ある日、街で、観察者さんと観照者さんが出会って、立ち話をしました。観察者さんは、「気づく」ために瞑想したり、ワークしたりして頑張ってます。観照者さんは、「気づき」の海の中を漂う魚のように、リラックスしています。二人の対話です。
観察者さん。「僕にとっての気づき(アウェアネス)というのは、ある方向を指し示す懐中電灯の狭いビームのようなものだと、知覚されます。」
観照者さん。「私にとってと気づきとは、対象になる物に制限されるものではありません。それは空のように広大で、始まりもなければ、終わりもありません。」
観察者さん。「へー。僕にとっての気づきは、いつもいつも、人生のひとつの側面から別の側面へとフラフラとさまよってるんだけどな。」
観照者さん。「私にとっては、それは単に在ることです。空っぽの空の中を自由に動く白雲のように、人生におけるすべてのものは、空の中で動いています。」
観察者さん。「だいたい僕は、気づきを制限するんです。だから人生の、<生>の、ひとつの側面に気づいているのに過ぎないか、あるいはひと時には、二元性のひとつの側に気づいているのに過ぎません。あっちに気づいていると、こっちに気づけず、白だと思うと、黒が見えません。」
観照者さん。「私の気づきは、多次元的です。二元性の両方の側面を含みます。あらゆる次元に同時に開かれていています。」
観察者さん。「うーん。僕の気づきは、あったり、なかったりしますね。電気が点いたり、消えたりするようなものですね。」
観照者さん。「それはいつも現在に在ります。いまここに在るのです。」
観察者さん。「僕は、気づくとラベルを貼ります。<生>のすべてのものを、単なる対象物として知覚します。一瞬一瞬を凍らせて、枠付けをします。そして、<生>は永久不変なものだという幻想をつくりだします。」
観照者さん。「観照のなかにいると、<生>はその本性のなかで知覚されます。<生>の本性、本質というのは、固まったものでなく、流れ、変化するものです。」
観察者さん。「僕は、何が良くて、何が悪いかと、判断します。」
観照者さん。「私の気づきには、判断はありません。」
観察者さん。「僕は、僕が観察するものに影響を受けます。」
観照者さん。「私は、ただ鏡のようです。それが映し出したものによって影響されません。」
観察者さん。「僕は、悪いものを超えて、良いものを選ぼうとします。より良いものは、もっと得ようとします。努力して、悪いものを得ることを止めようとします。良いものをつかみとろうとすることで、もがき、緊張し、圧力を感じ、悪いものを抑圧し、そこから身を引こうとします。」
観照者さん。「私は、選択のない気づきです。ものごとのあるがまま、そのありのままと共にいて、ありのままを観ることをもたらします。」
観察者さん。「あなたはただ観ているだけで、なにもしないのですか?」
観照者さん。「私からは、理解を基盤とした<生>への応答が創造されるのです。」