ジャジメントについての仮説
●追記4こんなメールが来た。「トレーニングで、もらった資料 ”愛は判断することを知らない” の6番目の段落 「・・・。人びとを判断~」以降を、 私 → 和尚 あなた → ワタシ その人 → 誰か嫌いな人の名前 に置換して声に出して読むと、とても現実的。響きます。」なるほど・・●追記3.左端ページに、ミスティカオイル・セラピスト・トレーニング1.で使用した和尚講話ジャジメントについて「愛は判断することを知らない」を掲載しました。●追記2.古い日記にうろつき夜太 (判断の力学) 画像付というタイトルでジャジメントについて書いてました。しかし今回は、ジャジメントしたりされたりしている人のまわりの人も傷つくのではないかというのが、仮説で、lilamoonさんは、それについて僕の書きたいことがわかっていただけたようで、嬉しい。●追記1.オショウの言葉で、以下の言葉を見つけた。Judgment is ugly ? it hurts people. On the one hand you go on hurting them, and wounding them, and on the other hand you want their love, their respect.It is impossible. You love them, respect them, and perhaps your love and respect may help them to change many of their weaknesses, many of their failures ? because love will give them new energy, a new meaning, a new strength. 批判するのは醜い...それは人々を傷つける。あなたは一方で彼らを痛め、傷つけ、他方で彼らの愛と尊重を欲する。それは不可能だ。彼らを愛し、尊重しなさい。おそらくあなたの愛と尊重が、彼らの弱さや欠点の多くを変える、手助けをするかもしれない.....なぜなら、愛は彼らに新しいエネルギーと、新しい意味と、新しい強さを与えるだろうから。OSHO ●ジャジメントすることは、ナイフとか刀で、自分がジャジメントした相手を切るような、そんなことが、エネルギー的には起こるような気がする。ジャジメントが言葉であれ、態度であれ、無言であれ、それをする時のエネルギーは、相手のオーラを切り裂くような気がする。目の前にいなくても、そういうことが起こるかどうかは、起こるようには思えるが、本当かどうか、僕にはわからない。そしてさらに、そのナイフや刀は、返す刀で、その返すナイフで、自分自身も切るようなことがエネルギー的に起こるような気がする。自分自身の中にもある、相手と同じような傾向を持ったエネルギーを、そのナイフや刀は切り取ってしまうのだ。そして、自分にはそれがないものとして、相手のエネルギーを切ろうとする。さらに正確に言うと、たぶん最初には無意識で、自分のエネルギーを切ることが起こっていて、そしてそれが返す刀で、相手を切ることになるのだと思う。ジャジメントというのは、恐ろしいものだ。感情的な非難や拒絶の混じっていない、純粋な識別だって、相手にとって受け容れがたいことを言う時は、表現に気をつけなくてはいけないのに、ましてや感情的な非難や批判は、自分も相手も、それをするとエネルギー的にすだずたになってしまう。相手に直接表現しなくても、たぶんそういうことは起こってしまう。では、それをしたりされたりしている人のまわりにいるだけで、まわりにいる人は、その切ったはったの複雑なやりとり(二重というか、四重というか)で、エネルギー的に「かすり傷」ができてしまう・・というのは、今日、思いついてみた仮説。お父さんと沈黙してトンカツを食べながら、暇つぶしにそんなことを考えていた。見えないナイフで、自分の嫌なところを切り取ったり、相手の嫌なところを切ったりしている人の側にいるだけで、その振り回しているナイフの切っ先がかすめて、関係のない人も、切られてしまう・・そういうことが起こるのだろうか?例えば、誰かの悪口を聞いているだけで、悪口を言っている人でも言われている人でもない、ただ聞いている人も、そのナイフでオーラが切られる?ジャジメントをジャジメントしてなければ、切られないのだろうかとも思うけれど、これはまた少し別の話のような気がする。今日は、こんなことをつらつらと考えていた。