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高知県立坂本龍馬記念館 館長日誌

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第19回  日本語学科

  60歳だからできたウルムチ新疆大留学記  (19回)


 昨年、新疆大学日本語学科に学ぶ学生の、スピーチコンテストに立ち会う機会があった。会話の授業を担当している増田先生が、学生に課したテストの一つ。テーマは自分史。自分の考えをまとめ、みんなんお前で発表する。制限時間は、五分から七分。実力判定試験である。
 まず、原稿を作る。それを先生に提出し、先生がチェックする。終わると暗記だ。テストに、表現力も大事なポイントだ。学生たちに与えられた時間は、原稿制作時間から一ヶ月。日本語の学習を始めて二年足らずの彼らが、どこまでやるのか、同じ外国語を学ぶ者のはしれくとして、興味津多々であった。これはその一つ(原文のまま)


 「私の人生」
 「そんな人生が完全な人生ですか?」
 私は、かつて自分に絶えず問いかけていました。
 私は、両親が離婚した家庭に育ちました。五歳の時、父は私と弟と妹と母と別れました。父には別の家があります。私の小さいときの記憶は母の涙と弟と妹の泣く姿だけです。私は、両院が離婚してから大変変わりました。
 私は、毎日悶々として、いやな気持ちでいっぱいでした。私は、自分の不幸を怨み、髪の不公平を怨みました。どうして両親は私に命をくれたのですか。また、私に不完全な人生をくれたのですか?ほかのお父さんが、子供をかわいがっている幸せな家庭を見るたび、私はうらやましいと思いました。
   (中略)
 勉強の成績もがた落ちになりました。
 母は私の前で泣いてひざまずき「あなたに幸せな家庭をあげられなくてごめんなさい。母として、私はあたなよりいろいろな苦しみがあるの。でも、どんなに不幸でも、時間は止まってくれなかったの。生活はこれから、やはり続いていくのよ。しかも、小さい時の不幸が一生の不幸というわけではないでしょう」といいました。
 母の顔は涙で濡れていて、とても老けて見えました。いつまでもそのことは忘れません。私は、自分が利己的であると思いました。私は自分の大変だけを気にしてしまいますが、母も苦しんでいます。私と同様に母も不幸の人生に耐えているのです。
 このことはずっと前のことで、今、私は大人になりました。このごろは、母に感謝するべきであると思うようになりました。母が私にこんな不幸な体験をくれたから今後の生き方について、いろいろ学ぶことができるようになりました。
 不幸は私たちにとって、悪いことではありません。人によって人生は違います。それぞれの完全な人生とは、ほかの人がくれるものではありません。自分の力で勝ち取るものです。現在、私は毎日真面目に生活しています。毎日の生活はとっても楽しいです。
   (中略)
 私の完全な人生のために、私はこれからも、何事にも負けないで努力しようと決意しています。


 彼女は二十一歳。淡々と話した。教室は沈黙に沈んだ。しばらくして拍手が起きた。言葉、話し振りもそうだが、何より話の内容に感心させられた。ただ、彼女ばかりでなく、それが全体の傾向といってもいい。
 彼ら日本語学科の二十二人は一年間(来年三月まで)西安の外国語学院に、武者修行に出ている。日本語検定二級以上が目標だという。


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