「海を滑り来る防空頭巾の一団」再録
「動画リンク」を習得までのあいだ、2004年、夏に連日更新した怪談ブログを再録する。穏やかな海浜部でも、「離岸流」という現象で、思わぬ海難にあうことがあるとの、専門家の指摘もあったが、経験者本人が少なくともウソを言うわけがない。何か、不可思議なものを見たことを尊重すべしと思う。以下、当時の本文のまま、ただし、つのだじろう氏の「うしろの百太郎」からの画像を添付する。私が一級の怪奇体験と推すものである。2004.07.17 真景・海を滑り来る防空頭巾の一団 (2) カテゴリ:カテゴリー未分類 頭ごなしに否定する人は相手にしてもしょうがない。ただ、でっち上げで片付けるには、この世には余りにも不可思議談のうわさやもう少し真実味のある記録が多すぎることは確かだ。学生怪談と銘打った日記は本来お下劣ネタだった。又何ゆえか正真正銘の怪談をつづったきのうのアクセスはやや減り、前日まで三日連続「車・バイク」ジャンルの日記のベスト50位ランキングに入っていた記録も途絶えた。無論私のバイクは趣味の一部に過ぎぬ。失礼ながらランキング上位を占めたり、常連であったりするかたがたの日記のように、「バイクネタ」ばかりは書かぬ。否、バイクネタしか書けぬそれら御仁たちとは違って、私はあらゆるテーマを縦横無尽に操って、文章にしたためる。こんなことを書くから嫌われ疎まれるのも承知だが、持ったが病で治らぬ。バイクネタでなく、仮にも三日連続50位ランキング入りしたのは、むしろ内心「してやったり」という心地さえする。どうせ不人気サイト、毎日書かねばアクセスはせいぜい2,30ほどに急落する我が日記なれば、皮肉ながらバイクの如く、走り続けていなければ必ず転倒する道理にさも似たり。書かねば必ず読まれぬ。さて、本早朝は某所のお相手に都合あって、電話がなかった。よっていきなり本題に入る。タイトルの通りである。この話を私はリアルタイムで見聞している。己れの住まいからそう遠くない所に、親しい家があり、当時御殿場市に住んでいた私たちは盆暮れの忙しい時節でも、この家のおばさんのきさくで優にやさしい人柄に甘えて、よく泊りがけでお邪魔したものだ。お嫁に行く少し前のきれいなお姉さんがいて、買って来てはまだ読み足りないでとっておいたのか、部屋の中には週刊誌がたくさんあった。そのうちの一冊が「女性自身」だった。同誌昭和38年7月27日号に当時小学五年の私が鮮烈な印象を脳裏に刻んだ怪異談が掲載された。事件あるいは事故は昭和30年のことだが、当時怪異体験をむやみに口にすると、キチガイ扱いされる風潮だった。今、失踪事件を扱ったテレビ番組で当たり前のように超能力者が出て、透視だか何だかを見せることに誰も異を唱えないのは、かえって不気味だ。さて、週刊誌「女性自身」に身の毛もよだつ亡霊談が掲載されたのが昭和38年だから、事件から優に八年ほど経っている。事件は昭和30年7月28日に起きた。三重県津市の海岸に、海の守りの女神の像がある。ここは、今書いた事件(事故)のあった場所だ。市立橋北中学一年の女子実に36名が水死した所だ。当時の新聞に掲載された記事では、「にわかに潮の流れが変わり・・」とだけ記されて、いかにも物理的原因による水難事故に見えるが、この大規模水死事故でからくも一命とりとめた一女生徒が、八年の歳月を経てのち、彼女の遭遇した恐怖の体験の一部始終を語った記事が「女性自身」に載った。臨海学校に来ていた彼女・梅川弘子さん(昭和38年当時21)は、「女性自身」に、その時の恐怖の手記を、サイン、写真入りで寄せている。彼女の話をまとめると以下の如くだった。一緒に泳いでいた同級生が「弘子ちゃん、あれを見てー」としがみついて来たので、2,30m沖を見ると、そのあたりで泳いでいた同級生が、一人また一人と次々波間に姿を消して行くところだった。その時弘子さんは「水面をひたひたとゆすりながら、黒い一団がこちらへ向かって泳いで来る」のを見た。泳いでいるというより、海面を滑って近づきつつあるようにも見えたという。それは何十人もの女の姿で、ぐっしょり水を吸い込んだ防空頭巾をかぶり、もんぺをはいていた。弘子さんは本能的恐怖から、岸へ向かって泳ぎだしたが遅かった。防空頭巾の女の一人に足をつかまれ、物凄い力で海中に引きずりこまれて行った。だが苦しさにもがき、やがて意識が薄れてゆく中で、弘子さんは自分の足をつかんで離さぬ防空頭巾の女の無表情な白い顔をはっきり見続けていたという。弘子さんはその後意識を失い、助け上げられはしたが、肺炎を併発し二十日間も入院し、そのあいだずっと「亡霊が来る、亡霊が来る」とうわごとを言ったという。助かった生徒は九人いたが、そのうち五人までが海上の亡霊を見たと口をそろえて言った。津市郊外の高宮の郵便局長・山本剛良(やまもと・たけよし?)氏は、この「防空頭巾にもんぺ姿の集団亡霊」の因縁話を知る一人で、こう語った。昭和20年7月28日の米軍機の空襲により、市民250人余りが殺されており、火葬しきれない死骸は、この海岸に穴を掘って埋めた。注目すべきは、十年の歳月を隔てた月日の一致だ。 以上山本氏談。この話を聞いた弘子さんは手記の中で「ああ、やっぱり私の見たのは幻影でも夢でもなかった。あれは空襲で死んだ人たちの悲しい姿だったんだわ」と納得している。海の事故は不慮の事故と誰もが解釈するし、それが常識でもあろうが、毎年必ず起こる水死事故のうちの何件かは、既にその海で死んだ何者かが海中に引っぱりこんで起こすのではないかとさえ思えて来る。さて、この恐怖談を聞かせて私たちを恐がらせてくれたお姉さん、その後尿意を催したが、自分が恐くなって部屋のすぐそばの便所へ行くことも出来なくなり、私の祖母について行ってもらって用足ししたことも良く覚えている。我が祖母はたいていのことには驚かぬ気丈な明治女だった。防空頭巾の集団亡霊の話、これにて一巻の終わりでござる。最終更新日 2004.11.26 10:33:34