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狭間2015のブログ

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2015年08月11日
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カテゴリ:政治・外交
1.前置き
「絶対に辺野古に新基地は作らせない」。安倍首相にそう啖呵を切った沖縄県の翁長知事は、かつて辺野古移設を推進する動きの中心にいた。市議から県議、市長、そして知事に登り詰めた翁長氏はなぜ変節したのか。総力取材で「沖縄のタブー」に迫る特集第3弾!

「辺野古だけで勝てるんだから、俺につけよ」
沖縄県知事選を約半年後に控えた昨年四月、那覇市役所の市長室で翁長雄志は、ある市議会議員にそう声をかけた。当時は、翁長氏につくか、現職の仲井真弘多知事につくか、水面下で激しい駆け引きが繰り広げられていた時期。声をかけられた市議は、「選挙のために辺野古を利用している」と感じたという。

「絶対に辺野古に新基地は作らせない」
4月17日に行われた安倍晋三首相との会談でそう述べて、いまや反基地運動のシンボルと化した翁長知事。だが、その足跡を詳しく調べていくと、露になるのは見事な変節ぶりだ。

2.翁長の政治家としての家系と少年期
なぜ、保守政治家の翁長氏が変節したのか。今回はその経緯を詳らかにしたい。

翁長氏が生まれたのは、1950年。沖縄が米軍統治下に置かれて5年目のことだ。父親は、後に那覇市と合併した旧真和志市の市長だった翁長助静氏。

「翁長家は沖縄の保守政界を代表する名門です。助静氏は琉球政府の立法機関だった立法院の議員にもなり、翁長氏の兄の助裕氏は沖縄県議から副知事まで昇りつめました。その裏で二人ともいくたびか落選を経験。助静氏は那覇市長選、助裕氏は知事選で苦杯をなめています」(ベテラン県議)

革新が強い沖縄で保守政治家の子に生まれた翁長氏は、周囲に嫌がらせを受けることもあった。2003年に出版した著書『創造への挑戦 風格ある県都那覇市を目指して』で、父親が立法院議員選挙で落選した時のことをこう回想する。

〈教室の黒板に翁長助静、相手側候補の平良良松と書きまして、平良良松さんのところに二重丸をして、私の担任が万歳三唱をしているんですよ。(中略)保守の側に家族を持つ者としては、大変耐え切れないところがございました〉

小学六年の時のことだ。翁長少年に大きなトラウマとなったのであろう。

3.政治家としての翁長の経歴の始まり
その後、県内一の名門・那覇高を卒業した翁長氏は東京の法政大学に入学。当時の沖縄は米軍統治下で、実家からドルで送金を受けた。菅義偉官房長官は、大学の先輩になる。卒業後は沖縄に戻り、建設会社勤務の後、34歳で那覇市議選挙で当選。41歳で兄の地盤を引き継ぎ、県議に転身する。

「この頃の翁長さんは、自衛隊の支援活動をする沖縄県防衛協会の青年部会長を務めるなど、自民党の中でも特に保守色が強い存在でした。1993年に糸満市で開かれた全国植樹祭に出席するため天皇皇后両陛下が訪沖された際には、訪問反対の運動が盛り上がる中、翁長氏は日の丸の旗を振って、万歳をして歓迎してみせたのです」(自民党県議)

翁長氏が県議になる2年前の1990年には、革新の大田昌秀氏が知事となっていた。大田氏は、県内全ての米軍基地返還を求める「基地返還アクションプログラム」を発表するなど、政府と激しく対立した。翁長氏は大田知事への追及で一躍名を馳せた。

「彼は他人の揚げ足を取るのがうまく、早口でまくしたてる。気が短い大田知事は顔を真っ赤にして怒るのですが、そんなのお構いなし。『そんなに言うのならあんたがやってみろ』と大田知事が言い出し、議場が大爆笑となったこともありました」(自民党元県議)


当時、翁長氏は本会議で大田氏をこう追及している。

〈大田知事が、保守、革新を超越した基地反対闘争の結集を訴えるのは県民向けの受けのいいポーズであり、同時に県民の結束をみずから放棄していると言われても仕方がありません〉(1994年3月の県議会)

1997年に自民党沖縄県連の幹事長となった翁長氏は、1998年の知事選で経済界から稲嶺恵一氏を担ぎ出し、「15年の使用期限、軍民共用」との条件付きながら、名護市辺野古への移設容認を公約として当選させた立役者でもある。

1999年の県議会本会議の議事録には、この公約を支持する次の発言がある。
〈(稲嶺)知事がキャンプ・シュワブ水域内名護市辺野古沿岸域に場所を候補地として選定いたしまして、昨年の知事の公約を実行型県政としてしっかりと踏まえて一つ一つ前に進んでいることを高く評価をするものであります〉

この年の県議会で野党の反対を押し切り「普天間飛行場の早期県内移設に関する要請決議」を可決させた中心メンバーも翁長氏だ。

議会で提案者を代表して提案理由を説明した翁長氏は、基地問題をめぐる大田前知事の姿勢を「オール・オア・ナッシングの姿勢」と批判し、政府との信頼関係を損なったと非難した。当時、自民党県議で、後に衆議院議員となる安次富修氏はこう振り返る。

「決議案に対して共産党から300くらい質問が出され、ジュゴンや珊瑚のことも言われましたが、朝までかかって可決した。同じ年に名護市議会が普天間の移設を容認する決議を可決した時も、幹事長として総指揮したのが翁長氏。彼は一貫して、辺野古移設を推進する動きの中にいたのです」

2000年には那覇市長選挙で当選。かつて同じ選挙で敗れた父の雪辱を果たした。市長就任後は、那覇市役所庁舎での初めての日の丸掲揚や自衛官募集業務の受託など、長く続いた革新市政時代を覆す動きも見せたが、変わり身の早さを物語るエピソードもある。

「『市長専用の公用車を廃止し、自転車で通勤する』との公約を掲げて当選し、しばらくは自転車通勤をして新聞でも好意的に報じられた。ですが、ほとぼりが冷めると『自転車では夜の会合に行けない』と通勤にハイヤーを使うようになり、さらに『ハイヤーでは秘密の話ができない』と、公用車を復活させた。簡単に言うことを変える人なんです」(那覇市議)

妻の樹子氏とのあいだに二男二女。長男は選挙で戦った仲井真氏が会長を務めた沖縄電力に勤務し、次男や長女も県内の企業に勤務。次女は関東地方の大学に通う。翁長氏の義理の兄にあたる島憲正氏はこう語る。

「彼は学生の頃はトランペットをやっていて、歌もすごくうまく、『嵐を呼ぶ男』など石原裕次郎ならなんでも歌います。野球が好きで巨人を一生懸命応援している。市長時代に建設した野球場に巨人のキャンプを誘致したぐらいですから」

なお、4月5日に菅官房長官と会談した際に批判した「粛々」という言葉は、翁長氏もよく使う。県議会や那覇市議会の議事録を調べてみると、短い答弁の中で4回も「粛々」という言葉を使ったこともあった。2010年2月の市議会本会議では、政治哲学を問われて、「市長としてできる限りのことを粛々と果たしていきたいと考えております」と答弁している。

以上、





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最終更新日  2015年08月11日 10時45分49秒
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