一橋徳川家屋敷跡(千代田区大手町)
皇居のお堀と日本橋川の間、商社丸紅のビルの敷地内に、「一橋徳川家屋敷跡」が残されていた。日本橋川に架かる橋の名前は「一ツ橋」。この橋の近くに屋敷があったことが一橋徳川家の名前の由来とのこと。橋の近くには石垣「一橋門跡」もあった。一ツ橋も一橋門も、どちらも首都高の高架下にあって、まったく目立たない。それが少し寂しいところだった。それはそうと、この一橋門の内側の広大な敷地に、一橋徳川家屋敷があったそうだ。石柱が建っているこの場所は、お屋敷のほんの一部に過ぎない、と思われる。巨大なビルのふもとにあるこの場所、決して広くはないけど、しっかりと歴史を感じさせる空間になっていた。石柱の隣にはこんな説明があった。「一橋徳川家は、寛保元年(1741年)徳川八大将軍吉宗の第四子宗尹(むねただ)が江戸城一橋門内に屋敷を与えられたことがはじまりである。 一橋家・田安家・清水家は御三卿(ごさんきょう)と呼ばれ、御三卿は将軍家に世継ぎがなく、御三家(尾張・紀伊・水戸)にも将軍となりうる該当者がいない場合に将軍を送り込める家柄で、十万石の格式をもち、直属の家臣団を持たず、将軍家の身内として待遇された。 当家は、二世治済(はるさだ)の長男家斉(いえなり)が十一代将軍となり、水戸家より入った一橋九世が徳川最後の十五代将軍慶喜(よしのぶ)であり、御三卿の中でも幕政に深く関わった。(後略)」十万石の格式をもち、家臣団はいない…というと、一橋徳川家は普段はどんなお仕事をしていたのだろうか…??という疑問がフツフツと湧いてきた。そのうち調べてみようと思う。ちなみに、一ツ橋は徳川家が江戸城に入った頃には既に架けられていて、大きな丸木が一本だけの橋だったので「一ツ橋」の名になったと言われている。寛永六年(1629)に一橋門が築造され、その内側に一橋徳川家の屋敷ができたのは元文五年(1740)。現存するわずかの石垣を残して一橋門が撤去されたのは明治六年(1873)のこと。(以上、千代田区HP「千代田区の文化財」より)皇居の平川門。振り返ると屋敷跡のある丸紅のビルがあった。