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Uooの三日坊主Diary

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2007.07.20
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カテゴリ:礼拝メッセージ
2週前の礼拝メッセージです。
聖書に照らして、私たちの全ての人間関係を考え直すことが、どれほど祝福かと教えられます。
外側ではなく、内側をイエス様によって日々変えられたいと願います。
=====

第21回目 マルコの福音書7章1節~23節(2007年7月8日)

「解放される捕らわれ人」

***律法学者やパリサイ人たちがイエスに言った。「なぜあなたの弟子達は言い伝えに従わず手を洗わないで食事をするのか」イエスは、「あなたがたは、自分達が受継いだ言い伝えによって神の言葉を空文にしている」と痛烈に批判された。また言われた。「外側から入って人を汚すものは何もない。人から出てくるものが、人を汚すのだ」***


ある時、イエスの弟子達が手を洗わないでパンを食べているのを見て、パリサイ人と律法学者たちが「なぜ汚れた手でパンを食べるのか」と言いました。実は、この章のあたりから、イエスが十字架へかけられていくその前提が見えてきます。実際、イエス自身がそのことを3回語っておられます。

人は、その人生がどこを目指しているかで、どう考えるか、とても大きく変わってくるのではないでしょうか。それをイエスに学ぶことができます。まず、イエスとその他の人々は、どこを見ていたかが全く違います。イエスは十字架を見、十字架に向かって歩まれていました。そして、この段階では、弟子達、群集、パリサイ人や律法学者たちに教えを与えようとしておられました。弟子達に、今のうちに大切なことを教えなければならなかったのです。

11節にある、コルバンとは、神のために捧げる物のことです。「これはコルバンです」といえば、誰もタッチできませんでした。神に捧げるふりをして、父母を敬わないということが背景にありました。それは、手を洗わないで食べることを責めることと同じで、そういった言い伝えに捕らわれている人々のことをここでは語っています。

6、7節には、イザヤの予言が紹介されています。「この民は、口先ではわたしを敬うが、その心は、わたしから遠く離れている。彼らがわたしを拝んでも、むだなことである。人間の教えを、教えとして教えるだけだから」ユダヤ人たちは、神の言葉を守るためにいろんなことをしようとしました。旧約聖書にある神の言葉をどうやって守ったらよいかを常に実践していたのです。

文化とは、「社会がだんだん成長していくにつれ、体系と分岐が細かくなっていくその具合をいう」のだそうです。日本の代表的文化である茶道は、キリスト教の聖餐式が元だといわれています。にじり戸は、武士も刀を取らないと入れない作りになっており、神の前に頭を下げるという意味があります。

最初は、そのように意味があったものが、形を少しずつ作っていって、細分化されていくにつれ、その形をいかに綺麗にするかのみに重きが行ってしまい、意味が失われていきます。これこそが文化だというのです。より精密であり、正確なものであるほど、文化の発展の目安となります。

文化とは、形を綺麗に整えるということと、一方で、そこには深い意味があるのですが、人間は形を作ることだけに行ってしまうのです。それがイエスの言われる、「人間の言い伝えを固く守る」パリサイ人たちの姿でした。

手を洗うとは、清めるという意味があります。レビ記8章6節にあるように、神の前に行くものは、清められて行かなければならないという意味がありました。しかしこれは、リーダーのみのはずだったのに、次第に民衆にまで強要されるようになったのです。

イエスは何を語ろうとされているのでしょう。神の戒めを捨て、父母に食物さえ与えなくなっているというその現状を嘆き、形だけ伝えたら、そのようなことさえOKになってしまうことへの批判をされています。

私たちの子育て、また何かのリーダーを務める場合にも、同じことが起きてはいませんか。あなたにとって、あなたの子供とは、また、その仕事とは何なのでしょう。何故、リーダーとして、そこに置かれているのですか。親なのだから、リーダーなのだから、「自分の言うことを聞け!」となるなら、「神の戒めを捨てて、人間の言い伝えを守っている」ことになります。

自分自身のことを神の視点で見ているかどうか。自分は一体、どの立場でしょうか。イエスの横にいるのか?パリサイ人か?群集か?イエスと同じ立場と思うなら、大きな間違いです。私たちは、神の言葉を分かっていません。ですから、共に学ぶべきなのです。自分達に語られていると、考えなければなりません。

今こそ、自分の生活全体を見直して見るべきです。結婚カウンセリングをする中で、カップルとその両親に話しをします。聖書における「愛するとは」を語ります。伴侶について、子供について、こんなふうに考えたことは一度もなかったと皆言います。私たちは結婚したら「夫婦」だと思っています。生まれてきたら「子供」だと思っています。しかしそれは真実ですか?本当は、夫婦になりはじめたということであって、これから夫婦を、親子を、完成させていくということではないのでしょうか。

私たちの関係をそのように捉えるなら、親子が血が繋がっているかどうかなどは、どうでもいいことになります。血が繋がっていなくても、教会という家族になっていくことが出来ます。だんだん夫婦になっていくという、醍醐味があります。だんだん教会になっていくということ、それは成長していることの証でもあります。

これが神の戒めです。あなたが選んで夫、妻としたのではない。それはあなたの所有物ではない、という戒めなのです。

選択権は私たちにはありません。でなければ、気に入らなければ次の瞬間、伴侶を取り替えても良い、家族を変えても良い、ということになってしまいます。それは、私たちに与えられたと理解するのです。

ユダヤ人たちは、鎖でガチガチに縛られていました。例えば食物規定。旧約聖書には、食べてはいけないものが多くありました。豚はだめ、牛はOK。カラスやフクロウはダメ、など。しかしこの戒めは、出エジプトのその時だけの問題だったのです。エジプトから脱出した彼らは、肉を生で食べることが多かったため、豚、カラス、フクロウなど寄生虫の多いものを食べることがないよう、神が配慮されたのです。ですから、イエスの時代にはそれは関係ないことのはずでした。

食物規定よりも、もっと大切なことがあります。私たちを汚すのは、外からではなく、内側からだということに、私たちは気づかなければなりません。

神道では、お払いをしますが、本来は清い人間をもともとの良いものに変えましょうという意味です。それに対して、聖書では、私たちは神に造られた素晴らしい作品だが、神を裏切るという内側の決断によって汚れてしまったと語ります。外の問題はお払いで取り去ることが出来るでしょう。しかし内側の問題はどうでしょうか?子供を叱るときに、外側だけ叱ってもだめなのです。万引きの再犯率は98%といいます。補導され、外側だけ刑罰を受けたとしても、内側が変わらなければ無意味なのです。

内側は、自分の力では直すことが出来ません。キリストにあって変えられる以外ないのです。親子、夫婦、全ての人間関係とは何か。もう一度考えましょう。問題は外にあるのではなく、内にあります。私たちは、「捕らわれてなどいない、自由だ!」と考えているかもしれませんが、そう言っている中に、最大の不自由があります。

聖書の時代、ローマもユダヤも、この上なくきっちりやっていたその中に、愛がありませんでした。信仰が形だけになって、両親を敬わないなどのことがありました。私たちはどうでしょうか。祈りの中で考えてみましょう。


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Last updated  2007.07.20 11:02:12
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