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テーマ:今日行ったコンサート(1136)
カテゴリ:オペラ
新国立劇場 14:00〜
4階左手 ヴィオレッタ:中村恵理 アルフレード:マッテオ・デソーレ ジェルモン:ゲジム・ミシュケタ フローラ:加賀ひとみ ガストン子爵:金山京介 ドゥフォール男爵:成田博之 ドビニー侯爵:与那城敬 グランヴィル:久保田真澄 アンニーナ:森山京子 新国立劇場合唱団 東京交響楽団 指揮:アンドリー・ユルケヴィッチ 演出:ヴァンサン・ブサール 最初に言ってしまうと、指揮者はウクライナ生まれで、今はモルドバ国立オペラ・バレエの首席指揮者だそうで。だからどうだって訳ではないですが。ご本人の胸にはウクライナの国旗カラーのバッジが。まぁそれだけ。だからという訳ではないですが、今日は相対的には、指揮者の勝ち、かなぁ.... というより、全体的にもう一つなんですよね。歌唱陣でまだしもなのは外題役。それとて、第一幕のアリアの最後は音を上げないで終わらせるスタイル。それはまぁそういうこともあるけれど、全体的にはそういう部分も含めてあまり華はない。恐らくは2幕から3幕勝負の人なのだと思います。しかし、2幕は、演出が酷くて、気の毒にそれが出来を削いでいた気もしなくもない。3幕は、E tardi!のアリアをかなりゆっくり目に歌って、これはまぁまぁ良かった。でも、全体的には、不合格とは言わないけれど、このヴィオレッタが目玉って言われるとちょっとなぁ....という感じかなぁと。ありなんですけれどね。問題は、他がその域に到達していないこと。アルフレードも、ジェルモンも、そこまでは行ってない。特に、ヴィオレッタにはそれでも感じられる丁寧さが、感じられない。ジェルモンは特によろしくなかったと思います。つまり、一言で言えば、雑。何がダメと言って、自分のことしか考えてない感じなんですよね。舞台での立ち位置、歌い方、そういったものが。演出なのかなとも思いましたが、どうもそういうことでもないみたい。そういうのは、オペラの舞台としては、ダメよね。 他はまぁ、推して知るべし。取り立てて言うほどのこともなし。 ただ、全般に、絶望的にダメだろこれは、というほどでもないし。観に来なきゃよかったとまでは言わないけどね、という感じかなぁと。でも、まぁ、騒ぐほどのことでもないよね、というかなんというか。 演奏としては、オケも取り立てて素晴らしいということではないと思います。指揮は、好悪分かれるところかと思います。ある意味、昔ながらのオペラ指揮者のスタイルとも言えなくもない。結構はっきりとテンポを変えて、聞かせるところは聞かせる、というよりは、歌手をサポートしている感じ。それはないだろう、というような変え方ではないので、結構ギリギリを攻めてる感じですね。全般に演奏者に限界があるので、その中でこのシーズン最後の公演で詰めるところまで詰めたということなのか。評価は分かれるとは思いますが、まぁ、まとめていたという意味ではまとめていたのではないかなと。そういう意味では評価していいと思います。 演出は、4回目の再演らしいのですが、多分観るのは3回目くらいじゃないかと思うんですが、ちょっと問題が目につくようになってきた。というか、再演としての演出が雑になってないか?元々こうだったか?という気がします。 まず、舞台として、細かいところがいろいろおかしい。言えばそれは初演時からいろいろあったと思うんですが、どうもそれにしても、というのが少なくないんですよね。 例えば人の動かし方。2幕1場。ジェルモンが入ってくるところ。きちんと案内される前から入ってきてしまう。それはまだいい。その後、ヴィオレッタが別れを覚悟して手紙を書くところを、最初からアルフレードは見てしまっていて、剰え、心ここに在らずのヴィオレッタを後ろから抱き止めまでしてしまう。その後ヴィオレッタが去り、アルフレードが逆上したところにジェルモンがやってきて、「プロヴァンス」を歌い、しかしアルフレードは感銘を受けずジェルモンは更に説教を...というのが、アルフレードは舞台裏に引っ込んで、ジェルモンは誰もいない舞台上で客席に向かって滔々と説教をし....そこに突然アルフレードが駆け込んできて「夜会に行ったな!」と言ってそのまま駆け去っていく......いや、あのね。 この場では、謎のパラソルが天井にあるのですが、その下の舞台上には、この演出を通じて出ずっぱりのピアノがあるだけ。で、このピアノには椅子も何もない。その状態で、このピアノの上で書類を見、手紙を書き....その間ずっと立ちっぱなしなわけです、ヴィオレッタは。一方、アルフレードは金をピアノの鍵盤の上に置いて蓋をして、「仕舞う」のです。 ええとね。こういうことをしてはいけないと思うのです。つまり、一体この舞台は写実なのかなんなのか、このピアノはなんなのか、不明瞭になるのです。 演劇やオペラでの演出はいまやなんでもありで、それはそれでいいのですが、しかし、それは破綻していてもいいということではない。特に、「椿姫」のような「古典」の場合、観る側も概ね内容は知っていると考えていい。それは逃れられない。であればこそ、何やったっていいかも知れないけれど、舞台構成は慎重にやらないといけない。 そういう視点でいった時、この人の動きには、殆ど意味が無いのです。意味が無いままに、中途半端に何も無い舞台上で、そこをヴィオレッタの客間の見立てで舞台を構成しながら、人の動きを雑にやってしまう。幾ら抽象性を謳っても、人は具象です。人が具体的に行動を取れば写実的にならざるを得ない。まして、抽象性が高いといっていいこの舞台上で、人に具体的に行動を取らせれば、その具象性は相対的に高くなってしまう。つまり、意味がより出やすいのです。その意味で思い付きのように人を動かしてしまうこの演出は、はっきり理って「何をやりたいの?」というものになってしまう。皆粗筋は知ってたりするから、その意味で失敗しても流しますけれどね。 このピアノも問題で、曰く19世紀の実際のピアノを持ってきたということになっていて、それは結構なのだけれども、それはつまり象徴性のあるものである筈なのに、この2幕では具体的に取り扱ってしまう。だから、3幕でこのピアノの上でヴィオレッタが寝ていても、我々は2幕でそれが机だったことを知っている。故に、3幕で「お金がない」と言われても、つい「いや鍵盤のところにお金あるよ?結構な額で」とかつい思ってしまう。 見立てというのは舞台芸術では多かれ少なかれ出て来るものです。だから、見立てに頼るのがいけないというのではない。でも、舞台というのは具体的なそこにあるもの、なのです。物理的実態を伴った存在なので、そのことからは決して自由ではない。だから、見立てをさせるなら、お客の側がそれに乗ってくれるように作り込まないといけない。それを安易に「こういう見立てですから」と言って良しとするのは、ただの手抜きです。それが分からないのなら能力不足ということ。 2幕2場、この幕切に向けてのところは、椿姫の中でも屈指の名場面ですが、これこそオペラに於ける、就中ヴェルディのオペラに於ける見立ての最たるものでしょう。アルフレードがヴィオレッタを侮辱し、周囲から糾弾され、ヴィオレッタは傷付き。そこにジェルモンが現れ....というところからの各人の想いを歌う場面。ここでのヴィオレッタの歌は個人的にはヴィオレッタ最大の見せ場だと思いますし、それほどに美しい。ついでに言えば今回のヴィオレッタが最も映えるのはこの歌ではなかったかと思います。3幕もわかるけれど、それ以上にここだったと思うんですよね。実際よかった。 でも、舞台として見ると、この場面、物凄く中途半端に作ってるんですよね。上記の通り、ここは各人の心の内を吐露して歌う場面。つまり、端的に言うと、皆同じ舞台上に居て歌っているけれど、あくまでそれは独白、なんですよね。ヴィオレッタの心情を具体的には誰も聞いていない。アルフレードは基本的には実は自分のことしか歌っていない。そんな風なすれ違いも含めてこの重唱は書かれている。だから、この重唱は、多くの場合、静止して歌われるんですね。むしろ具体的に舞台上で動きを与えるのは「ノイズ」になる可能性が高い。 ところが、この場面でどうしていたか。まず、ヴィオレッタはアルフレードに辱められて、どうするかというと、何処かに引っ込んでしまう。で、アルフレードが責められたり、後悔したりして、重唱が始まる。そこで、ヴィオレッタは、歌いながら舞台袖から出てきて歩いていくんですね。場面的には各人の心の内を歌っているから、この舞台でも他の連中は皆静止しているのに、ヴィオレッタだけ動く。そして、最悪なのは、このヴィオレッタの動きが、「所定のポジションに就くための業務的移動」以上のものに見えないんですよ。わざわざ動かしながら、そこに意味がない。 最悪です。 この演出はオペラが嫌いな人間がやった演出なんだろうな、くらいに思ってしまうほど。 よく言っても、よほど不用意なのでしょう。原演出自体決して誉められたものではないけれど、悪化している気がします。 無論、いいじゃないかそれなりに綺麗だしまとまってるし、変なゲンダイエンシュツなんかよりよっぽどいいよ、と言われる向きはあるのでしょう。でも、私に言わせれば、そういう人は多分本当は舞台なんかどうでもいい、オペラは演奏会形式でいいんだ、というタイプの人だと思います。それはそれで一つの考え方ですけれどね。でも、私はオペラは演劇だ、という結論に至った人間なので、やはりこれは許せんよなぁ、と思う訳です。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022年03月22日 20時02分39秒
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