セイヤのblog

2011/04/04(月)01:48

原発事故に見る日本国の通弊

政治(149)

私は当日記に於いて、日本を蝕む「日本国の通弊」について度々書いて来た。しつこい様だが文藝春秋に掲載された故司馬遼太郎氏の論文の一節を再び掲載する。 「日本国の通弊というのは、手の内、特に弱点を国民に明かす修辞というか、さらに言えば勇気に乏しいことです。」   米国政府のシンクタンクであるISIS(科学国際安全保障研究所)の責任者がこんな事を言っていた。 「日本国政府は福島第一原発の1号機から4号機までの被害状況をそれぞれに小分けにして評価し、被害レベルをより小さく見積もろうとしている。両国を比較すれば、日本政府より米国政府の方が(国民を守ろうとする姿勢は強い)」と・・・ 彼は現在の福島第一原発の状況をレベル6だと主張している。 IAEA(国際原子力機関)も日本の対応に業を煮やしてか度々勧告をしているが、それに対応した進展は未だ見られていない。   我々市井の人間に其の真実の処は知り様が無い。 そして日本国政府も東電も、テレビで解説を続ける原子力の専門家と称する御用学者達にも、格納庫内・融合炉内で現在何が起っているか(解かっていない事が解かって来た。) 解かっていないから曖昧な表現しか専門家や責任者の口から出て来ないのだろう。目先の数値が上がった下がったで一喜一憂しているが、その原因さえ定かでは無いのだ。 「先延ばし」「様子見」「現実の小出し」をする事により「責任性の拡散」を図ろうとする姿勢は日本国の通弊そのものだ。 現場で生命を危険に晒しながら必至の作業で「現実」に立ち向かっている人々を思う時、未だに「解からない事」での「曖昧さ」にしがみ付いている人間が政府・東電の上層部に存在する事自体に眩暈がする。「解からない事」「曖昧である事」其のものに大きな責任が存在する事に彼等は気付くべきなのだ。 「解からない事」其れ自体に大きな危険性を見出す欧米の姿勢との大きな違いを感じる。 政府と東電は「解からない事」は「解からない」と言い、現状で想定出来る「最悪の事態」も提示した上で「可能性」を語るべきなのだ。 パニックは当然起るだろう。 しかし、それでも「パニックを起す事の責任」から逃避し続ける「無責任」が齎す悲劇の大きさから比べれば余程小さなものであると私は思う。   このまま収束して何も起らなければ一番好い。 その可能性も否定は出来ないし、私も願って止まない処ではあるのだが、「解からない事」が余りにも多い現状に「曖昧な判断」を下して「解かった様な気になる危険性」だけは認識していなければいけないだろう。  

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