懐かしの家族HP

2007/01/01(月)00:54

3. 原稿用紙から輪転機まで(山本コラム全文抜書き)

コラム(113)

再三のことで恐縮だが、コラムの師と仰ぐ故・山本夏彦氏は、ほかの文筆家が書かないことを数多く書いて、見事に糊口ならしめて生を全うしたコラムの名手である。 作家の原稿料の多寡、自費出版のことなど、避けたほうが身のためと思えることにも鋭く言い及んで、それで出版の世界からほされぬどころか、この世のウロンな正義を見事に喝破したと、菊池寛賞さえ受賞した人だ。 並みの躁觚者(そうこしゃ)であるはずがない。それゆえかどうか、人が気づきもしなかった、またはのどまで出かかって自分には言えないことを好個のコラムに語り尽くすから、彼の文に我が意を得たりと喜ぶ時は、ほとんど生理的快感さえ覚える。 さて。ひところハヤった「自費出版」なる発刊方法は今はどうなのか。 私はこれにからむ「自分史」なる本がハヤった時もイヤな時世になったと不快な思いだった。 出版界とは、時に伏魔殿のようにも見えて、実は立派な作家の登竜門であり、プロである保証をする世界である。 だいたい、本人またはその眷属(けんぞく)ほんの何人かが感激して、ついでに世間に知らしめたいから「自分史」を自費出版する料簡がわからぬ。他人は他人の幸福にはうれしく思わず、不幸に喜ばないまでも興味を持つものだから、「自分史」出して、それが何になると考えたこともない輩が、実行するとしか言えない。 あんなもの。他人の誰が見るか。いや見る、読む、現に読まれて、売れたというならば、たまさかのことであり、それは版元(出版社)が既に後ろ盾していたのではあるまいか。全き自費出版でなくとも、ひとたび売れたら売れたで、今度はうちが全額出費して再版します、増刷します、と手の裏返したとしても、それは版元がけがれて堕落しているのではない、浮世はそういうものだと認め、不承せねば、文筆で糊口してゆくことは無理だ。 私の駄文はこれくらいにして、御大のコラム全文を掲載する。 ★文はうそである 新聞雑誌にあらわれる文章は、すべて商品である。新聞雑誌にたのまれて書く人は、原稿料をもらう。故に印刷された言論は、売買された言論である。 文士や評論家は文を売って衣食する商売人で、玄人である。玄人なら素人よりうまいにきまっている。素人がただでもいいから載せてくれと頼んでも、新聞雑誌は載せない。 文章は売買されて久しくなる。我々は商品でない字句を、読む機会をほとんど持たない。文士や評論家の修業は売れる文を書く修業で、ほかに文化人、各界名士があって、彼らもしばしばジャーナリズムに登場する。 ジャーナリズムと彼らの関係は、主従に似ている。雇用なら月給をくれるが、くれないで、必要に応じて書かせ、その分にかぎって支払う。 したがって、彼らの言論は、ジャーナリズムの気にいるものでなければならない。歯に衣(きぬ)着せぬ言論は、家来の口からは出ないものである。金品をもらって、それで衣食して、くれた相手を存分に論ずることはできない。 だから、ついこの間まで、文章を売ることは、文をひさぐ(売文)といって、春をひさぐ(売春)と共に恥辱だった。文章は本来志(こころざし)を述べるもので、志なら売買するものではない。 何によらず、大きなものなら、悪いものだと私は再三書いた。大新聞、大企業、大銀行――およそ「大」と名のつくほどのものなら、悪いにきまった存在だと書いた。その証拠を示せ、といわれても困る。このひと言で分らない人には、いくら証拠をあげても分らないからである。 文章というものには、右のような(註 / 以上のような)性質がある。分る人にはひと言で分るが、分らぬ人には千万言を費やしても分らない。 同様に私は、大ぜいの言うことなら、眉つばものだと言った。大ぜいが流す涙ならそら涙で、大ぜいが笑うことなら、おかしくないと言った。 けれども大ぜいが怒る怒りを、うそいつわりだと論ずることは危険である。 (註 / このへんから山本コラム一流独自の「レトリック」手法が始まっていると私はみる)ほとんど禁じられている。俗に世論といって、世論は一世をおおうもので、これにさからうのはタブーである。 言論というものは、大ぜいの言うことを疑うことから発するものだと私は思っている。売買された言論なら、疑わないほうがどうかしている。文はうそなり、と私は思っている。文は人なりと言うが、それは同時にうそなのである。 新聞雑誌、および電波にのる言葉は、すべてその道の玄人のもので、多年練磨して一人前と認められたものである。 私は文章に修業は不要だと言うものではない。それどころか、売文にさえ修業がいるなら、これを論破するには、それ以上の修業がいると思うものである。 異端を述べる言論は、二重の構造になっていなければならない。すなわち一見世論に従っているように見せて、読み終わると何やら妙で、あとで「ははあ」と分る人には分るように、正体をかくしていなければならない。いなければ、第一載せてくれない。 異端を正論だと信じるなら、自費出版、あるいはひとり街頭で弁ずる道もあるではないかと大衆は言うが、それは書生論で、怪文書で、それらを最も信じないのが大衆である。 かくて権威ある言論は、権威あるジャーナリズムの上にしかない。したがって、私は正体をかくして、あとで分るように言わなければならない。それは理想で、理想だから、めったに成就することはない。げんに私はいま字々激越、うちなるものを包みかね、ほとんど正体を丸だしにしている。★ 以上全文抜書きしたものは、著者が「週刊朝日」に連載したコラムを選んで昭和46年、実業之日本社から出した「毒言毒語」の一つである。 星移って既に30年余りになる。 なお、これはどちらかと言うと「言論」に関する文章に言及したもので、創作の小説とは違うではないかと思う人がいるとしたら、甘いと断じておく。 創作の世界も、うっかり国家思想を物語の中に潜ませたら、編集者の言わば鋭い検閲の目に引っかかり、程をわきまえておらば良いが、さもなくば日の目を見ない。 言いたい放題、駄文羅列で自己満足したければ、楽天日記にでも私のように書いていれば、一銭の得にもならぬ代わりに気楽かと言うと、そうでもない。 我が日記内容から私本人に及んで憎悪し、外部から日記ストーカーの如く、未だうろつく輩がいるのだ。 だから私は、時々悪乗りし、オカマにさえ変身して、さほど恐ろしげな者ではありませんよと、言う如く書くが、一度憎しみの念に固まった人間また恐ろしきものである。 私は楽天日記本部に苦情を訴えたが「私的トラブルには、当局は一切関知致せません」と突っぱねられた。 蓋(けだ)し、規約に言う「特定の個人・団体への誹謗・中傷を禁ずる」とは、有名無実であると断ずる。 察するところ、市民権を得たある種の団体、精神障害者保護団体などの神経を逆なでする「キチガイ」、身体障害者保護団体を激怒させる「めくら・おし・つんぼ」などの文言しつこく並べたる時に、当局は動くものだろう。 もう一つあった。警察が目を光らすわいせつなもの、たとえば「おちんちんとオマンコがこすれて、どっちも気持ちいいのよ、でもどっちかと言うと、あたしのような女のほうが声を出すほどだから、いいのよ」などと過激な描写をすれば、こんなのは、ポルノ小説の足元にも及ばぬ一例だが、やはり当局は動くだろう。文はうそなりは別の意味でも事実である。

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