私見ベトナムの歴史48


なぜ、ベトナムの支配者達は2代続けて愚王となったのか?
これには理由があると思われます。
まず考えられる事が中国の状況です。前回にも書きましたが1464年に即位した明の成化帝(憲宗)から明の政治が万里の長城建設でも分かるよう保守化し、対外的に不干渉又は傍観の姿勢を露にして来たことがあります。この時ベトナムはレ・タイン・トンの時代で光順中興の時代、インドシナ半島において覇権を露にしていきます。以前の明でしたら近攻遠交策でもってベトナムを封じ込めようとしたでしょう。

しかし、明に愚帝が続きます。道教に凝ったり、房中術にはまったりというような皇帝ばかりです。明国内も民衆の反乱があったりと、とても外交まで手が出ませんでした。
ベトナムというのはどうも目が北に向いているようで、『チャンパも叩いたし、中国はあんな状態だから大丈夫だろう』という安心感が政治を駄目にしてしまったような気がします。日本も戦後同じです。アメリカの防衛の傘の下『人間は生まれながらにして平和である。戦争は悪いもの、人命は地球より重い』みたいな事が正しいとされて来た風潮があります。

確かに戦争は良くありません西郷隆盛が言ったように『人と金を浪費するもの』です。しかし、その平和を守るためには『自分で自分の身を守らなければいけない』というのが前提にあります。湾岸戦争時、自衛隊は派遣せず後に総額120億ドルまで膨れ上がったお金を国連軍に負担しました。この時世論の反対はありましたが日本の折衷案がこれだったでしょう。もしこれが『家庭当たり百万円の負担をお願いします。』となったら『自衛隊を派遣しろ。何のために今まで税金払って来たんだ。』となると思います。
現実の政治行動とはこんなものです。『人間はパンのみに生きている』といって良いでしょう。現在はこれに『スープも付けて、食後のデザートも』となるからややこしい。

おっと脱線。

ベトナムと中国というのは非常に影響し合う関係と言って良いでしょう。中国からよい面も悪い面も時間差で作用するという関係があるような気がします。ベトナム研究者はベトナムは小中華ではない、としますがドイモイにしても中国の後追い政策に見えるのは私だけでしょうか?

1516年チャン・カオ(陳嵩)が反乱を起こします。このチャン・カオ(陳嵩)という人がどのような人だったかは私には分かりませんが、民衆蜂起のリーダーだったのでしょう。
この反乱はかなり大規模なものでベトナム宮廷を揺るがしました。
この時、かねてから不満を持っていた廷臣チン・ズイ・サンが3、000人の兵と共にクデターを起こしテウオンドウック帝を刺殺、皇后は焼身自殺します。しかし、このクーデターは怨念だけのものだったらしく、宮廷に民衆が流れ込み略奪を働きます。首都が制御不能の状態になりました。これに付込んだのがチャン・カオ(陳嵩)達のグループ、このどさくさに首都を制圧してしまいます。

滑稽な事に廷臣チン・ズイ・サンは自ら起こしたクデターで自分の命が危なくなり、王族の14歳の息子をクアンテエウ(光紹)帝として担いで逃げなければならないはめになりました。廷臣チン・ズイ・サンとしてはレ朝武将の結束のシンボルとしてどうしても王が必要だったのでしょう。しかし、廷臣チン・ズイ・サンはチャン・カオ(陳嵩)達に敗れ死亡。チャン・カオ(陳嵩)達も馳せ参じたレ朝の武将達に敗れ遁走します。

しかし、この馳せ参じた武将達も結束せず、互いに派を争うようになります。この混乱を利用して台頭するのがベトナム史上もっとも悪名を浴びせられたマック・ダン・ズン(莫登庸)です。
(2002、10、13)



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