグループ内の人脈に働きかけたのでした。

リチャードの菊○店長は日拓グループで苦節5年目にして、ようやく手にした六本木デビューですから何としても自分の城を築きたかったわけです。
それにはまず、この水商売全とした一団を何とかして排除しなくては将来の自分の立場も危うくなってしまいます。
ところがこの一団のリーダー格のK氏が同社の企画部長と仲が良かったため、人事の決定はかなり長引きました。
菊○店長は宮城県出身の真面目だけが取り得のような人でしたから、イメージ的には六本木のディスコはイマイチでした。
片やK氏は水商売バリバリのタイプでしたから、企画部長も彼を押すのは無理からぬことと云えます。ただ、吉祥寺ハコ取りの一件があるので店長の候補からは外れていました。

エスメラルダは菊○店長との長い付き合いもあるし、自分が店長の座を取るとなれば手足となって動くスタッフはできるだけ身内から連れて行くのは当たり前ですから、DJについてもエスメラルダとの契約は間違いないものでありました。
また、菊○店長と委員長の関係も良好だったので、最悪の場合でも委員長は必ず推薦して入店させるということが約束されていました。
そんな人事を巡る社内の駆け引きが粛々と行われているある日、K氏が数名のDJを連れてリチャードにやって来ました。
オーディションということで三人のDJがサラを回しにやって来たのです。
サーファーファッションの小太りおかっぱ頭、目だけがやたらギョロギョロした老け顔のおっさん、予備校生のようなボク、といった三人でした。
委員長とは皆初対面でした。

早速、菊○店長に尋ねると、どうやらK氏が企画部長に進言して連れてきたようでした。
高田馬場と六本木は違うからDJもそれなりの人材を連れてこなければダメだというようなことでした。
少なくとも18歳からこの年までこの道でメシを食ってきた委員長は、この田舎者の水商売かぶれしたK氏の態度にかなりムカつきましたが、まだ店もオープンする前からトラブルを起こしてはそれこそ皆に迷惑が掛かると思い、湧き上がる怒りをぐっと呑み込みました。
そしてこの因縁は菊○店長対K氏の代理戦争として六本木へと持ち込まれていくことになります。






最終更新日  2005年11月03日 06時55分42秒
コメント(0) | コメントを書く
2005年11月02日

さて、株式会社エスメラルダは更にDJ見習いを増やしていきましたが、ここで日拓グループが六本木に新しい店を出すという噂が入り、いよいよ六本木進出の足掛かりが出来そうだということで、早めの根回しのため委員長は高田馬場のリチャード三世に入ることになりました。
エスメラルダでは未だ六本木のハコが無かったので、なんとかこの機会に六本木進出を図るため、ここは一番委員長が出張ってオープンDJに入り込むという作戦が立てられました。
学生街の一角にあるこじんまりとしたお店は、何故か夕方6時から翌朝の5時までオールナイト営業といういささか強引な店でした。
もちろん委員長のパートは午後12時終電までで、深夜はテープをエンドレスで回すといった、始発待ち学生のための喫茶店代わりディスコのようなものでした。

そしてアシスタントに立川エモンからユウジがやって来ました。
ユウジの後釜は出戻りのヤスオがシンジのアシスタントとして入り、更に沖縄からやってきたコジャがその下に付きました。
そしてもう一人恐怖の張り付き男ニックが高田馬場に入り浸るようになりました。
ニックはこのリチャード三世のオープン時代からの常連で、後にジャパニーズとしてデビューしたインフォーメーションズを結成した頃のメンバーも皆この店の常連でした。
そんな縁もあってか、新しい相棒を見つけてきたニックは四六時中ここに入り浸るようになりました。(やれやれ、また馬鹿野郎が群れてきます)

そんないい加減な日々を送っていたころ、ジュリーの父親の突然の訃報に全員が驚きました。下町の公団の一角で営まれた慎ましい葬儀、少々やつれた顔のジュリーを見たときには弔意もさることながら、こいつもオレと似たような育ちをしてきたんだなぁ、という戦友独特の実感が湧き上がってきました。
たぶんこれでジュリーもこの土地とはこれで縁切りになるのだろうなあ、という漠然とした思いで葬儀の列に並んでいた委員長でした。

ということで、高田馬場が拠点となった委員長の生活はこのあたりから元来の道楽者根性が頭をもたげ始めてきて、エスメラルダとは少々縁の薄くなるような流れとなっていったのでした。
正直言ってこの頃の委員長は、もうすでにディスコとかDJへの興味や執着が薄れ始めてきていて、何か新しいことをしたいという漠然とした願望だけを抱えて毎日だらだらと暮らしておりました。
歌舞伎町を離れたこともひとつの原因でありました。隣町とはいってもやはり高田馬場じゃ都落ちですからね。
そうなると本業より遊びの方に傾いていくのも無理ない話で、毎週水曜日にはヨンタナやシゲル、シンジやユウジも加わって、亀屋マンションのミニスタジオでお茶の間セッションをしたり、ニックの仲間を集めてきてダンサーズの振り付けをしてみたりと試行錯誤しながら新しい道楽の道を模索していました。

とは言っても根っからの道楽者ですから人が集まれば遊びの話ばかりで、その日その日を面白おかしくただただ自堕落に遊んでいるだけのことでした。
エスメラルダは多少強引ともいえるヒロシの商才もあって順調に大きくなり、抱えたハコやDJの数もさることながらプールした利益もそこそこの額を示し、このまま行けばきちんと会社登記をして起業しなければならないほどになっていました。
エスメラルダが大きくなればなるほど、逆に委員長は醒めていき、自分がやりたいことが見つからない苛立ちや、無意味に過ぎていく毎日の虚しさをバカ騒ぎで紛らわせるような生活を送るようになっていきました。

今にして思えば、この時もうすでに委員長の時代は終焉していたのでしょうね。
ただ時代の余韻に流されているというか、もう一度あの栄光を味わってみたいというような後ろ向きな感性しか無かったといえます。(賞味期限は完全に切れていましたね)
ジュリーの父親の死やその後に続くジュリーの結婚話など、歳と共に迫り来る現実を目の前に突きつけられ、委員長はプレッシャーを感じるばかりでした。
同じ時代を同じように歩いてきた相棒は、きちんきちんと生活を築きながら確実に大人になっていくというのに、自分は相変わらず何の根拠もない「夢」のようなものに振り回されているだけで、この先自分が一体どうなっていくのかすら考えようともしない自分自身に腹立たしさも覚え、それがまた自堕落な生活に拍車をかけるといったような悪循環が続きました。

この頃はとにかくヤケクソでバカなことばかりをしていたような気がします。
亀屋マンションには始終誰かが屯していて、そんな連中を引き連れてはあちこち繰り出しては騒いで、明日の不安を紛らわしていたのだと思います。
後輩が六本木のDJ連中にバカにされたと聞けば、すぐに軍団を召集して六本木のディスコになだれ込んだり、夜通し遊んだ後スケートボードを持って湘南海岸へ出張ったりと、頼もしい兄貴を演じてはいましたが、バカ騒ぎの後は決まって虚しさがこみあげてくるような閉塞感に苛まれていました。

それでもこの頃のバカさ加減とブラックジョークは冴えていましたね。
特に六本木DJと新宿DJの確執のようなものは歴史的(笑)な因縁もあったせいか、随分と手の込んだ悪ふざけもしました。
仕事が終わる深夜零時頃、軍団を亀屋マンションに集合させ、委員長のステージ衣装から全員タキシードに着替えさせます。
更にそこら辺にある菓子の箱とかを風呂敷に包んで持たせます。
委員長を筆頭に、シンジ、ユウジ、ヤスオ、コジャ、ニック他数名を引き連れタクシーをぶっ飛ばして六本木スクエアビルへなだれ込みます。
ビルの前のキャッチにわざとつかまり割引券などを貰い、シンジの清水訛りで入り口で金を払います。当時の六本木は男ばかりのグループは断れることもありましたが、どうみてもおのぼりさんにしか見えないタキシード軍団ですからすんなり入店します。

店内に入れば風呂敷包みをぶら下げてあたりをキョロキョロしながら、わざわざダンスフロアーを突っ切って客席に向かいます。
もうこの時点で結構な笑いものになっているのですが、更にDJブースに行ってマイケルジャクソンの「今夜はドントストップ」なぞをおねだりします。しかも丁寧な清水訛りです。
DJ氏は「ったくしょーがねぇな、田舎もんが入ってきちゃったよ」などと思いつつも、タイミングを見てバーンとかけます。

マイケルの奇声が聞こえるや否や全員でフロアーに飛び出します。
それまで楽しく踊っていた常連の方々は、ダッセーっよ!とか吐き捨てながらフロアから散っていきます。
そしてここでユウジがリカちゃんマイクを取り出し、マイケルの物真似で登場です。
このユウジってのがマイケル似で、オフザウォールのジャケットと同じタキシード姿でフロアに立つと、回りはジャクソンズ風に一列に並んで首振りダンスを踊ります。
回りの観客は一体何が起こったのか理解できぬまま、この軍団のショータイムに引き込まれていきます。
最初は笑いながら「馬鹿じゃねーの」とか言って見ていたやつらも、結構マジな踊りに圧倒されていきます。
更にここでシンジがDJブースに向かい、「バスティンルーズ」や「ZAPP」をリクエストします。DJ氏も今目の前に展開されている出来事を理解できぬまま言いなりの選曲が続きます。(誰だよこいつら、みたいな)

さあこうなってくるともう軍団の独壇場、ショータイムです。
トドメはニックのバック転などかまして大爆発。
さすがに収拾がつかなくなったDJ氏はスローダウンして幕引きです。
途端に軍団は風呂敷包みを手に再びフロアを横切って一気に撤収です。

とにかくこんなバカをすることがとてつもなく楽しかったですね。
でも裏を返せば、そんなことでもしていなきゃ毎日の閉塞感を紛らわすことができなかったのも事実でした。

また、夜通しディスコで遊んだ後、イケイケのヤスオにバンを借りてこさせ、深夜の246をぶっ飛ばして一路湘南海岸へと出張ります。
全員にスケートボードを持たせた委員長は、砂浜にサーフボードを刺して身支度をしているサーファー達の隣でスケボーを砂浜に刺してそこに全員で寝転がります。
サーファーのにーちゃん達は委員長たち軍団を胡散臭い目で見ます。

「このあたり良いウェイブが来るって聞いたんだけど本当?」ヤスオが声をかけます。

「ウェイブですか?」何言ってんだこいつらって感じです。

「良い波来る?」ユウジが聞きます。

「サーフィンやるんですか?」

「いや、寝に来ただけ。がははは~」

全員大笑い。
あまりに異常なズレ方の委員長達に恐れをなして移動するサーファーにーちゃん達。

「なんだよう、見学させてくれよ、波乗り~」

サーファーの後を追うようにスケボーを持って移動する軍団。

いい歳コイて兄貴風吹かせてこんなバカなことばかりしていたわけです。
もうすでにこの頃の委員長は壊れ始めていましたから、彼女のC子もそんな委員長を情けないと思ったのか、本人もこのままじゃダメだと思ったのか、夜の世界にどんどん突っ込みはじめて行きました。
クラブ勤めも新宿じゃダメだから銀座に出る、みたいな話にもなってきて、JAZZヴォーカルの方も中々芽が出ずに委員長共々精神的には相当追い詰められていました。
次第にお互い家を開ける日も増え始め、顔を会わせる時間も減ってくれば殊更焦燥感はイライラへと転じていきます。
そんな空虚な気持ちで意味の無いバカ騒ぎを繰りかえしているうちに数ヶ月が瞬く間に過ぎて行きました。






最終更新日  2005年11月02日 09時03分36秒
コメント(0) | コメントを書く
2005年11月01日

エスメラルダの名前が売れ始めていくと、同業者との無用な摩擦や余計なトラブルなども起こり始め、ヒロシや花見ではコトを収めきれずに委員長の処に話が回ってくるようになりました。
くだらないイザコザでは高飛車なヒロシが黒服と揉めて脅されたり、ハコ取りに絡んでエスメラルダの若手DJが苛めにあったりとか、勢いに乗る集団(組織)の強さに嫉妬したり妬むやつらもそれだけ多かったってことです。

ある時などは東宝会館の真ん前でヒロシと某ディスコの黒服とが口論となり、カッと来た黒服がつい手を出してしまったことから警察沙汰になってしまい、歌舞伎町交番に二人して引っ張られるという事態になったことがありました。ところが、ヒロシをぶん殴った相手の黒服に前科があったので、ヒロシが訴えを起こせば非常にヤバイことになるわけです。
ところが、どうしてもヒロシにだけは詫びを入れたくないといって意固地になってしまったんですね。警察だってこんなくだらないことでコトを大きくしてつまらない仕事を増やしたくはないし、なんとか和解するよう間に入ってヒロシを宥めたりしたのですが、ヒロシもこうなると意地でも訴えると言って引き下がりません。
そこでヒロシの上司ということで委員長が呼び出され、「二人ともとにかく今日はこれで収めてくれよ。こうして俺まで呼び出されてわざわざ来ているんだから、これ以上コトを大きくすることもないだろう」と諭すと、トラブルの渦中にいる者にとってはメンツの問題だけですから、「ロニーさんがそう言うのなら」ってことでお互いが折れるわけです。後に双方個別に会って「後々面倒を起こさないように手打ちしておいた方が良いぞ」とアドバイスすれば、前科者も素直にヒロシの元を訪れ詫びを入れます。受けてヒロシも水に流すってことになり、簡単に収まるわけです。
そうなると、双方がお互いに「ロニーさんが裏で動いてくれたんだな」と勝手に解釈しますから、益々話がオーバーになり偶像化されていってしまいます。(いわゆる年の功ってだけのことなんですけどね)

そんなことが重なって、知らぬ間に「ロニー」という偶像が委員長自身を飛び越えてしまい、後輩たちには妙な期待をされるような存在となっていってしまったんですね。
俗に言うツッパリ系にこのパターンが多いですよね。番長とかね(笑)。
回りがどんどん大物にしてっちゃって、本人もがんじがらめになってワルをやらざるを得なくなってくるってパターンですね。無矢理したくもないケンカさせられたりね。
まあ委員長の場合は極道張ったわけじゃありませんから、そんな過激なことになりはしなかったんですけど、それでも妙に頼られることが多くなってそれがまた派閥を作ったりしてしまったんですね。ほんと、人間てのはどうしてこうすぐに群れたがるのでしょうかね。

兄貴とか、親分とか言われて乗せられた方も素直にギブアップしちゃえば良いんですけど、一度お山の大将になっちゃうと中々引けなくなって更にドツボにはまっていくみたいな感じですかね。
気が付いたら刑務所に居たなんてね、洒落にならないですね。
でもって、出所してきたら回りはみんなそれなりの社会人とかになって落ち着いちゃってたりして、逆に今度は尋ねられては迷惑だみたいな態度されて、また心がねじれちゃう。あとはプロの世界に行くしかありませんよね。

乗せられた方もアホですけど、無責任に乗せた奴らはもっと悪いですね。
いつも安全圏に居て、乗せたバカの影に隠れて不良のカッコして遊んでるだけ。
でもってリスクは全部バカに任せて時期が来たらしっかり一般人になりきっている。
それで、「昔はオレも悪かった」とかノーガキこいたりするんですから、これではリスクを一身に背負って人生捨ててくれたバカ(馬鹿者達の救世主ですね。Oh,ジーザス!)に申し訳ありませんね。

委員長が歩いてきたこの業界も同じようなところがありまして、本当に突っ走って時代を生きてきた奴らがまだ現役で残っているとすれば、まともな人生を送っているわけが無いんで、間違いなくどこか壊れてるはずなんです。壊れているからこそ本物なんで、それがまっとうな暮らしして現役で生きてたりしたらその方がよっぽど怪しいですよね。

時代に本気で関わってとことん逝っちゃったヤツが無傷でいるわけはないんです。
またまた話が逸脱しますけど、当時のディスコ業界といったところで所詮は水商売ですから適当に生き残ろうと思えばいくらでも残れた世界なんですね。
まあ芸能界ってことで云っても同じですが、要は水モノですよね。
時代との関わり方ってのもあるんですけど、仮にDJとかバンドとか言って騒いでいたとしてもいずれは時代の感性とズレが生じてきますから、現役のままでずっと走り続けることなんてできるわけはないんです。

そんな時代の境目に立たされた時に横飛びしてどこぞの店の店長になったり、黒服に転向して異業種にもぐりこんで身を立てたりしたようなヤツらは、委員長の友人的分類ファイルのカテゴリーの中の「昔馴染み」ではあっても、一緒に時代と格闘した「戦友」にはなっていません。
つまり、金が稼ぎたくてこの世界に入ったのではないし、出世したいがためにディスコで働いていたわけではなく、それは働いているうちに欲が出たまでのことで、根本的には音楽というものに囲まれて好きなことをしていたかっただけのことでした。
もちろん動機としては、おねーちゃんにもてたいとか人気者になりたいってことが先ずあったわけですが、それも道楽に身を投じていくうちに二次的なものとなり、生活の全てが音楽を中心に回りだす頃にはもう引き返すこともできないところまで来ていたというのが実際の話です。

そしていつのまにかブームにも翳りが出始め、勢いだけで働ける年齢も過ぎ、少しは将来を考えなければならなくなった時に、それでもDJってものにしがみついたヤツ、バンドとしてしがみついたヤツ、ダンサーとしてしがみついたヤツ、どんな形にせよ自分が本気で時代と関わったことにとことんしがみついたヤツ、そんなヤツらこそが委員長にとっては唯一ホンモノであると思えるのです。
そしてそういう道楽者達と同じ時代を共に生きたということを誇りに思い、戦友として生涯忘れずにいたいと思っています。

だから戦友が今どんな暮らしをしていようが、何をやってメシを喰っていようが、はたまた犯罪者になっていようが(笑)、そんなことはどーでも良いことで、あの当時、後先考えずに、小利口にも立ち回れず、とにかく不器用に突っ走って行って時代の渦に飲み込まれたヤツラこそが、私自身にとって唯一リアリティのあるホンモノの戦友なのです。
委員長の場合は自分でケジメがつけられなかったために、時代の方からケジメをつけられてしまい、国外逃亡というか島流しの刑にあってしまったんですが、これが逆に幸いして、どうにか今はそれなりの暮らしをなんとか得ることができました。
しかし、時代と共に玉砕戦没した戦友や、未だ道楽と現実の間をさまよっている戦闘流浪者(Missing in action)なども数多くいるわけで、せめてこういった戦友達の戦闘勇姿を語ることが生き残った道楽者の務めではないかとも思っているわけです。

もうひとつ言わせて貰えば、ディスコと言えども所詮は水商売ですから、同業種で食い繋いで行こうと思えばいくらでもできた世界だったんです。いわゆる黒服に転向するとか、スナックやクラブへ流れていくという、そのまんまの世界ですね。
当たり前の流れですよね。それはそれで苦労もあるだろうし、立派な生き方でもあると思います。それこそ委員長がとやかく言うべきことではありませんし、それをどうこう言うのはおこがましいことでもあります。
ただ、同じ時代を生きた道楽者としては当たり前すぎる展開であまり面白みが無いってのが本音です。

まあ、なんだかんだ云ったところで極めて個人的見解というか、極々個人的解釈に基づいた理屈でしかないんですけど、当時の委員長たち道楽者が追い求めたフィーリングってのはFUNKYだったわけですから、その後の人生にもFUNKYっぽさが出てこなければそれまでの生き方がウソのように思えてくるのです。

ちょうど今から20年前になりますが、委員長が日本を脱出した頃、風の噂でオーティス中村がカラオケ屋の司会をしながらDJを続けてるって聞かされて異常に嬉しくなったことがありました。
それが事実かどうかは別として本当に嬉しかった。
彼らしいな、って、まさしくFUNKYな生き方だなって。
だって現役当時の彼は、それこそ飛ぶ鳥落とす勢いのカンタベリーチェーンの花形DJ(笑)だったんですから、それこそが彼の「DJ」へのこだわりだったのだと思えて共感が沸いたんですね。
それがもし「○○店の店長やってるらしい」っていうような噂だったら、たぶん「あーそう」って何も感じなかったと思います。それってごく当然の流れでしかないし当たり前な生き方でしょ。

土建屋さんで職人してたヤツが、土建屋が潰れて今度は建築資材売る商売始めたところで、それは自然な成り行きでしかありませんよね。
職人はあきらめたけど商売がうまくいってよかったねって。それだけです。
ところが、元土建業の職人さんが手工芸で技術を生かしながら未だ職人を続けている、なんて話を聞いたら仕事にこだわる「職人魂」を感じざるを得ませんし、更に飛躍して今は八百屋さんをやってますなんて聞いたらもっとFUNKYですよね。
実際にオーティス中村がカラオケ屋で働いていたかどうか知る由もありませんが、未だ現役DJを張っているというその生き様こそが彼の人生を如実に表していると思います。
そして、委員長は戦友の一人としてそんな彼を誇りに思っているわけです。

もうひとつ面白いエピソードとして、委員長の後輩で妙に生活感のあるヤツがいて、やはりディスコブームに翳りが出始めた頃、こいつは委員長たちゴミ仲間からすっぱりと抜けてさっさと就職していってしまったんですね。

「ロニーさん、やっぱ、安定した生活は公務員しかありませんよ」

ヤツはそう言って区の清掃局員になっていきました。
ゴミ仲間からゴミの掃除屋が出たわけです。
でも委員長の場合、別に安定した生活を求めてDJになったわけじゃないし、むしろ安定した生活というか、フツーの生活が嫌で飛び込んだ世界でしたから生活に対する不安とかリスクは付いて回るのが当たり前だと思っていました。

まあこれも謂わば結果論で、そいつは元々DJに向いてなかったってことなんですけど、そういうヤツはそれで自分の人生を全うすれば良いわけです。
いくら先輩だからって、委員長がそのことについてとやかく言う筋合いもないし、権利もありません。当然ですね。
本人が納得する世界で立派に暮らせばそれで良いわけで、今更昔の話を持ち出してきて他人がとやかく言うべき問題でもありません。

今も現役で道楽を続けている方はたぶん相当なリスクを背負って生きておられると思うし、委員長のように現役は遠の昔に引退しましたが、人生を博打にしてしまった見返りは程度の差こそあれ、未だ同様のリスクを背負って生きていることには変わりはありません。

人は息吸って吐いているだけで勝手に歳は取っていくし、歳を取れば最低限の社会秩序も守らなきゃならないし、協調しなけりゃならないことも増えてくるわけです。
それでも「オレはお前らとは違うんだ」っていう反骨精神を持って生きることが道楽者の魂だと信じているし、その表現方法はどうあれ「オレは騙されネェーぞ」って云う社会へのメッセージこそがFUNKYそのものだとも信じています。
だから、「オレは昔凄かった」って言うヤツに限って、とっくに道楽者魂は捨てちゃっているんですね。
昔なんかどうでも良いんです。それはあくまでも生きてきた軌跡でしかないんで、今どうやってFUNKYを体現しているかってコトだけが委員長の人生の秤なんです。
今日はちょっと理屈っぽくなってしまいましたね。






最終更新日  2005年11月01日 07時04分23秒
コメント(0) | コメントを書く
2005年10月31日

1980年正月、ようやくお屠蘇気分も抜け始めた頃、飯倉の事務所もそろそろ不穏な動きが見え始めてきました。
スポンサーである株式会社タートルに掛かってくる電話がどうもただ事ではなく、回数も日に日に増えていったのです。
事務所の借賃の換わりに電話番と事務を代行することが約束でしたから、タートルに掛かってくる電話は全て伝言など受けてFさんかSさんに連絡しなければなりません。
前にも言ったように当時はポケベルですから、受けた当人が連絡をしてこなければどうやっても連絡のつけようがありません。
そのうち頻繁にかけてくる先方も段々態度が荒くなってきます。

「てめぇ、名前なんて云うんだ?いつまで待たせんだ、このヤロー!」

てな口調になってくると、事務お手伝いのMちゃんはさすがに怖くなって近くにいる委員長やヒロシに電話を変わります。

「逃げ隠れしてねぇで電話よこすように云え!」

「ほんとにそこにいねぇんだな?今から行って確かめるぞ、こらぁ」

事務所は事務所でもほとんど危ない事務所のやり取りそのままです。
そんな内容をFさんに伝えると逆にこめかみをぴくぴくさせて、「今朝も極○の奴ら数人がウチに乗り込んできやがったから蹴り倒してやった」とか云い出す始末です。
さすがに委員長もこれはちょいとやばいんじゃないかと昇ちゃんに相談しました。

「なんかさ、手形割とかやってるらしいんだけど、ちょっとやばいかもな」

昇ちゃんも同様に感じていたようです。

二人の心配が現実のものとなるのも時間の問題でした。
ビルのオーナーから事務所の閉鎖が言い渡され、即刻退去を求められました。
もともと家賃など払っていたわけでもないし、出て行けといわれたところで居座るほどの執着もありません。
そしてこのあたりが大変要領の良い委員長は、早速中村マーちゃんにトラックを借りてこさせ事務所のカウンターだの事務机だのをしっかり持ち出しました。
ついでにリースのコーヒーメーカー・セットなども積み込んだ一行は、すばやく手配した引越し先の原宿まで手際よく運び出したのでした。(まるで夜逃げだよね)
この頃すでにFさんもSさんもほとんど顔を出さなくなっていましたから、御両名に代わって備品は持ち出し、お預かりしておきましたというような言い訳で通すつもりでした。

どうもドタバタ劇には慣れっこになってしまったのか、こういう土壇場で指揮官のようなテキパキとした動きは委員長自身驚くほどの手際のよさで、数名の若手DJ達を使ってさっさと引越しを完了させてしまいました。
それにしてもまるで夢でも見ていたような事務所開設と会社設立でしたが、その幕引きも夢のような出来事でした。
しかしこの事務所開設の経緯って、今にして思えば「企業舎弟」ってやつですか。
結局、この飯倉の事務所閉鎖以降FさんにもSさんにも会うことはありませんでした。

エスメラルダが原宿に移ってから数ヶ月が過ぎたある日、委員長と昇ちゃんは歌舞伎町のトゥモローエースで坊主頭に左手小指にグルグル捲きの包帯も痛々しいFさんと偶然再会したのでした。本当に偶然のことでしたが、初めて委員長たちがFさんと会ったのもこの店でした。
家具の持ち出しで多少後ろめたい二人はドキドキしながら挨拶すると、「最後まで面倒見れなくてごめんな。オレもこんなになっちゃたからさぁ」そういって包帯に捲かれた左手小指を上げるFさんでした。

「君達には何か迷惑はかからなかったか」

逆に心配してくれるFさんにはちょっと心が痛みました。

「人生には辛いこともあるけど、君たちはまだ若いから頑張って成功してくれよ」

相変わらず明るいノリのFさんでした。

昇ちゃんや委員長にとっては心強いスポンサーを失ったことになりましたが、いずれは別の道を行くことは解りきっていたことでしたし、長くは続かないであろうこともよくわかっていた二人でもありました。
それでもこの出会いは、ガムシャラに突き進むしかなかったエスメラルダの船出に加速をつけることのできた幸運なチャンスだったと今でも思っています。
とかく見栄が重要なポイントとなるこの業界にあって、エスメラルダ設立のハッタリは売名行為という面からは大変インパクトのある滑り出しでした。
もしこれが原宿の小さな事務所からのスタートであったなら、これほどの短期間で人材集めからハコ取りまで多角的には進まなかったことでしょう。

すべては結果論かもしれませんが、意図せず意識せず、偶然の出会いから生まれたこの成り行きが委員長と昇ちゃんの人生の流れを変えたといっても過言ではないでしょう。
まさに人との出会いが人生を織り成していくということを身を持って理解した出来事でもありました。

飯倉の事務所を出て、今度こそ正真正銘自分達の力で借りた新しいエスメラルダ本部は、原宿の竹下通りを抜けてちょっと奥に入ったところにある二階建てのモルタルアパートでした。
小さな企画会社やデザイン工房などがオフィスとして使っているような6畳一間のこじんまりとした部屋には、あの飯倉の事務所から勝手に持ち出してきた豪華な応接セットやカウンターが置かれ、このちぐはぐな感じがまさにエスメラルダに相応しい雰囲気を醸し出していました。
それでもメンバーはみな一様に落ち着いたというか、自分たちらしい場所に収まった心地よさか和気藹々と再出発を祝ったのでした。

株式会社エスメラルダの事務所が原宿に移り、スーツにネクタイはとっとと辞めて革ジャンスタイルになった委員長は、ヒロシやホリと共に事務所の電話番なども務めたりしておりました。この頃にはハコ取り店舗も相当な数に昇り、それに伴ってエスメラルダ所属の新人DJもやたらと数が増え始め、委員長の知らない顔も随分とおりました。元々会社経営なんてできるタイプではありませんから、会社ゴッコもネクタイを外した途端にヒロシ任せになってしまい、委員長はただ先輩ヅラして事務所でグダグダしているだけでした。(道楽者の本性が現れましたね)

この頃のエスメラルダはサム岡田を筆頭に大学生のアルバイトDJみたいなやつらも結構いて、人生を博打にしてしまったようなアホな奴らはなぜかこういったやつらのグループとは相性が悪く、ともすればいがみ合いになったりもしました。
その昔ジュリーや委員長がみつぐ氏とかと折り合いが悪かったように、いつの時代も学歴組と落ちこぼれ組みたいな対立がどこにでもあったわけです。
(どのみち皆ろくでもないゴミ野郎だったんですけどね)
そしてマネージャー役のヒロシの傲慢さとも対立したりしていたので、知らぬ間に派閥のような群れが出来上がってしまいました。
西武線沿線で田無のジュリーを中心にまとまった、花見、サム岡田、ヒロシ、そして見習いの多くがヒロシの下に付きました。
更に中央線沿線高円寺亀屋マンションを中心として、シンジ、ユウジ、ヤスオ、コジャ、加えてニック・グループという感じの色分けが自然と出来上がっていきました。

当然委員長の周りに寄ってきた連中はアホの王道を行くような連中ばかりでしたから、委員長が漫画や週刊誌で聞きかじった屁理屈をこねくりまわしたりすると、みな押し黙って聞き入り、やっぱりロニーさんは凄いとか尊敬されたりしておりました。
何が凄いんだかよくわかりませんが、昔から委員長の言動は人を左右してしまうようで、本人すら意味の判らない単なる受け売りでも人になんらかの影響を与えてしまうという少々危ない才能があったのかもしれません。(イエスの箱舟かぁ?)

ともかくいい加減な世界の中で、更に落ちこぼれて集まってきたような奴らの知能レベルがどの程度だったかは大方想像が付くと思いますが、本人が望んだわけでもないのいつの間にか皆に持ち上げられて兄貴分のような存在になってしまった委員長でした。

持って生まれた才能か、親に感謝すべき特性とも云える「勘の良さ」だけは確かにあったように思えます。それと、水商売を長くやっていると幅広いバカ野郎を嫌というほど見てきていますから、アホな奴がアホなことをするとどういうことになるかくらいは大抵見当が付くので、アドバイスが的確だったという点も後輩に慕われた理由かも知れません。
特にDJなどというお調子者の代表選手のような仕事をしていると必ず女性関係ではトラブルを起こしがちですから、根本的なセオリー(なんじゃそりゃ)とか生き延びる術とかを伝授したり、あるいは筋の方々とのお付き合いの仕方とかを教えていくうちに実際にトラブルに巻き込まれたヤツの尻拭いなどもさせられるようになってしまった委員長でした。
そんな自慢にもならないバカのバカ話がいつのまにか武勇伝になり、更に尾ひれが付き、加えてダンサーだのバンドだのと過去の経歴がハッタリになって、自分では知らないうちに偶像のようなものが生まれてしまったようでした。(やれやれ)






最終更新日  2005年10月31日 07時05分57秒
コメント(0) | コメントを書く
2005年10月30日

石川県金沢のディスコナイトは中々活況のうちに委員長の任務も無事完了し、後続は花見キョンが引き継ぐことでなんとかエスメラルダの面目は立ちました。
北陸の寒さにもメゲず頑張った委員長は関○部長にも大変気に入って頂き、できればこのまま残って欲しいと請われましたが、心からの御礼を申し上げてこの地を去りました。

実は委員長の滞在中にもうひとつアホな事件が起きてしまい、何故かこの金沢と委員長の相性はあまり良くなかったように思えます。
この時エスメラルダのマネージャー役ヒロシが、委員長の後任として送り込んできたのは立川エモンのシンジを通じて入ってきた広瀬ヤスオという男でした。
一見大人しそうに見えるヤツだったのですが、外見とは裏腹に幼児期に両親と死に別れ施設で育ったという相当悲惨な体験をしてきた根っからの不良でした。
彼の数日間の仕事振り、DJとしての資質について関○部長から手厳しい評価をもらった委員長はヤスオを呼び出し東京に戻るよう伝えました。
よくよく話を聞いてみれば、「つなぎ」が上手く出来ず同僚のXX君に指図されたことに腹を立てたヤスオはつい地が出てしまい、「テメーなめてんじゃねぇぞ」と脅しをかけてしまったということでした。

せっかく委員長がサム岡田の起こした不始末の汚点挽回で頑張っているというのに、このアホタレは一瞬にしてこの努力をパーにしてしまったのです。
元々不良上がりの委員長ですから、自分と同じ弱くて気の小さい馬鹿野郎のしでかしたことを今更怒ったところで仕方ありません。

「もっと強くなれよ。どうせお前この先どう頑張ったってまともな仕事はできないんだから、いつまでもガキみたいに突っ張ってねぇでもう少し辛抱しろよ」

ヤスオを部屋に呼んで先輩として一言訓示を垂れた委員長でしたが、またもや後輩の不始末で更に滞在が延びることになってしまいました。
ヤスオが戻されて後続のタマが無くなったエスメラルダは、止むを得ず花見キョンを送り込むことになり、たて続く不始末にジュリー自らが詫びに来るということになりました。
金沢にエスメラルダ幹部集合、ということで北陸金沢の厳しい冬を体験した委員長でした。

そんなこんなでようやく委員長が東京に戻ってきてみると、今回のトラブルの張本人サム岡田はジュリーの命令で関東ところ払いとなり白馬のスキー場へ飛んでおりました。
今回の不祥事の反省も兼ねて田舎に飛ばされたサム岡田ですが、本人にとってはこの上ないシヤワセな仕事にルンルン気分できっとスキーなぞして楽しんでいるだろう顔が目に浮かぶ委員長、ヤスオのように何をやっても裏目に出る奴もいれば、同じ馬鹿野郎でもこんなラッキーな奴もいるのかと思うと、世の中の理不尽さ、持って生まれた因果に想いを馳せずにはいられませんでした。

よく、徳とか業とか言いますが、やはり人は何かの因縁を背負ってこの世に生まれ出てくるのでしょうか。何をやってもとことん裏目に出るヤツもいれば、どんな時にも必ず救いの手が差し伸べられるヤツもいて、一体この差は何なのだろうかという疑問は未だ明快な答えを得るに至ってはおりません。
それでも、委員長には確信を持って言えることがひとつだけあります。
それは「己がやったことは必ず同じ形で返ってくる」ということです。
自分が誰かにしたことは、良いことでも悪いことでも必ず同じコトを他人にされるということです。いわゆる人生の請求書ですね。ツケが回ってくるとも言います。
だから善行を積みなさいという年寄りの言葉に偽りはありません。
証明は出来ませんが、委員長自身の50年の人生はこの定義にきちんとはまっていますから、大概は正しいのではないでしょうか。

まさに激動の1979年もようやく年の瀬を迎え、城を無くしたジュリーと委員長の成り行きとは言いながらも体を張った事務所経営もなんとか形になった大晦日、久しぶりに新宿クレージーホースで二人顔を合わせて正月を迎えました。
この日から委員長はジュリーのことを「昇ちゃん」と呼び、お互い何とかこの業界で生き残っていく覚悟を決めたのでした。
委員長の彼女C子もこの日は仕事を休んで、皆で一緒にドンちゃん騒ぎの年越しを過ごしました。思い出の明治神宮へも初詣に行き、新しい年が新たな飛躍の年となるよう、エスメラルダのスタッフ全員でお祈りしました。

明けて1980年はポール・マッカトーニーの大麻所持現行犯逮捕による国外退去というセンセーショナルな事件で幕が開きました。
ビートルズ来日以来14年ぶりのコンサートが中止となり、多くのファンが嘆き悲しみました。ギャラが折り合わず強硬手段に出た結果だとか、色々な憶測も乱れ飛びました。
もうひとつ大きな話題はモスクワ五輪のボイコットですね。
民主主義対共産主義の対立、これが最後の山場だったのかもしれません。

そして山口百恵が三浦友和と婚約引退発表。
変わりにと云っちゃあなんですが、松田聖子の「裸足の季節」デビューでした。
タケノコ族が原宿の名物になったのもこの年です。
銀座で1億円を拾った大貫さん、今もご健在のようです。
悲惨なニュースでは後に映画化もされた新宿西口バス放火事件がありました。

道楽者の主食牛丼の吉野家が倒産。委員長はこれで牛丼が食べられなくなるのかと思いちょっとショックでした。
立体パズル「ルーブキュービック」が大ヒット。
頭の悪いDJ業界ではあまり流行りませんでしたね。(笑)

イラン・イラク戦争勃発。究極の代理戦争へと発展します。
プロ野球では長嶋監督が辞任、翌月王貞治選手が現役引退発表。
そして1980年12月8日、世紀のアーティスト・ジョン・レノンがニューヨークで凶弾に倒れました。世界が悲しみに包まれた年の瀬でした。

そんな時代背景の1980年代の新宿歌舞伎町ではこの当時、角川映画のピカレスク・ロマンが時代の風潮としてあったせいか、委員長はエスメラルダに賭ける情熱と野望を映画のストーリーに重ねて、すっかりヒーローになりきっていました。
(今度はアウトローごっこですね)

「手負いの獣にとって優しさは、危険を招く罠になると~」欲望の街~「白昼の死角」
「動く標的狙いを付けて」~「蘇る金狼」
絶好調の故松田勇作氏の「野獣死すべし」と続く一連のヒット作に、かぶれ易いお調子者の委員長は革ジャンにサングラス、すっかりとピカレスク・ヒーローになりきっていました。
昼間はスーツにネクタイ、一般人のフリをして飯倉の事務所に通い、夜は革ジャンとサングラス、黒ずくめの衣装という具合に、映画さながらの野望に燃えるアウトローをしっかりと成りきって演じていたのでした。(相変わらずの馬鹿ですね)

また、この頃は新宿ビバヤング時代のオオイケさん(覚えてますか?歌舞伎町ノックアウト事件で挫折してしまった先輩です)などが稲○系Y組でプロデビューを飾り、すっかり東口グリーンで良い顔になっていたり、その兄貴分のHさんなども出入りしていて、新人DJ連中の間ではアウトローにすっかり祭り上げられていた委員長でもありました。
更に、西口V-oneにいた細○チーフもT会系で本職になっていて、委員長のアウトロー人生に彩を添えてくれました。
もちろんエスメラルダのスポンサーはS会のFさんですから、もう委員長の周りはアウトローだらけで益々その気になっていった委員長でありました。







最終更新日  2005年10月30日 08時30分40秒
コメント(2) | コメントを書く
このブログでよく読まれている記事

全8件 (8件中 1-8件目)

1


Copyright (c) 1997-2021 Rakuten, Inc. All Rights Reserved.