カテゴリ:東京の記憶
皇居のすぐ前、パレスホテルの近くに福井藩上屋敷跡と書かれた説明板があった。
![]() 「福井藩…。なぜこんな超一等地に福井藩…?」 と、歴史に疎い僕はまず思い、説明板を読んでみた。 「寛永十年(1633)に江戸城本丸大手門の前に建てられた越前福井藩主・松平忠昌(まつだいらただまさ)の上屋敷跡。広大な敷地に桃山風の豪壮な建物が建っていましたが、明暦の大火により消失(後略)」 松平…と言えば、おそらく徳川家の親族。だとすれば福井藩のお屋敷がこの場所にあったことも理解できる。 福井市立郷土歴史博物館の資料には次のような解説があった。 「慶長5年(1600).関ヶ原の合戦で東軍が勝利すると、天下人、徳川家康は次男の結城秀康(結城城主、10万1000石)に越前国(68万石)を与え親藩福井藩が創設された。(中略) 大坂の陣で活躍した2代忠直以降の藩主は、代々松平の姓を称した。(中略) 寛永元年(1624)に(中略)高田藩主であった忠直の弟忠昌が越前に入封した。忠昌は北庄を福居(後の福井)と改めた。(中略) 家康の次男秀康を初代とする越前松平家は、御三家、御三卿を除く、徳川将軍家の親族として「御家門(家門)」と称し、その筆頭として格式を重んじられた。」 〔展示解説シートNo.133(令和2年7月)「福井藩と城下町」より〕 要約すると、福井藩は家康の次男が藩祖で、この上屋敷の主・松平忠昌は家康の孫。そして越前松平家は徳川将軍家の御家門の筆頭だった、ということになると思う。 知らなかった…。 関ヶ原で勝ったとはいえ、まだまだ大坂への警戒が解けない。だから家康は福井を重視したのかな。 そんな推測をこの屋敷跡でしてみたけど、この続きは実際に福井の町を歩きながら楽しみたい、とも思った。 福井県はこれまで敦賀と小浜に行っただけなので、今度は福井市などほかの町にも行ってみたい。ぜひ。 ![]() お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
March 13, 2025 12:00:46 AM
コメント(0) | コメントを書く
[東京の記憶] カテゴリの最新記事
|
|