カテゴリ:仙台の歴史
元茶畑(もとちゃばたけ)
仙台市若林区にあるこの町は、戦後の住居表示の嵐をくぐり抜けて、今も「元茶畑」が正式な住所となっている。〔参考:仙台市「歴史的町名復活検討委員会報告書」(平成21年1月)〕 現地に立つと、元茶畑の町はおそらくその半分以上が仙台一高の敷地になっていた。正しくは宮城県仙台第一高等学校。多くの卒業生がここの出身であることを誇らしげに語る、そういう高校らしい。 ![]() 「元茶畑」について、地下鉄東西線連坊駅の近く、そして仙台一高のグラウンドの外に立つ「表柴田町/元茶畑」と書かれた辻標には、次のように書かれていた。 ![]() 元茶畑 「長泉寺横丁から南鍛冶町に至る通り及びその周辺を指した。 寛文十一年(一六七一)から元禄八年(一六九五)までの二十五年間は藩の御茶畑で、その後侍屋敷となった。 明治四十一年宮城県仙台第一中学校(現仙台第一高等学校)が置かれた。」 また、仙台市のウェブサイト「町名に見る城下町」では元茶畑は次のとおり解説されている。 「連坊小路の南側、柴田町の西側、東南向きの斜面に沿った陽当りのいい場所で、寛文11年(1671)頃から茶の木が植えられていて、元禄8年(1695)まで藩の茶畑として使われ、畑の中を孫兵衛堀が流れていた。 茶畑廃止後は侍屋敷となって元茶畑という地名となった。 茶畑だったところは東半分のほとんどが仙台一高となり、西半分のJRアパートだったところが道路の拡幅で姿を変えつつある。」 ![]() この「西半分」にはもう誰も住んでいないJRアパートが2棟建っていた。まだ残っていて良かったけど、取り壊しの準備は始まっていた。(2024年4月末時点) 辻標にもウェブサイトにも、この辺りが茶畑になったのは1671年頃から、と書かれているので、「元茶畑」の茶畑化は政宗公より後の時代、ということになる。 一方、仙台城下ではここが茶畑になる前から、武家屋敷の敷地の中でお茶の栽培が広く行われ、仙台はお茶どころとして名を馳せていたらしい。 そのことが「せんだい市史通信」に「お茶どころ仙台」というタイトルで次のように書かれている。(第31号。仙台市博物館市史編さん室。平成25年9月13日発行) ・(前略)かつては日本有数の産地だったのに現在では大きく生産量を落としているものもあります。宮城県では茶がその代表格です。 ・(中略)仙台における茶の生産の相当部分は実は街の中にあったのです。 ・仙台城下の7割以上を占めた武家屋敷がその場所でした。 ・仙台藩は藩士たちに広い屋敷を仙台城下に与えました。 ・その面積は、100石どりで420坪、500石で900坪が基準とされていました。 ・その広大な屋敷の中には菜園が作られ、また、たくさんの樹木が植えられて「杜の都」の原風景を作り出していたのです。 ・そうした武家屋敷では、門から玄関に続く通路に沿って、あるいは庭の一角に、茶の生垣を作るのが一般的でした。 ・(中略)しかし明治以降、武家屋敷がだんだんと少なくなり、また静岡などで大規模に茶の生産が行われるようになると、もともと茶の生産地としては北限に近かった宮城の茶の生産は急速に衰えてしまいました。(後略) ![]() 元茶畑は現在の道路で示すと赤線の通りになるのでは、と推測している。 辻標は高校の敷地脇の道路に立っているので間違っている可能性はあるが、元茶畑の町の真ん中を通っているのはこの赤線の通りなのでそう考えてみた。 大きなお寺(東漸寺)の下にある静かな通りだった。 ![]() お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
September 30, 2024 07:40:00 PM
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