仙台の旧町名「二日町」(今の青葉区国分町三丁目と二日町のそれぞれ一部)
藩政時代の町名、二日町(ふつかまち)は、昭和45年の住居表示で町の範囲がわずかに変わったものの、今もほぼ同じ場所で住所(仙台市青葉区二日町)として使われている。二日町の南側には仙台の歓楽街「国分町」があり、二日町の中心を通るかつての奥州街道も、今は「国分町通り」と呼ばれている。けれど、国分町から定禅寺通を渡った先にある二日町に歓楽街の雰囲気は感じられず、銀行の支店やオフィスビル、そして小さな飲食店や割と新しいマンションなどが並んでいた。歓楽街の雰囲気同様、二日町の街並みに藩政時代の名残も感じられなかったが、江戸時代には、立町、二日町、新伝馬町とともに米穀売買の特権が与えられ、「四穀町」と呼ばれていたらしい。(仙台市ウェブサイト「奥州街道を歩く」より)一つだけ、通り沿いに古い蔵を見つけた。今は国分町三丁目になっているこの場所は、かつての二日町。早速、蔵の周りをうろうろしてみたが表示なども見当たらなかったので、スマホで探してみた。すると、建物を所有している志ら梅ビルのウェブサイトに詳しい説明があった。(以下、同社ウェブサイトより)建物の名前:秋保石 石蔵(旧・吉岡酒造店) 【大正三年建造】※(令和7年8月現在)一時的に賃貸を中止。(東日本大震災の被害で内壁の漆喰が浮き上がったため。)■建物の特徴旧奥州街道の往時の賑わいを記憶する石蔵。旧・吉岡(屋)酒造店の敷地内に大正期に建造された数棟のうち最後の一棟。当時流行した自然石である地場・仙台市太白区秋保産の凝灰岩「秋保石」を積み上げている。デザインは大正モダンの和洋折衷様式で、北面ファサードに重厚なアーチと角型の2つの開口部を並べている。開口部屋根の軒支えと雨樋受けの鉄製金具に、同店銘柄「清酒志ら梅」の梅の花弁の輪郭を象った意匠が看て取れる。昭和20年の仙台大空襲では焼夷弾が瓦屋根を突き抜け内部の収蔵品すべてを灰燼に帰した。酒造時代には「志ら梅醸造場」用の米蔵、小売時代には商品倉庫として利用された。小売店舗は平成22年10月を以て閉店した。 (以上、同社ウェブサイトより)説明によると空襲の前からこの蔵はこの場所にあったとのこと。そして「旧奥州街道の往時の賑わいを記憶する石蔵」とも書かれている。戦後、仙台の中心部では大規模に区画整理が行われ、青葉通りなど広い道路もつくられたが、焼失する前の街の形にはできるだけの配慮をしたのかもしれない。もうひとつ、仙台市役所二日町分庁舎前に、市教育委員会が立てた看板があり、この場所に「仙台藩町奉行所」があったことを説明していた。(ただしここは藩政時代には二日町ではなく西隣の町にあたる。)以下説明。仙台城下の町人町(ちょうにんまち)の行政全般を預かる町奉行は、城下町建設期より置かれ、当初は地域割りごとに奉行がいましたが、2人の奉行の月番(つきばん)制となりました。恒常的な施設としての「町奉行所」は設けられず、町奉行を務める藩士の屋敷で事務を行う役宅(やくたく)制が採られていたましたが、嘉永(かえい)年間(1848~55)以降は、仙台城下を南と北に分けてそれぞれに町奉行所が設置されたといいます。仙台市二日町分庁舎前には北の町奉行所が、仙台国際ホテル・SS30前には南の町奉行所がありました。