懐かしの家族HP

2020/01/19(日)02:59

一輪車少女・高校編

回想(157)

​​「一輪車少女・高校編」2020年1月14日開始 本編・小学校編と題して、初め掲載を考えたが、中学時代がない。 やや残念だが出会い編として、タイトルもごく平凡なものにして、第一回目を掲載した。 中学生の春香(はるか)の姿をぜひとも記録したかった。地元のこととて、通(かよ)う中学はせいぜい鷹岡中学、岳陽中学などに絞られる。なお、ブログ歴十六年の経験で偉そうに書くが、己れのブログが知らぬ間に他人に読まれて、さらに折りに触れ複数回読まれることはまずないとわかった。 ただし、「よく読まれている記事」欄には毎日必ず何件か並ぶので、ネットをよく利用する人、ブログを利用する人にはたまたま読まれているかも知れない。 何んとなれば、私のブログの存在を知っている人でさえ、時々に読んでいるということさえひんぱんにはない事実でわかる。この私がそうだが、他人の生活の話なぞわざわざ読む気はしないのだ。コメントがひんぱんなものは、また別の原因があるだろう。プロの作家の著作でさえ、ほとんど読む気は起きない。 まして素人のそれとなるとなおのことだ。 さらにフェイスブックオンリーの人もいるし、You Tubeオンリーの人もいて、ハッキリ言って住む世界が異なるので、ブログが読まれているとは断言も推定も出来ない。 長々と書いたが、ある年に出会った一輪車サークルの少女とのことをかなりまたはいささか書いても、彼女の存在が知れて、プライバシーにかかわる惧(おそ)れなしと独断推理した。この旨、本人に伝え、了解を得た。 さすがに掲載を拒否されるのを初め恐れていた。ちなみに彼女は今、女子大生だ。 一回目に数年前と書いたのも、近所のスーパーの実名を出したのも脚色というか虚偽掲載であり、彼女の住まい近辺をさぐられる惧れあらじとの推定による。 私の自家用車は免許取得後ほぼずっと軽自動車だ。 いずれ歴代所有軽自動車のことも書こうと予定している。 この軽で春香を自宅まで送り届ける途中、母親の勤める店に寄って、お互いの身の確かさを知らせ合った。 このあとすぐ、本人を自宅まで送り届けることとなるが、徒歩で行くにはかなり遠かった。一輪車を抱えた彼女は、路線バスを使ってポスティング活動をした。 人見知りのなさ、人懐っこさは驚異に値する。人との交流乏しい私は、この類いまれな性格を持つ人との出会いを待ち望むが、まず出会いはない。ほとんどが人見知りだ。 しかし、ひとたび巡り会えると、これもほとんど一瞬で稀なる人見知りの無さを実感出来るので、この時の感激はまず全身がカッと熱くなるほど心地よい。 くどいが、この手の稀なる人柄の人は、何人に一人の割合なのか、知る由もないながら、感動的な感覚をもたらすことは間違いない。 ただし、この人見知りの無い者にとって、ほとんどの相手がごく普通の平凡なタチの者なので、ここで春香のような娘には、実はこれまた天性と言える観察眼、慧眼(けいがん)が働き、峻別する能力がフル稼働する。 私はからくも彼女のフルイの目に引っ掛かって、選にもれずに救い上げられた者と言える。この点、彼女は単に八方美人的な性質ではなく、相手を見ることに長けている。 上掲画像、使用前・使用後。 昭和61年、旧宅で間に合わせの学習塾開業の時のチラシ広告。 既に畳んだ学習塾の看板は無理に撤去するに及ばぬだろうと決めていたが、仕舞屋(しもたや)となって久しいから、意識するとかなり目立つこの看板が目障りだったのも確かだ。 皮肉にも2018年の台風でこの看板がほぼ倒壊し、退院後、業者のかたに頼んで骨組みの鉄骨を残して完全にはずしてもらって、実は気持ちがさっぱりした。 少女・春香と出会った時、看板はまだ無事で、実はまことに細々ながらもわずかな生徒さんを相手に高校数学に絞って経営していた。彼女はこの看板に当然気づいていた。 不思議なものでもないが、普段己れの知力を意識することがなくても、話題が出たら、当たり前だが、学歴などの話はまあする。ただし、これもあえて書くと、学歴にも上下があり、大卒にも上下どころか国立大卒にも上中下、があるから、たいてい世辞・追従(ついしょう)のひとことぐらい聞くことはあったが、世間の多くは同等の大卒でないので、世間知に長けたかどうかが、特に男子の評価基準のおおかたを占めるゆえ、世間知らずの私はメッキがすぐはがれ、またははがされ、屈辱的な思いをずいぶん味わった。 だが、この年配へ来て、再びゴーイング・マイ・ウェイで行こうと決心、己れの学歴を振り返る気になった。 私の世代、つまり昭和20年代生まれは、大学進学は家庭の事情がない限り進学可能であった。 ただし、国公立大となると、学科の成績が平均してある水準に達していないと困難になる。 高校時代に、そろそろ趣味に親しもうと思うのは人情の自然かも知れないが、ズバリ言って、国公立大現役合格を目指すなら、趣味は禁物だろう。 私も多趣味人間なので、ゴジラに始まる怪獣、特撮、下手ながらひたすら書く文章などは、骨休めとして親しむのはいいが、やはり深入りしたり、その世界に耽溺(たんでき)することはご法度といえる。 中学三年で興味をそそられたドラムスも、たたきたくて仕方なかったが、これは場所をとるし、環境的にも思いきり親しめるものではなかったから、これが幸いしたか、実物に触れる機会を得られずに高校進学出来た。 高校一年の終わりに、素人流丸出しのデタラメテクニックでただ一度ステージでドラムをたたいたのも、これはこれで良かったと言える。 今、本格的なレッスンを受けてしょっちゅう壁にぶち当たっているところである。 小学四年程度で「防衛大学校」の存在を知り、学科の成績は「高校が勝負」ということを知るのは、まあたいてい親が影響を与えることがほとんどだが、それ以外の原因もあるかも知れない。 春香は、両親の感化を受けずに、独自に学習に対する考えを確立していた。 さて、思春期にさしかかり、さらに高校生になると、趣味に興じたいという願望が強くなる。ところが大学受験を考慮するなら、この趣味に気持ちを向け過ぎるのは禁物だ。 経験から言えるが、様々な雑学知識は身についても、平均的な教養・知識は要するに穴ぼこだらけになる。くどいが国公立大を目指す場合に限る。 ここでは例外を除いている。ある程度学科の成績が良いのが当たり前のようないわゆる「出来る」頭の生徒なら、例えば部活動に打ち込んでも、OBとなる頃から猛然と学習に励めば充分かも知れない。 なぜ偉そうなことを書き並べるかというと、私はごく平凡な普通程度の能力しか持ち合わせていないにも関わらず、とりあえず高校も大学もあるレベル以上のところに進めたからだ。 謙そんという言葉があるが、私をよく知る母ゃ兄は、私の進路に期待をしていなかった。 強いて言うなら虚仮(こけ)の一念である。 静岡県下有数と言われる沼津東高に合格したのも、虚仮の一念なら、現筑波大である旧・東京教育大に受かったのも虚仮の一念に違いない。 高校・大学いずれも、「落ちた」と覚悟しふてくされた末に、なにゆえか受かっていたまでだ。 高校入試は三つ上の兄が既に現役受験に臨んだ国立大医学部――鳥取大医学部に勝算なしと判断し、自衛隊官舎の自宅で体を休めており、速報性に優れていた静岡新聞夕刊の即日解答を見て、私の特に理科の不出来を確かめていた。 ちなみに、これも想い出として、また記録として書いておくと、兄は鳥取大受験の朝、旅館の朝食に当たって、凄まじい食中毒症状でとても集中どころでなく、はやばやと帰宅した。 その朝は数学という大事な科目などが目白押しで、勝算無しと早くに決めたのだった。 結果、兄は三浪した。親類の者はこれを小ばかにした。親類なぞ所詮この程度だ。我が兄弟は初め、県下有数の進学校の沼津東高に兄弟相次いで合格したから、このあたりまでは優越感に恵まれた。ただし、我が家の風潮として、これを鼻にかけることはまずなかった。 親類が勝手にコンプレックスをもってねたんだ。 そして、兄が三浪したとわかると、鬼の首をとったように陰口をたたいた。 これが兄結婚式で仲人をやった夫婦者だ。世代は我が母と同世代。 親類なぞこんなものだ。 今でも国公立大の医学部は狭き門で、ここに進学出来る者は、優秀な学生として高く評価を受けるが、私の兄の時代、国公立大医学部は今とは比較にならぬ超狭き門だった。 それに挑戦しての三浪は至極当たり前なのだが、仲人夫婦には、それがわからない。 己れの子等二人が共に明治大学に進学したことに劣等感を強く持っていたから、兄の三浪を「ざまあみろ」とほくそ笑んでいた。 ちなみに、この夫婦の二人の子供の長男は富士宮北高から、妹は高校こそ富士高だが、大学は兄と同じ明治大学。 私も兄も当時の東京六大学なぞは有象無象と見下していた。さらに言えば、青山学院大も中央大学もどんぐりの背比べである。 ちなみに六大学で異色なのは東京大学。無論日本一の大学なのだ。 私たち兄弟が私立(わたくしりつ)大学を見下していた根拠はただ一つ。 受験科目数の偏りとの一点に尽きる。 学費、授業料の多寡ではない。国公立大の受験は、原則、数学・英語・国語がある。ところが、私立大は選び方により、文系は英語・国語主体、数学は無い ! 私立大理系は数学主体で、英語は形式的、そして国語はない。 国公立大はこれも大学によるが、文系は英語主体だが数学もある(センター試験など)。理系は数学・理科主体だが、英語もあり、私の場合は社会も国語もあった。今の筑波大学も実質は変わらないと思う。 わたくしごとをしばらく書き続けようかと思ったが、やや呪詛めいた文言の羅列に疲れた。 話題を変える。要は聡明な少女・春香のことを書きたかった。 ごく最近、本人から連絡があり、面白いことに気づかされ、その符合に驚いた。 昨今の女の子の名前はもはやこれ以上奇抜なものはないだろうという想像も働かないほど、どっちかと言えば奇天烈なものが存在するので、あきれるを通り越して、驚きもせぬが、私が一輪車の少女の仮名(かめい)をつけて春香としたところ、昨年年末のメールで、「めぞん一刻」のハッピーエンドの二人のあいだに生まれた娘と同じ名前と指摘され、奇妙な偶然の一致に改めて驚いた。 「めぞん一刻」については、春香(一輪車少女)との話のほうが書きやすいし、懐かしくもあるので、会話の形をとってみる。 歳月をさかのぼる。少女・春香がそろそろ中学に上がる頃だと思い、まあ期待し過ぎぬようにと言い聞かせつつも、得難い話し相手との思いがあり、どうしたのかと怪訝な気持ちだった。 忘れかけた頃、春五月に封書が投函された。春香からだった。富士市から引っ越したとの連絡。いい年してみっともないが、正直さびしかった。 じかに会って語らうに如くはなし。私のような偏屈な者になると、これはなおさらとなる。同年代に友人は一人も出来ず、なぜか年の差著しい相手にどうかすると恵まれることがある。 だがさびしさは束の間。彼女からの便りはあいだをおかぬ、たびたびのものとなり、文面にしたためられた折々の生活の描写のほうが場合により、会うよりも楽しいと思えるようになった。 春香は手の届くところにいる心地さえして来た。 手紙の文章は変化をつけて見事だった。かつて初めて私の軽自動車に乗せて近場へのドライブをした時も、既にいい意味でなれなれしい言葉遣いで相手をしてくれた。その時の再現のように、文面は今でいうため口言葉が躍っていた。 これは実際に経験しなければわからない楽しさだ。 脚色して再現してみる。なお、私のことを初めから「おじいさん」とは呼ばず、「おじさん」と呼んだが、私の脚色である。 2000年代初めの手紙より。 ☆ごぶさたしていましたが、お元気でお過ごしでしょうか。実は私は両親の都合で、住み慣れた富士市からこの地へ引っ越すこととなりました。 市内だったら、中学の制服でも着て、おじいちゃんに会いに行けたかも知れませんが、気持ちが落ち着いてからのほうがいいかと思ううちに、もう五月になりました。 私のあけすけな性格を知っているでしょうから、ご心配に及びませ んと書いておきます。お察しの通り、私は新しい土地でもすぐに仲間が出来ました。 ・・・中略・・・ さて、そろそろ末筆になります。最後におじいさんの好きなプレゼントを贈ります。何んだかわかりますか。 「フフッ」 これですよ。これだけですけど、私のこの笑い方がいいんだとほめてくれてたので、手紙の最後に書きました。 「フフッ」。ウソですよ。ホントのプレゼントは、私の新しい住まいの情報です。 「ふふっ」。おじいさん、方向音痴だと言ってたから、これでもずいぶんいろいろな方法で自宅までの経路をお知らせしました。 それから、・・・・・ ★・・・これを読みながら、私は不覚にも涙を流し、まるで恋人がイタズラ心半分で、便りを寄こしてくれたかのように、喜びに浸っていた。・・・★ 文面続き。 それから、「うふふ」。もう繰り返すと効果ないかしら。プレゼントはまだですよ。 はい、これが私の連絡先の番号です。 もし生意気だと不快に思われたら、申し訳ないので、あらかじめお詫びしておきます。少しでも退屈しのぎになったら、私も望外の喜びです。 ホントよ ! ではまた。 追伸 / もう開封したかも知れませんが、中学一年生のピカピカの制服姿の私の写真を同封しました。御覧下さい。おじいさん、さびしい時は、美形の彼女と、そしてフフッ、それでもつまんない時は、春香の制服姿を思い出して下さいね。そのうち、時間が作れたら、会いに行きます。ご迷惑でなければ。☆ ・・・全く、既に残る人生への希望なぞカケラも持とうとしなかった私に、思いもかけぬ異性の出現である。 初め小学生、やがて中学生。亡き兄なぞ年ごろのアイドルなどに一瞥くれて「なんだ、ガキじゃねえか」と言下に言い放っておしまいだった。兄のいかにも大人の男と思わせる態度も今や懐かしいが、私は異性の免疫がなかったせいか、十代のアイドルにも目が向いたし、現にこの小悪魔的とも言える美少女・春香にかなり心を奪われていた。 私は妻帯せぬから実際のところはわからないのだが、ある年配以降、「娘が欲しい」と切望したものだ。春香に寄せた思いは、この気持ちだったかも知れない。今でもそうだが、これもある年齢から、自分が欲しいものを買っても、さほどうれしくないと思うようになった。 変なたとえだが、20代半ばを過ぎても、神経性の不快感をぬぐえずにじたばたしていた頃のやるせない思いから、薄紙をはぐような回復が始まり、とりあえず家庭教師の仕事でアルバイトのようにわずかな収入を得て、さらにこの収入が平均的な勤め人のそれに迫り、追い抜くようになる頃、母が大島紬の着物を富士宮の呉服店(花島屋さん)で購入した時、「あんたが稼いでくれるようになったから、お母さん、念願の着物買えたよ」との一言がどれほどうれしく、生活の励みとなったか、懐かしく思い出す。 今にして母のありがたみが身にしみてわかるのだが、一度は一家心中をほのめかした母は、回復著しい私に、折に触れ、頼もしさを強調して称えてくれた。つまり「あんたは、よくぞ立ち直ってくれたね。ホントにお母さん、うれしいよ」と常に言い続けてくれたのだ。 言わずとも知れるはずと言う者もあろうが、私は特に親は、子を折に触れて言葉でほめ称える義務があると思っている。 口数が多いのが女の欠点かも知れないが、この口数の多さは、時に著しく奏効する。言葉でほめることは大事なことだ。 私の亡き兄などは、病が進んだ最晩年、二言目には我が子に「お父さんはお前が大好きだ」と話しかけていた。バカじゃなかろかと思える言葉だが、亡き兄の最後まで父親たらんとした見事な言葉であり態度だと、今でも思う。 しめっぽくなってしまったが、今も変わらぬ最愛の亡き兄への思いである。 さて、いきなり飛ばすが、春香は、思った通り、成績優秀な娘へと成長した。 歳月もかなり下って、ほんの数年前の早春のある日のことだ。 静岡県の高校入試が済んで既に月日が過ぎていた。パソコンはムラがあるものの、さびしい独居生活には欠かせぬものだった。パソコンにメールが届いた。 春香は予想を裏切らず、県下有数の進学高校に合格していた。 私の高校時代のように静岡新聞に合格者実名が掲載されていたら、コンビニで立ち読みして合格を確かめ、新聞を買って帰り、メールか電話で祝いの言葉を述べていただろう。 この日はまるで我がことのようにうれしかった。 無論、ご両親などが一番に喜び、合格祝いをやっただろうが、春香は私への報告をも怠らなかった。 「受かったら」との約束を決めてあった。 これを実行出来る私の喜びいかばかりか。 春香は、合格通知のコピーも送ってくれた。さらに撮影した写真も、これはあとの楽しみにと予告して、うれしいじらせかただった。 血のつながらぬ初老男にも心を開いて向けてくれる稀なる少女。 前途に幸あれと祈った。 自宅門扉の前で、当時の愛車カワサキZR-7Sと共に春香ちゃんの記念撮影。まだ制服の胸のバッジはつけていない珍しい一枚。なお画像加工したためか、制服の上がグレーっぽく見えるが、昔も今も変わらぬブラックである。 春香ちゃんの高校の記章とバッジ。二つあるのは、私の時代のものと同じなので並べた。 ​​

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