懐かしの家族HP

2015/12/19(土)18:22

私のバイク道楽史6

オートバイ(71)

頸椎ヘルニアのMRI写真。脊髄神経の管が、途中で砂時計のようにくびれている(写真左下)。骨が圧迫している箇所である。 生意気や負け惜しみではなく、本格的な私のオートバイ買い替え道楽は、頸椎症発症後に、むしろ活発化したと言える。 これまで、国内版や逆車(逆輸入車)にいろいろ乗ったが、脚力充分の頃なので、足着きに不安があっても、実際はシート高の高いバイクを乗りこなした。 教習所にはバイク乗車について規則があり、原則として、またがった状態では、左足を地面に着け、この時左足かかとが完全に接地する必要があった。 右足はほとんど常にステップに乗せ、免許取得後のように、ダラリと両足を地面に着けることは禁止されていた。確か卒検でこれをやるだけで、不合格と聞いた記憶がある。左右の足の接地を交替するのは、ギアをニュートラルからローつまり一速に変えるペダル操作のいっときだけで、これは当然の動作だが、例えば発進する時は、早くも左足を接地し、右足はステップに乗せていなければならない。 私がかよったバイク専門教習所では、初心者の女子が、この姿勢に慣れず、発進即エンスト、転倒という困難を経験する場面がよく見られた。 しかし、バイクに乗りたい一心が彼女らをみるみる上達させた。私も声には出さぬながら、心で「耐えろよ」と応援していた。 果たして、数回乗るうちには、彼女らはこの最初の関門を見事に克服していた。 つまり、最初の転倒は、右足をステップに乗せるから、バイクの重心は右寄りになる。ここでクラッチ・ミートに慣れぬ女子は、エンストの瞬間、バイクを右に倒して、自らはケガをしないよう、すぐにバイクから離れる。 何を隠そう、この私が男のくせに、当時の中型自動二輪である400ccの教習用バイクを、のちの彼女らと全く同じく、エンスト即右へ転倒のざまを繰り返した。 さらに余談だが、相棒の夕子殿も、若き高校時代、ごく最初だけだが、全く同様の動作に気落ちしている。 ただし、ノロケになるが、彼女には私が教習所式の融通性のなさを無視し、初めから両足を接地するよう指示し、ともかく発進可能にし、併せてバイクのバランス感覚をつかむよう指導したことと、彼女の筋の良さもあって、一日目の早い時間内で、コツを己れのものとした。 規則に則った乗り方は、このあと説明すれば良いのである。 さて、頸椎症に見舞われたものの、私はバイクの乗りにくさを余り感じなかった。四輪オンリーの人にはわかるまいが、バイクの乗車姿勢とは、体重のほとんどをバイクのシートに預け、足は軽く地面に着いている。頸椎症のつらいのは、坐った姿勢から立ち上がる時と、その正反対の時だけと言える。 バイクにまたがり発進してしまえば、少なくとも私の場合は、腰をシートに預けて走るだけなので、脚力低下が走行に支障をきたすことはないと言えた。両手も、元々力を適当に抜いて走るよう教習中に指導されたから、言わば走る腰かけに坐っているようなものである。 考えるべきは、停車時の車重とシート高によるストレスのみだと言えた。ここに至って、私は国産車の重さと高いシート高を選択肢からハズすことに専念した。いよいよ逆輸入車ではなく、外車バイクの選択に視線が移る。 とは言え、すんなり外車に移行して、新たな道が開けたわけではない。 ここからしばらく、相変わらずの逆車などに何んとか乗ろうと遠回りを繰り返すことになるが、これら不適切バイクの記述はごく大ざっぱにする。 頸椎症により、あれほど気に入っていたカワサキのZR-7Sでさえ、200kgを超える車重とシート高が気になり始めていた。 加速感を実感出来るカワサキ・ZZ-R250は、チョイ乗りにしか使わない習慣が災いして、バッテリー上がりが顕著なのが不便になった。 さらに2005年12月の早朝、すぐ近所の店のタバコの自販機まで250ccバイクで出かけ、いつも通り、上り坂を右へUターンして自宅を目指そうとした。刹那、あっけなく転倒した。 ここでのUターンは、かつてナナハンでも楽々こなしたのに、このザマである。体力に自信がある最後の頃と思ったが、もしかすると頸椎症が忍び寄っていたかも知れない。軽い気持ちで車重150kgにも満たない250ccをヒョイと起こそうとしたのだが、バイクは起きるどころか、ズルズルと路上左端の側溝に向かって滑るばかりだ。たちまち臨時の渋滞が起きた。 この時、数人の男の人たちがすぐに駆け寄って「大丈夫ですか ? 」と励ましながら、バイクを起こす手伝いをしてくれた。 私はすぐにバイクにまたがり、エンジンをかけた。一発でかかったが、一人の人が「お怪我はありませんか ? 」と心配の言葉さえかけてくれた。 私は「ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。身体は大丈夫です」と礼を述べると、早く渋滞を解かねばと後ろを向いて一礼し、即座に発進した。 車であろうとバイクであろうと、難儀している者に対し、多くは親切なのだと思いを新たにした一事(いちじ)となった。 転倒で傷ついた路面 話が前後したが、この時から数ヶ月後の翌2006年春に頸椎症が明らかになった。 症状が出る前の日まで、「いずれリッター・バイクに乗りたいものだ」と願い、ナナハン如きは重さも感じず、物足りないとまで思っていた。 一日にして状況一変し、乗り慣れたナナハンを「重い」と実感し始めた。 2007年ごろには、走行中でない俗に言う「立ちゴケ」をするようになった。 停止したまま、バランスを崩してズデンとその場でバイクを倒すのだが、多くは砂利などに足を取られた。 父がことあるごとに私に反感を見せ、このテーマでも良く使った毒口(どくぐち)を浴びせた。1995年真夏、白血病死した兄の慧眼を思い出した。 「親父は外面(そとづら)ばかり良くて、穏やかな人と評価されるが、最も重んずるべき家族を誰かれかまわず敵視することが多く、カッとなったあと、すぐに平生(へいぜい)に戻って、家族に接しようとするが、いずれ家族を敵にまわすことに気づいていない。怒鳴られた家族は親父にいい顔を向けられる道理がない」 大学受験で兄は予備校に通わず、正確に言うと一旦入った予備校をやめて、3年間自宅浪人したが、このかんに父との衝突が絶えなくなり、激化して遂には、夕飯のみ自分の部屋の机で食べるまでになった。 ある日の夕飯ごろ、高校から帰った私の机に、ズラリ豪華な食事が並んでいた。 母が「きょうはお兄ちゃんの誕生日だから、一緒に食べなさい」と穏やかに勧めてくれた。母は常に私たち子供の味方だった。 以後、私も机に食事を運んでもらい、兄と雑談しながら食べる習慣を、お互い昭和46年春、大学合格するまで続けた。 このかんも、今度は二人きりの食事となった両親の争いが絶えず、ある晩、父が情けない顔つきで部屋の戸をあけて、「厚和(ひろかず)、あしたからもう学校行かなくていいからな・・」と、妙なひとことを残して茶の間に去った。 ほんの何秒かのち、「ひろ、今親父はお前に何を言った ? 」と問うた。 父の言葉を繰り返すと、兄は「何ーッ ! 」と立ち上がり、物凄い剣幕で茶の間に向かった。とっさに私はギターを持って、あとを追った。いざという時、このギターを武器にするつもりだった。 茶の間の畳にご飯釜のフタが転がっていて、母の髪の毛が乱れていた。すぐ察しられた。その少し前、茶の間で大声がした直後、シンと静かになったからだ。 「俺はもう自信がない」と泣き言めいたことを言う父に、兄が詰め寄り、えり首をつかんで、壁際に追い詰めて凄んだ。「てめえ一人、家を出る勝手を働くなら、こっちもただでは済まさねえぞ ! 」 親子の力関係逆転の瞬間だった。 完全に話がそれた。一旦措く。 ─つづく─

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