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カテゴリ:礼拝メッセージ
マルコの福音書も終盤に入っています。
前々回のメッセージを取り急ぎアップ。出来れば今日中に前回のも・・・ ****** 第45回 マルコの福音書14章1節~9節(2008年7月20日) 「犠牲の尊さ」 ***過越し祭と除酵祭の二日前、イエスがある家で食事の席についておられると、 一人の女性が、純粋で非常に高価なナルドの香油の入った壺をもってきて、それを壊し、 香油をイエスの頭に注ぎかけた。そこにいた何人かは、何と言う無駄遣いをするのかと 憤慨したが、イエスは彼女のしたことを誉めた*** イエスが十字架の刑に処せられる場面に近づいています。 読んでいると、身につまされて辛くなる場面が多く出てきます。 「これだからキリスト教は暗い」という人さえいます。 教会とは何かを考えることが出来る箇所だといえます。 1,2節、祭司長や律法学者たちがどうやってイエスを殺そうかと考えていたとあります。 これは充分ありえた話でした。イエスの活動を外側から見るなら、 当時のリーダーたちの地位を脅かし、その利権を奪うものと見えたことでしょう。 ピタゴラスの定理というものがありますが、あれは、まさに一つの教理であって、 カルト教祖のようなものです。世の中は正数と分数に完全に分けられるとし、 ルートなどは否定しました。しかし、√があると言った弟子を惨殺したのです。 リーダーというものは、自分の権利が脅かされるときに、脅かすものを迫害するものです。 聖書のこの箇所は、歴史の中では当たり前のことが起ころうとしている場面なのです。 3節でシーンが変わります。 非常に高価なナルド油、300デナリ以上したと書いてありますが、 当時の日当が1デナリくらいでした。1デナリ1万円としたら、300デナリとは、 年収分くらいの金額だったといえます。当時の風習として、客を迎える際に、 1滴頭に垂らしてよい香りをつける、香水の役目を果たすものでした。 この女性は、壺に入った全てのナルド油をイエスに注ぎかけたのです。 何と言う無駄遣いをするのだ、それなら貧しい人に施しをした方がいいと弟子達が言いました。 これは、後でイエスを裏切ることになる、イスカリオテのユダが言ったのだと言われます。 彼は、会計係をしていました。6節、イエスは、2つの点で彼女のことを誉めています。 一つめ、この女性は、イエスの言う埋葬の意味を理解し、受け入れていました。 ずっと語ってきたことであるにも関らず、この時点での弟子達は全く分かっていません。 この女性だけは、イエスが語られたことの意味を理解していたのです。 当時、死人を埋葬する際に、体に香油をたっぷりと塗る習慣がありました。 イエスは「自分は殺される」ということをずっと語ってきました。 この女性は、主が罪人として扱われることすら受け入れていたのではないでしょうか。 なぜなら、「主がそうおっしゃったから」です。 自分なら絶対に受け入れたくないことです。 自分の尊敬する愛する主が、死ぬなどということは、考えたくありません。 イエスがこの世の中を全く変えてくださるという希望と喜びだけを願います。 しかし、この女性は、その主の言葉を受け入れていたのです。 2つめ、1年分の収入にも相当するものを捧げるという決断です。 これは、全くの無駄です。イエスに何もないなら、そうです。 しかし、この女性は、全てを捧げるということをどのようにしたら良いか分からず、 これをしたのです。弟子達には、とんでもない無駄遣いと映りました。 「キリスト教は暗い」と言われます。 他の宗教なら、「こんなに良いことがある」ということを売りにしているでしょう。 聖書というものは、読めば読むほど、そういったものはあまり出てきません。 ある教会の話。牧師が美術に精通した人で、それ関係のメンバーが多いといいます。 毎週行われる食事会では、有名な陶磁器が食卓に出てきます。 食材にあわせて茶碗やランチョンマットもコーディネートします。 祈祷会には、礼拝と同じ出席数があるといいます。とても活動的で素晴らしい教会です。 しかし、敢えて考えてみましょう。この教会に欠点があるとしたら? 例えば、美術の不得意な人は、ここで受け入れられるでしょうか。 人間関係の不得意な人は・・・? 日常的に、人間の最も醜い姿として、人間関係の難しさは、ずっと存在します。 それが私たちの前提です。私たちは、御言葉の前に、神がいるというその事実の前に、 ごまかしがきかなくなります。それが、教会の現実のフィールドです。 みことば、完全な方であるイエスを前にして、自分を見、また相手を見るなら、 その醜すぎる姿に愕然とするでしょう。 主の解釈はこうです。「この女性を困らせるのか。私を受け入れ、 その全財産である香油を注ぎかけるというその姿そのものを。 そのままを受け止め、そこから始めようではないか」と言われているのではないでしょうか。 私たちは混乱します。真っ白なイエスを見てしまうからです。 主の言葉を信じ、それに賭けていくなら、失敗も主の解釈の中で良きに変えられ、 力となります。教会生活とは、最初は愕然とします。どうしてこんなに人間は醜いのかと。 しかし、それが大前提なのです。 そうでなければ、楽しいグループ、サークルを作ろうとしているだけにすぎません。 どんどん楽な生き方に向かっていきます。 結婚しない方がいい。子供を作らない方がいい。その方が簡単に生きられるからです。 面倒なことは止めた方がいい、となっていきます。 これが一般の常識となるとき、ユダの言った言葉になります。「なんという無駄だ」と。 主は言われます。「あなたがたには試練がある。しかし私が乗り越えていく」 この言葉を信じて歩んでいく、それが教会のあるべき姿なのです。 このストーリーのもう一つの大きな点は、この女性の名前が記されていないことです。 「この人が素晴らしい」とならないためです。 名もない人でも、主に喜ばれ、歩む人がいるのです。 私たちはどれだけ世の中で影響を与えられるでしょうか。 ある有名なカルト宗教のヘリがどこかへ不時着したというだけで、全国ニュースになります。 自分が同じ立場だったとしてもニュースになどなりません。 彼の一声で数十億というお金が瞬く間に集まるほど世に影響のある人だからです。 しかし、イエスは言われるでしょう。 「あなたは私に聞き、わたしに賭けていくなら、この世において名前が知られなくとも、 天国で大きく記念されるべき人となる」と。 主に捧げることが最高のことだとイエスが語っておられるのです。 信じて従った者が大きく祝福を受けるのは事実です。 主を理解し、信じ、主に賭けていくこと。 この女性の話を通して、祝されることの意味を教えているのです。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2008.07.30 15:37:03
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