「劉邦と項羽」第4巻 反間の計
「劉邦と項羽」(中国:中央電子台制作/1997年)第4巻 前巻では、韓信の活躍で、亡秦の本拠地・関中を手中にした勢いに乗って、劉邦の大軍が項羽の留守の間に楚の本拠地・彭城を攻め落として入城したところまででした。 賢臣たちが側にいない劉邦が、彭城を乗っ取って天下をとったつもりにでもなって油断していたところを、激怒した項羽が斉征伐から退き帰してきたため、大敗を喫した劉邦は故郷から呼び寄せていた父や妻を項羽に捕まえられて人質にされ、自らも何度も項羽軍につかまりかけながらも、何とか関中への途中の拠点・榮陽に入った。 榮陽に駆けつけた張良は、劉邦に 「王は二つの間違いを犯した。ひとつは慢心して油断したこと。もう一つは韓信を咸陽に残したこと。」 と忠告し、 韓信は 「関中と関東を結ぶ要所・榮陽に居れば必ず勝てる。 近くには成皐(険しい関所)があり要害の地でもあり、向かいの広武山には兵糧の蓄積がある。一時的に負けたからといって悲観することはない」 と、咸陽で宰相の蕭何に語る。 蕭何は、大敗で兵が不足している劉邦のために、徴兵年齢の法律を劉邦に断りもなく変えてまで、兵を送り出した。 法律を勝手に変えることは死罪になるが、それでも劉邦のためならかまわないという。 ところが、韓信は、劉邦が全軍を指揮する大将軍がひざ元にいないので困っているのは百も承知だが、(咸陽に残れという)命令を破ってまで榮陽の劉邦のもとに行こうとはしない。 劉邦は、韓信の軍事能力の高さ・功績の大きさに嫉妬もあって、彭城の攻略にあたっては自分が指揮をとる。ということにしたのだった。50万の大軍をもってすれば簡単に勝てると思ったからだが、しかしその後の処置に抜かりがあった。 その失敗のため、今更、自分から韓信に榮陽に来てほしいと頼みにくい。劉邦にもプライドがある。 韓信も、最初から自分に任せてくれたら、このような大敗はしなかった、という自負があり、劉邦に対して、「榮陽に駆けつけてお役にたちたい」とは言わない。 また劉邦は、命からがらの敗戦と、その後の榮陽での切迫した状況にも関わらず、咸陽で悠々と暮らしている蕭何に対しても、皮肉いっぱいの手紙を送っている。 このあたりの3人、それを心配そうに見守る張良、といった名将同士の心理戦は実におもしろい。 この状況は、張良が裏で画策してなんとか韓信を榮陽に呼び寄せて終結した。 劉邦の大敗によって、諸侯は様子見に入り、項羽と劉邦の戦線は膠着状態となる。互いにあの手この手で、各地の諸侯を自軍に引き入れようとする。 劉邦は、項羽の後方の諸侯をなびかせ、項羽軍を包囲するため、韓信に命じて、再び元帥として軍を率いて出発させた。韓信はたちまちに斉を攻略して勢力を拡大していく。 そして、策士・陳平が、項羽の軍師・范増と、項羽の仲を裂くため、「反間の計」の策略を劉邦に献上し、この策にひっかかった項羽は、范増を遠ざけるようになり、80歳近い老軍師・范増は帰郷の途中、失意のうちに老衰死してしまう。 項羽は、かつては自分の軍にいた韓信、陳平、猛将の英布にまで逃げられ、そしてついに范増までも失ったのである。これでは自滅を招いているようなものである。 項羽は、対峙していても拉致があかない、と榮陽に総攻撃をかけようとするが、劉邦側の儒者・レキ食其が項羽のもとに行き、降伏交渉を進め、降伏すると見せかけて、劉邦は少人数のみで密かに榮陽を脱出して、関中に逃げ込むという作戦に出る。今回はここまでだったが、彭城で大敗した劉邦だが、あの手この手で強大な項羽の力を弱めようと手を尽くすのに対し、項羽のほうは、目先の軍事力だけに頼った無作戦。さらに身内には甘いが、他人には厳しい、また部下の能力をじゅうぶんに活かしていない、といことろもあって、広域を安定して治めるに至らない。 劉邦は、蕭何が、本拠地の漢の地と関中を治め、安定した勢力を確保し、かつ韓信を別動隊として、楚を北方から圧迫する作戦に出たため、劉邦本人は弱いものの、全国的な勢力状況からすると、次第に劉邦有利に傾いている、といった状況である。 次回最終巻では、項羽がついに滅び、劉邦が漢帝国を樹立するところまでいくのだろう。