仙台の旧町名「東九番丁」(一部現存する他、今は榴岡3-5丁目、連坊1丁目、新寺2-3丁目、榴ヶ岡のそれぞれ一部)
東九番丁(ひがしくばんちょう)仙台の旧町名「東◯番丁」や「北◯番丁」は、城下町の中心から順に概ね碁盤の目のように並んでいるものと思っていた。だけど東九番丁は東十番丁と同様、自分の予想通りではなかった。仙台市の歴史的町名活用路線図には、東九番丁は赤い鈎状の矢印線で示されていて、若林区と宮城野区をまたぐ長い道筋になっている。この《東九番丁》通りのうち、図の下の方、ピンク色の範囲は今も「東九番丁」が住所として使われている。それ以外の場所は住居表示と土地区画整理によって、新しい住所に変わっている。この図では、一部ジグザグではあるものの、東九番丁は東七番丁や東八番丁と並行して走っているように見える。ただ、住居表示の新旧対照表によれば、図の中ほどに手書きでつけ足した赤い線の周辺も、住居表示以前は東九番丁を住所としていた。この枝線のようなものはなんだろう…仙台市のウェブサイト「道路の通称として活用する歴史的町名の由来」は「《東九番丁》通り」を次のように説明している。・現在は荒町郵便局の東側から北に延び、東八番丁にほぼ平行して北目町通に達し、鈎状に折れ曲がりながら二十人町に達している。・「封内風土記」には東八番丁以下は今廃宅であると記している。「廃宅」から勝手に推測すると、東八番丁と東九番丁は当初、東七番丁までと並んでいたが、その後の飢饉によって荒れ果て、一度は通りとしての実態がなくなったのではないか。その後、榴ヶ岡天満宮を中心とする町が形成され、そこにできた通りが新たに東十番丁、東九番丁とされたのではないか。試しに前回、東十番丁を赤い線で書いた使った拙い手書きの図に東九番丁と思われる通りを黄色で書き足してみた。東十番丁と東九番丁の並びがなんとなく予想通りになった。古地図などを真面目に調べれば、正確な経緯がわかるのかもしれないが、それはまた後日。仙台市のウェブサイト「町名に見る城下町」の「東七番丁・東八番丁・東九番丁」には次の記載がある。・清水小路の東側に、北は二十人町(宮城野区)、南は荒町にはさまれた細長い通りが、南北に三丁並んでいる。・このうち若林区内に入るのは、連坊より南の区域。いずれも東六番丁に並行して割り出され、仙台開府当初は足軽屋敷があったが、まもなく侍屋敷となった。間口が狭く奥に長い昔の地割りが残っているのを見ることができる。(中略)・東九番丁は西側に足軽屋敷が置かれ、東側は寺屋敷が並んだ。現在ある栽松院、光寿院、阿弥陀寺、龍泉院などなどの寺院は,この地で400年の歴史をきざんでいる。(地下鉄五橋駅に近い荒町通りから東九番丁は北に向う。荒町通りに面している土地の住所は荒町。その北側から東九番丁が住所になっている)(電柱に「ここは東九番丁」の表示。右側には「居酒屋九番丁の看板」)(「国分町から東へ九番目筋にあたる侍屋敷のまち、東九番丁」と書かれている)(若林区側に建つ「《東九番丁》通り」の標柱)(JR東北線の「東九番丁踏切」の表示)(東九番丁の東側には今も多くの寺社があった)(宮城野区側に建つ標柱)(JR仙石線東九番丁踏切跡の表示板)