ラ・ラ・ラ・メディテーション

2011/02/05(土)04:28

人間の器 (試練を克服する)

ユニオミスティーオイル(ミスティカオイル)(55)

 今日で三回目のミスティカオイルを体験するクラスを終えて、家に帰って、映画「レッド・ドラゴン」を見た。 「羊たちの沈黙」と続編に比べてたいしたことないし、レクターも子供みたいな目をしていて、そんなに怖い人と思えなかったけど、そのキャパシティーの違いということでは、今作の犯人とも、やっぱり主人公の刑事よりも、勝っていた。 この映画では、レクターは異常者というより、単に器の大きいお茶目な人といった描き方だったように思う。登場人物の誰よりも、毎日を楽しんでいるように思うし、主人公の刑事をそんなに愚弄もしなかった。その分、やはり一作目は、もっと複雑な性格描写があって面白かったが。 心理学者の鈴木研二は、「人間の器とは、物事を受け入れる範囲の広さ。自分をも含む人間たち、生き物、無機物、できごとをどこまで許し、受け入れ、肯定できるかが、その人の器の大きさに反映する」と定義している。 以下、彼の本から抜粋すると、「人間の器には、許す→受け入れる→肯定する、気に入る、という深まりを示す感情的次元と、もう一つ、気づく→受け入れる→活用するという段階を踏む、認知、行動的次元」という二つのイメージがあり、これにのっとれば、「器が小さいということは、1.ものごとに気づかない(ふりをする)鈍い。2.ものやことを許せない。狭量。3.ものごとを活用できない。レパートリーが狭い。4.ものごとを気に入らない。無愛想。冷淡。」と、表現できる。さらに、器が小さいと、「表をとりつくろう偽善性、表と裏の曖昧性、裏の部分にある赤裸々な欲望、感情、特に性にまつわるそれ」らは、その小さな器には、納まりきれなかったりする、から、つまり「清濁併せ」飲めない。そして、社会との軋轢も厭わない首尾一貫したアイデンティティーもその器には、納まりきれない、と言う。そういう意味では、子供の頃に虐待されていた犯人や、刑事をやめてしまいたい主人公は、映画のなかで絶えずゆれているが、レクターは、誰に対しても、ふてぶてしい態度を崩さない。この人を捕まえて閉じ込めても、口輪をはめても、一貫して、それを試練と受け取ってなさそうだから、不気味なのだ。 さて、今日の夜は、試練とは何かについて、みんなで探求したと言える。 そして、「試練を克服する」のオイルは、一言で言えば、自分に優しくすることを、助けると思う。ハートの「優しい」質にアクセスするのを助けてくれるのだろう。 人間生きていれば、誰だって、失敗したり、間違えることがある。そんな時に、多くの人にとっては、内側に住んでいる母親が、厳しく、批判的なために、その出来事は、挑戦だと誤解され、緊張し、気品や気楽さが自分から失われ、身構えてしまう。障害だと思える出来事も、実は学ぶべきレッスンという生の贈り物かもしれないのだが、マインドが優しくなくて、養育的でない多くの人とっては、それは自分を罰する避けて通りたい嫌なものだ。つまり、そんなこと、受け入れられない。 クラスは、まずそれぞれが自分が陥りがちな自己否定のパターンについて、シェアーして、それが過酷な批判者「インナー・マザー」(内なる母)として、自分のマインドの傾向に存在している、という考え方を使って進めた。 そのインナーマザーに情け容赦なく責められることによって、多くの困難を生んでいることを、あるエクササイズで体感した。これは、ちょっとインパクトがあったようだ。みんな普段、自分が無意識でしている姿を目のあたりに見て、少しオロオロしていた。(内容については、企業秘密なのでここに賭けないのが残念。別に企業でも何でもないのだけれど、もしかして体験するときの邪魔になるから書きませんので、知りたい人はごめんなさい。) 自己批判の激しい人ほど、The Art of Feeling Bad のアーティストとして洗練されている。(昨日の日記を見てください) その自分へのきびしいマインドに気づいた上で、もうそんなことやめよう、という理解と自分への愛が、その後の展開で、みんなのなかに生まれたと思う。 きびしいマインドを変えようとすると、セラピー的なアプローチが必要で、膨大な時間がかかるものだが、ミスティカオイルを使うことと、瞑想と、ちょっとしたテクニックで、終了間際に、いっきょに、ハートが開いた。 みんな、ハートの次元のなかの「保護的で、養育的で、優しく、滋養を与える」母性的な質に出会っていた。自分の失敗や間違いも、優しく受け入れて、すると、存在はどんなときもサポートしているということを思い出していた。どんなマインドを持っていても、それを脇において、ハートを思い出したらいい。そこでは、いつも、新たな喜びと幸せが待っている。 何十年ぶりに涙を流したという人が、二人ほどいた。やわらかくなり過ぎて、うろたえている人もいた。 心の器が大きくなって、レクターでも誰でも許せそうな、暖かい気持ちになった人もいるかもしれない。 少なくとも僕は、期待外れの映画を許せた。

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