|
カテゴリ:礼拝メッセージ
先週の日曜の礼拝メッセージです。
ちょっと日が経つと、やっぱり忘れてることが多くて、 なんだかよく分からない文章になっちゃってます(涙 ・・・が、よろしければ読んでくださいね。毎度長文ですが・・・ 第20回目 マルコの福音書6章45節~56節 (2007年7月1日) 「わたしだ、恐れることはない」 ***五千人の給食の後、イエスは弟子達を強いて舟に乗り込ませ、向こう岸に行かせた。 その間にご自分は群集を解散させられた。夕方、舟は湖の真中にあったが、 向かい風のために漕ぎあぐねている弟子達を見て、イエスは湖の上を歩いて近づいていかれた。 弟子達は、それを見て幽霊だと思いおびえてしまった。 イエスは、わたしだ、恐れることはない、と話し掛けられ、 舟に乗り込まれると風がやんだ。*** イエスの水上歩行についての箇所です。ここを世の人が読んだら、どう感じるでしょうか。 こんなことは有り得ないのだとする教会もあります。 科学・物理の世界で、phDをとった人などは、最終的に哲学博士をとるそうです。 なぜなら、化学や物理は、哲学的発想で物事を見ているからだそうです。 科学とは、客観的できちっとしたものだと日本人は考えています。 しかし、ヨーロッパでは、科学史、つまりその歴史を学ぶのです。 結果だけをみて、それが真理だということは、有り得ないのです。 本当の科学は、現象を見て、道筋をもって研究します。 最先端の科学者たちの間では、全ての設計図は誰が作ったか、というのが 共通のテーマだといいます。 進化論でさえ、何かが最初にあったということが前提なのです。 誰かが作って持ってきた、としか、考えられないというのです。 目で見ているものや常識の中だけで全てわかる、ということは有り得ません。 水上歩行は、常識から考えると、荒唐無稽なことと思えるかもしれません。 しかし、本気で科学、哲学的観点で見るなら、このことを否定する前提は何もないのです。 バルトというドイツの神学者は、このように言ったそうです。 神だから出来た、と考えない方がいい。人間だから出来たと考える方がいい。 神の人間である姿とは、イエスが涙を流されたことであったり、 血を流されたことなどが挙げられるが、神が水上を歩いたこと、 これこそが、神の人間である姿だ。なぜなら、人間は完全なもの。 罪が入ってきたから、出来なくなったのだ。 彼は、本当の人間の姿。私たちは欠けのある人間だからそれが出来ないのだ。 そして、イエスが泣かれたことこそが、神の姿なのだ。 イエスはヘトヘトに疲れきった弟子達を休ませるために、舟に乗り込ませ、 ご自分は群集を解散させられました。 弟子達の体と心をケアしておられます。これが神の姿です。 私たち人間は、後輩や子供の気持ちになど、なかなかなれないものです。 指導的立場にある人は、下にいる人の気持ちにはなれないのです。 イエスは、神だからこそ、謙遜になることが出来ます。 人間が本当に謙遜になることなど、出来ないのです。 水上を歩くということ。そこにイエスの、神であり人間である姿を見ることが出来ます。 48節を見ると、弟子達は向かい風のために、漕ぎあぐねていたとあります。 そこへ、イエスは水上を歩いて行かれます。 しかし、「そのままそばを通り過ぎようとのおつまりであった」とはどういうことでしょうか? 弟子達を助けないつもりだったのでしょうか。 また、なぜ舟で行かずに、歩いていかれたのでしょうか? 歩くということに目を留めましょう。波とは、私たちの人生の波です。 それを(踏みつけて)乗り越えて、イエスは私たちのところに来てくださるのです。 五千人の給食の奇跡を見ている弟子達は、もう少しイエスに期待するべきでした。 なのに、「お化けだ!」とおびえてしまいます。まだ、本当には理解していないのです。 給食と嵐では、たしかに繋がりがないように感じたかもしれません。 食べていくことは、イエスに委ねればよい、しかし、命が危ないときに、 同じようにイエスに委ねればよいと、思うことが出来ないのです。 私たちもそうです。何か問題があって、次にまた問題が来たとき、 その2つの問題の関係についてあまり考えることがありません。 五千人の給食と水上歩行は、確かに全く違う質の奇跡ではありますが、 どんな時でも「わたしは共にいるのだ」と、イエスは語ろうとされているのです。 「わたしだ、恐れることはない」この言葉は、「エゴーエイミ」という原語で書かれています。 エゴーは「I」、エイミは「I am」です。これは、権威ある者が、その権威を示すときに語る言葉です。後にイエスがローマ兵に捕まるときに語った「私だ」の言葉も、原語は「エゴーエイミ」です。 これは、私たちに語られています。「わたしがいるではないか。出来事を待ちなさい」 51節、ここで「風がやんだ」とありますが、ヨハネ福音書の方には、書いてありません。 ヨハネにとっては、これはどってもよいことだったのでしょう。 マルコは、イエスの権威を強調したかったのです。私たちは主の権威を理解していません。 能力、というととても狭いし、権力とも全然違います。ヒトラーは権力を持っていましたが、 それは人々を不幸にしか出来ませんでした。権力は、権威とは違うのです。 イエスの権威、力。それは、何でも、どのようにでもできるが、 全ての人のためになるものです。弟子達の心は固く閉じていました。 しかし、イエスの権威について分かっていくことが、弟子達の成長でした。 私たちは、生活に起きてくることから、イエスを発見することが出来ます。 そして、次におきてくることとの関係は何かを発見しようとすることはとても大切です。 弟子と群集は違うのです。イエスは、群集の中で癒しをされましたが、 弟子達の成長をしっかりと見ておられます。主の弟子である私たちは、主が今、 語られようとしていることに徹底的に目を向けて、イエスを発見していきたいと願います。 彼は、あなたの舟に乗り込んであげるよとおっしゃって下さるのです。 そして、エゴーエイミに対する私たちの告白が、詩篇23篇なのです。 「主は私の羊飼い。私はとぼしいことがありません」 マルコ福音書(1~19) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[礼拝メッセージ] カテゴリの最新記事
|