祖父と祖母の家、そして僕の母とその兄弟たちが生まれた家は笄町(こうがいちょう)という町にあった。
当時の住所は麻布笄町。
今の住所では、東京都港区西麻布四丁目のあたりになる。
ある雨の日、かつての笄町に行ってみた。
その家があったと思われる場所には高層マンションのような大きなビルが建っていて、昭和初期の名残りらしきものは何もなかった。だけどすぐ近くに「笄軒-AZABU KOUGAI KEN-」という名のレストランがあった。
そして日比谷線が地下を走る広い道路の反対側には笄公園と笄小学校があった。
「笄」という見慣れない文字をいくつか目にして、ここが僕の親たちが過ごした地なのだな…と思った。
すぐ近くには古地図にも載っている、渋谷区と港区の境界にあたる独特な三角形もあった。
V字の道路の外側が港区西麻布で、道路の内側が渋谷区広尾。渋谷区部分はかつて宮代町と呼ばれ、堀田坂(赤い方の道路)を登ったところに日本赤十字社の産院があり、母も、母の兄弟もそこで生まれた。
母いわく、祖父は笄町の家から職場のある高樹町に通っていて、祖母は札幌からこの家に嫁いできた。
その後、一家は笄町から文京区の本郷に引っ越した。
戦況の悪化に伴って、当時小学生だった兄弟(母と母の兄弟)は栃木県の那須塩原に学童疎開。
昭和20年に入り、空襲のため本郷には住めなくなり、一旦、笄町に住まいを戻した後、程なくして本郷の家は焼失。
この時祖父母は、祖母の実家がある札幌に一家で身を寄せることを決め、初めに祖母が幼児を含む親子3人で、続いて祖父が那須塩原に疎開していた子どもたち2人を引き取りながら札幌に向かった。
札幌に着いた後、祖父は徴兵されたものの敗戦後に帰還。
戦後、子どもたちは札幌の学校に通い、札幌で就職し、札幌で結婚し、札幌で子どもを産んだ。
ということらしい。
「東京は空襲が酷くなったからね、札幌に移ったのさ」
と母は簡単にまとめてしまうけど、子どもたちを連れて東京から札幌の実家まで旅をした祖父母の苦労は想像すらできない。そして戦後、土地勘のない札幌で職を探し、家族の暮らしを何とか支えた祖父もさぞかし大変だったに違いない。
戦争がなかったら、せめてもっと早く終わっていたなら、こんな思いはしなくても良かったのに…。
考えても仕方がないとはわかっていても、どうしてもそう思わずにはいられない。
今の国際情勢もかなり酷い状態だと思うけど、これからは、国際政治の舞台を戦争を賢く避けながら渡り歩ける、駆け引き上手な賢いリーダーたちが世界中のあちこちに現れてほしい。
優秀な政治家たちが、日々丁々発止のせめぎ合いをしながらも地球を戦禍から守ってくれますように。未来永劫、戦争を回避し続けてくれますように。
この日はそんなことばかり願っていた。