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カテゴリ:クラシック
実のところ、今日はバッティストーニ指揮東フィルのコンサートに行くつもりだったのだけれど、どうにも気が乗らなくて、結局行くのをやめてこれを書いています。行けないこともないんだけどね。演目もカヴァレリア・ルスティカーナとパリアッチだし。でも、気が乗らないものはどうしようもない。気が乗らない理由は、アマチュアの公演だから。そのアマチュア連中がどうにも耐えられないし、聞いてる側の客層も期待出来ないので、やっぱやめた、となるのです。バッティストーニが振ると言っても耐えられないものはある。アマチュアはここでは書かないと言っても聞くに耐えないものは聞くに耐えないし、嫌なものは嫌なのです。 で、昨日は、自らアマチュアを名乗るアマオケのコンサートに付き合いで行ってきました。決して満員ではなかった、というか、正直少なからず空いていたのは、2/14の土曜の夜という日付ですかね、さて。ただ、演奏そのものはかなり良かった。マーラーの9番でしたが、確かによく練り上げた演奏だったし、力量も十分ある、という演奏だったと思います。直近では、東フィルを、まさに今日振る予定のバッティストーニが間に合わなくなったとかでキャンセルしたので代わりに渡邊一正が振ったマーラーの1番を聞いてますが、それと匹敵するような演奏ではあったと思います。人によってはこっちの方がいいと言うでしょうし、私も演奏それ自体は甲乙つけ難いレベルだと思います。で、かたや1番、かたや9番、ということですからね。 アマオケなので、ブラボーがかかりまくります。それ嫌なんだってば、というのはありますが、これは正しい。演奏者のシンパがブラボーを掛ける。個人的にはそういうの好きではないのですが、これはそういう場なので、正しい行為。それがアマチュアということ。私が今日アマチュアでありながら自称プロを聞かされるの嫌さに、バッティストーニを聞きに行かない理由の一つです。 その、昨日の正統的かつきちんとしたアマオケのプログラムで、マーラーの9番の解説が載っていて、曰く、マーラーの交響曲には死のイメージだかなんとかがまとわりついていると。趣旨としては、それ故、最後の完成された交響曲になった9番も自らの死を予感したかのようなイメージで語られるけれど、書いてる当人は10番にも着手していたので、決して自らの死を予感したわけではなかろうとかそういうこと。 まぁ、世の中そういうことになっているんでしょうか?知らんけど。ただまぁ、言いたくなることはわかります。確かにそのように語られるものではありますね。 だけれども、改めて昨日思ったのだけれども、9番の第4楽章、これがまぁ死のイメージの源泉だと思うのですが、これ、そんなに死ぬ死ぬって雰囲気なの、最後の3分くらいじゃないですかね?いや、そこに至るまでにもいろいろありますよ?でもさぁ、そこまで死ぬ死ぬって話なの?「亡き子を偲ぶ歌」のモチーフが....みたいな話もあるようですが、あれは、「亡き子を偲んで"生きてる"父親が悲しんで歌う歌」ですからね?別に当人死んでないんですよ。 個人的には、日本の自称オーケストラ愛好家の少ない層は、最後の3分しか音楽聞いてない説がありまして、皆最後の3分のイメージだけで話してるだろ、という。チャイコフスキーの「悲愴」とか、典型だと思いますよ。第3楽章の終わりでつい拍手しちゃう方がよっぽどちゃんと聞いてるんじゃね?という。まぁ、でもあれか、あれも、第3楽章も第4楽章も最後の3分かな。同じか。 マーラーの話です。 この間聞いた1番で思ったのだけれど、マーラーって、ちゃんと整理して演奏すると、わかるというか、腑に落ちるように聞こえるんですよね。そういえば、去年の夏ザルツブルグに行った時、アンドリス・ネルソンスがウィーン・フィルを振って、前半にマーラーの10番のアダージョ、後半にショスタコーヴィチの10番というのを聞いたのですが、確かにこれはまとまっていて腑に落ちた。ああ、こういう音楽なんだね、というような。改めて思うに、マーラーってとっ散らかってる印象が強いのですが、それをまとめ上げる意思と力量とビジョンがあると、ちゃんと収まるところに収まるのですね。 でも、実態としては、なかなかそういう演奏にはならない。日本のプロオケ(自称他称問わず)はよくマーラー好んでやりますが、この域に到達するのは殆どないんじゃないかな、という気はします。で、アマオケも、好きなんですよね、マーラー。これには多分一つ理由があって、個人的にはもっと古典派やるべきだと思うのですが、そうすると、乗れる人が減っちゃうんですよね。特に管楽器。金管は切実で、演奏人口に対する需要がアンバランスなので、どうしても金管乗せるとなると、後期ロマン派に行かざるを得ない。まぁ、私は楽器やる人じゃないので、実際どうだかよくわかりませんが、古典派あまりやらない理由の一つとしてはこれでしょう。で、結果、ある程度のメンバーが揃うオケは、マーラーをやりたがる。で、プロアマ問わず、相当のレベルに達せられる演奏は殆どないので、「マーラーはこういうもの」という共通認識になっちゃうんでしょうか。実際、私も、この間の東フィルの1番聞いて、考えがまとまったようなものですから。だからと言ってマーラーが好きになったかというと、そういうわけではないんですけれどもね。 とはいえ、言及した行き掛かり上取って付けた訳でなく言うと、昨日の9番は確かにいい演奏と言われて然るべきだと思います。よく整理出来ているまでは行かないけれど、単にとっ散らかった音の羅列、というよりは一歩前に出た演奏だと思います。出してる音の質も悪くないし。本当に、自称他称プロオケのうっかりした演奏なんかよりは全然いい演奏に仕上がっていたとは思います。 ただ、だからと言って、たとえば東フィルより上だ、みたいには、私は思わない。それは、そもそも音楽に対する取り組み方が違うから。これはいい悪いの話ではなくて、そもそも立ち位置が違うということです。昨日のアマオケが年に何回演奏会やるのかわかりませんが、あって年数回でしょう。たいていのアマオケはそんなものです。各演奏者個人的にどうかは知りませんが、普通は昨日演奏会やったら前後1ヶ月はまぁ演奏会はない。東フィルは、1月下旬にマーラーの1番を含むプログラムをやり、月末月初には藤原の公演に出ている。で、今週アマチュア団体に付き合って出ている。これは別に珍しい話でもない。ドイツ系のレパートリーシステムを維持している歌劇場だったら、毎日日替わり演目で演奏するでしょう。そこまで言わずとも、東フィルのように1ヶ月で違うプログラム3つ演奏する。これはアマチュアでは出来ないし、やらないし、やる必要がない。 1つの演目、演奏会の為に、数ヶ月掛けて練り上げて、磨いて、演奏に臨む。なので密度は高くはなるし、精度もあがるでしょう。技量的にも。それがアマチュアというものでもあります。それでも大したことない演奏というのはいっぱいあるわけで、だから、昨日のは良かったけれど、私が基本的にアマチュアは論評しないというのは、そういう立ち位置の差故であり、これは演奏の良し悪しとかとは別の次元の話なのです。 それがまた私が某団体を筆頭にある種のセミプロみたいな連中を毛嫌いする理由。やってること以上に、実態としてはやってることも意識の上でもアマチュアでありながら、屁理屈捏ねてプロでございと言い張り、自分を欺いているから。まぁ、藤原も、最近はそういう感じが増えてきてしまっているし、団体維持も苦しそうだから、そろそろどうなのかなとは思っているけれど。 話をマーラーに戻すと、とはいえ、アマチュアでありながらここまで聞かせるのは素直に凄いとして、もう一つ課題はあると思います。それは、「何のためにやっているのか」ということ。 また慌てて言うのですが、私は、「アマチュアには目的がない」だの「自分のためだけにやってる」だのということを言うつもりは全くありません。誰がどこでどう演奏しようがそれは演奏する人の勝手で、アマチュアの演奏家が、好きなことをやっているのは自由であり、それが結局自分のためだけだとしても、あるいは特定の誰かなり不特定の誰かに向けてやっているつもりだとしても、構わないのです。それを聞く方も自由で、素直にいいと思っていいし、自分の友人知人家族恋人がやってるからブラボーを掛けるのも一向に構わない。アマチュアの演奏会とはそういうものです。不特定多数の聴衆を超えて、公に演奏するというのとは違っていいのです。プロの顔をしながら、実態も意識もアマチュア、という都合のいいことをするな、ということ。で、この演奏それ自体は決してそういうだらしないものではない。 東フィルの方の話でいうと、あのマーラーの1番は、決してなんとなくやってみたという類のものではなかった。ある程度のビジョンを持って、こういう音楽に構築しよう、というのがあったのではないかと思います。その先、では、この演奏で何を表現しようと思ったか、というと、なかなか難しい。そもそも言葉にするのは難しいですからね。ただ、ビジョンの中には、必ず「これはこういうものだ」という認識はある筈で、それがどんなものであるか、はっきり言えるわけではないけれど、ただやってみた以上のものではあったと思います。 昨日の演奏は良かったけれど、ただ、そういう視点で見た時、もう一つビジョンがはっきりしなかった。無論受け取る側の力量の問題というのもあるので、私が理解できなかっただけかも知れません。ただ、このマーラーの9番はどういうものなのか、というようなところまで意識されていたかというと、そういう意味での表現というにはもう一つだったかなと思わなくもない。これは演奏者以上に指揮者の力量にも関わっている問題だとは思います。そういうものを提示し、共有して、表現させる、ということになるんだけれど、どうなのかな。わかんないですけどね。ただ、多くのアマオケは、指揮者との関係が大きいので、言い換えると指揮者の限界がオケの限界になってしまうこともある。難しいところかなと。 前に書いた、「死のイメージ」云々みたいなものとかも含めて、「この音楽をどういうものとして作るか」というのは大事なことなので、オーケストラというものの難しさは、それが各演奏者が持ち得ていたとしても、それを擦り合わせてまとめ上げなきゃいけない、というところにあります。でないとバラバラのイメージのまま演奏してしまうことになる。その初期段階みたいなものはクリアしているとして、その先どこまで行けているかですよね。 個人的には、マーラーはどちらかというと死には拘ってないんじゃないかという気がします。いや、死をイメージは間違いなくしているんですよ。でも、それと同じくらい、いやそれ以上に、マーラーは生に拘っているのだと思います。あのとっ散らかったドタバタの本質は生でしょう。そこに時折入り込む死も、生を前提に見える死であるからこそ時にグロテスクだったり、異常なまでに詩的だったりするのではないのかなと。最後の3分しか聞かない人にとっては、マーラーの9番は偉大なる死の音楽に聞こえるのかも知れないですが、そういう意味ではむしろ死に至る過程こそが大事だったんじゃないですかね。知らんけど。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2026年02月15日 13時25分22秒
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