仙台の旧町名「広瀬川橋下」(今の若林区河原町二丁目の一部)
仙台のかつての町名、広瀬川橋下(ひろせがわはししも)は、昭和42年2月の「南材木町・南小泉地区」住居表示により、今は若林区河原町二丁目の一部になっている。(広瀬橋の中ほどから城下町方面を眺めると、橋の右側、河川敷の奥にかつての「広瀬川橋下」がある)この場所は城下町に含まれているのか、それともわずかに外れているのか…位置的には微妙な感じがするが、平成20年頃に仙台市の「歴史的町名復活検討委員会」が行った検討では「地番入り仙台市全図大正15年度最新版」という地図の仙台市町名一覧表にある町名を城下町の町名としている。そしてその地図には「広瀬川橋下」が町名として記載されている。橋下の「橋」とは、町のすぐ近くにある広瀬橋のこと。かつては長町橋(永町橋)と呼ばれていたらしい。(「広瀬川橋下」側から広瀬橋を望む。)仙台市のウェブサイト『広瀬川下流の様子〜広瀬橋〜』に次の記載がある。・若林区河原町と太白区長町を結ぶ橋。・長町は江戸時代から賑わったところで奥州街道が通り、対岸の河原町との行き来のため長町渡戸が置かれていた。・寛文8年(1668)に初めての木橋がかけられ(中略)永町橋(ながまちばし)とも呼ばれた(以下略)。仙台商工会議所の会報「飛翔」(2021年6月号)の『資料で旅する仙台藩の「道」』によると、江戸方面から城下町に入る渡しは、当初は今の宮沢橋のあたりにあった(宮沢渡戸)が、寛永4年に始まった若林城の建設に伴って奥州街道は道筋を変え、若林城建設後は長町からか河原町に向かって広瀬川を渡るようになったとのこと。(松月山桃源院)広瀬川橋下のすぐ北隣に「桃源院」というお寺がある。江戸時代、飢饉が起きるたびに遠くは福島などから仙台城下を目指してたくさんの人たちが城下町の玄関口=広瀬橋付近に押し寄せ、結局この辺りでたくさんの人たちが飢えで倒れていった。その人たちを供養したのがこのお寺、と聞いた記憶がある。おそらく江戸時代の仙台城下には、城外から食べ物を求めて押し寄せる来る人たちを嫌悪し、怖れ、追い返せと叫んでいた人たちが少なからずいたのだろうな、と桃源院を見ながら思った。豊かな時代はいつまでも続かないし、浮き沈みは世の常。災害だってまたいつ起こるかわからない。明日は我が身。けれど、それがわかっていても人間は排斥や差別を繰り返す。ヒトはそういう生き物なのかもしれない。芥川龍之介の「蜘蛛の糸」が頭に浮かんだ。