J昇格への道・4-ヴィッセル神戸、J昇格への道・4- 駆け上がれ、Jロード(後編)1996年8月18日。1996年第5回JFL後期リーグ戦が始まる。 ミカエル・ラウドルップのデビュー戦ともなったこのゲームは今季最高の12150人もの観客を集める。 ラウドルップ2、ジアード、神野のゴールで4-2で勝ち、後期開幕にふさわしい幕切れとなった。 いきなりの2ゴールというセンセーショナルなデビューを果たしたラウドルップは 「自分が得点した事よりも、チームが勝ったことが大事」とお立ち台でのヒーローインタビューを拒否、 あくまでも『チームの勝利』という事にこだわりを見せた。 1996年8月18日、第5回JFL第16節 VSブランメル仙台(神戸ユニバ)4-2 愛息アンドレアス君と入場。 ヴィッセル神戸スターディングメンバー 後列、左からDF森、MFビッケル、FWジアード、MF東、GK石末、FW永島。 前列、左からMFラウドルップ、DF和田、DF吉村、DF幸田、MF内藤。 ラウドルップが戦列に加わり、J昇格へと突き進もうとした矢先、第17節・富士通川崎(現・川崎フロンターレ)戦で 0-1と痛い取りこぼしをしてしまう。今までの組織サッカーがラウドルップの加入で揺らいでいた。 その後第18節・コスモ四日市(1996年シーズン後廃部)に3-2と勝つものの、不安定さは否めない。 9月1日、第19節の相手はモンテディオ山形。この試合は1998ワールドカップ・フランス大会のヨーロッパ予選のために ラウドルップは帰国。基本に立ち返ったヴィッセルは5-0と大勝する。 奇しくも今一度、個人の役割を見直す機会にもなった。 第21節・コンサドーレ札幌戦、ラウドルップはやっとチームに馴染んだと言えるゲームメイクをする。 実に3アシストを記録し、5-1と点取りゲームを演じるが、後期リーグ戦中盤を迎えたこの時期、得失点差で 東京ガス、本田技研と上位争いが勃発しはじめていた。 1996年9月15日、第5回JFL第21節 VSコンサドーレ札幌(神戸ユニバ)5-1 GKをかわす内藤選手。 9月22日、第22節・本田技研戦。台風が去った直後で行われた試合、浜松での負けられない一戦にヴィッセルは 1-4と完敗を喫してしまう。この大事な試合で翌97年にはベルマーレ平塚(現・湘南ベルマーレ)に移籍、 日本に帰化し、日本代表としてアジア最終予選にも出場する、ロペスにハットトリックを許してしまう。 この試合が後に優勝を逃す大きな原因にもなる――――。 余談だが、本田技研戦の翌日、プロ野球のオリックスブルーウェーブがパリーグ連覇を果たした。 本田技研戦の後、大分トリニティ(現・大分トリニータ)とヴォルティス徳島(元・大塚製薬FC、現・徳島ヴォルティス)に勝ち、 5月に完成したばかりで日本有数のサッカー専用スタジアム、鳥栖スタジアムに乗り込んだヴィッセルは またまたアウェーで完敗する。永島やジアードらには2、3人の執拗なガードにあい、攻撃陣は不発。 前節に本田技研に勝った鳥栖に勢いがあった。これで5敗目。J昇格圏外の3位に転落してしまう。 もうJ昇格には絶対に負けられない。 しかも、次節の相手は首位・東京ガス。これに負けてしまうと自力昇格はなくなってしまう。 ヴィッセルは今季最大の山場を迎える事になる。 1996年9月29日、第5回JFL第24節 VSヴォルティス徳島(姫路)3-2 守護神石末。 1996年10月3日、第5回JFL第25節 VS鳥栖フューチャーズ(鳥栖)0-3 ラウドルップのシュート。 10月6日、第26節・東京ガス戦。 バクスター監督は今季2回目となる『赤のラッキーブレザー』を着る。 このブレザーを着た試合では負けた事がない。 (1回目は6月30日・町田での東京ガス戦で使用。94年に広島が優勝した時も着ていた。) ジアードは累積で出場停止、ラウドルップもワールドカップ地域予選で再帰国。 MFに江川(元・名古屋グランパス、元・Lリーグ伊賀FCくノ一監督)と神野を投入。 59分、江川の放ったミドルシュートが相手DFに当たったこぼれ球をビッケルが押し込み、先制する。 この日が誕生日という自身をも祝う、勝利のバースデーゴールで1-0と勝利する。 東京ガスに辛勝し、その後デンソーに5-1、西濃運輸に7-0と順当に勝ち続けJ昇格圏内の2位をキープする。 10月20日、第29節。福島FC戦。2-1とラウドルップの2ゴールで勝利するものの、 J昇格の切符はまだ手に入らず混戦状態が続く――――。 1996年10月27日、第5回JFL最終節、第30節。 神戸は快晴。吸い込まれそうなほどの青い空が広がっていた。 そして、この最終戦で負ければ3位転落となる重要な一戦に、神戸ユニバに集まったサポーターは23783人。 この記録は旧JFL(1992年~1998年)での史上最高記録であり、 99年から始まった日本フットボールリーグ(新JFL)が始まるまで遂に破られる事は無かった。 対戦相手はNTT関東。ジアードの2ゴールで突き放すものの、前がかりになっているヴィッセルに対し、 NTT関東はカウンターでチャンスの場面を作り、後半29分に1点返されてしまう。 1996年10月27日、第5回JFL第30節 VSNTT関東(神戸ユニバ)3-1 ドリブル突破を試みるラウドルップ選手 終了間際の89分。GK石末と相手MFが一対一になる絶体絶命のピンチ。 幸い外れたから事なきを得たが、もし決まっていれば・・・・ しかし、その後の後半ロスタイム。 神野の右CKをファーにいた永島がヘッドでゴール前に折り返し、ジアードが左足でボレー! 3-1。ジアードはハットトリック達成。ゴールが決まったと同時に終了のホイッスル。 ハットトリックを決めた、チュニジア代表FWジアード選手。 3点目を決めたジアード選手を祝福するラウドルップ選手 ゴール裏から紙テープと紙ふぶきが舞う。メインスタンドからも。 2年越しの悲願が達成された瞬間でもあった。 「タイムアップ!この瞬間にヴィッセル神戸のJリーグ昇格が、確実になりました!」 JFL史上最高の2万4千人をのみ込んだ神戸ユニバー記念競技場。 NTT関東を3-1で下した瞬間、AM神戸・牛尾淳アナは力のかぎり絶叫した。 ジアードの3点目が決まった時の、歓喜に沸くゴール裏。 メインスタンドからも大量の歓喜の紙テープが投げられた。 このシーズン、FWジアードは25ゴールで得点ランキング2位、FW永島が17ゴールで5位に入る。 25勝5敗、勝ち点75、78得点、32失点。得失点差+46。最終順位2位。 初のJFL準優勝を飾る。 第22節の本田技研戦での失点が響き、僅差でJFL優勝を本田技研に譲った。 胴上げされるバクスター監督。この試合も赤いブレザーを着ていた。 場内を1周し、サポーターに応える選手達。 1996年・第5回JFL最終成績(上位6チームまで) --------------------------- 1位、本田技研・勝点75、25勝 5敗、83得点、35失点・得失点差+48 2位、V神戸 ・勝点75、25勝 5敗、78得点、32失点・得失点差+46 3位、東京ガス・勝点73、24勝 6敗、63得点、28失点・得失点差+35 4位、鳥栖F ・勝点62、20勝10敗、68得点、43失点・得失点差+25 5位、C札幌 ・勝点62、20勝10敗、60得点、43失点・得失点差+17 6位、B仙台 ・勝点56、18勝12敗、67得点、52失点・得失点差+15 11月27日、東京全日空ホテルで第5回JFL表彰式が行われた。 ヴィッセル神戸にJFL準優勝とフェアプレー奨励賞、GK石末にベストゴールキーパー賞とベストイレブン賞、 FW永島、MFビッケル、MF内藤、DF和田にベストイレブン賞、バクスター監督には最優秀監督賞をそれぞれ受賞する。 バクスター監督は日本語で「うれしいです。がんばります。神戸の市民に個人的なありがとうを言います」と挨拶。 JFLベストイレブンに石末、和田、ビッケル、永島、内藤の5選手が選ばれた。1996年11月27日、東京全日空ホテルにて。 リーグ2位に甘んじたものの、出場停止者はたった1名とバクスター監督が要求しJFLで培った「フェアプレーの精神」は 翌年97年シーズン終了後、Jリーグ初となるフェアプレー賞高円宮杯を受賞する。 しかし、それはまた別の物語として語るべきだろう。 1996年11月29日、ホテルオークラ神戸で開かれた「ヴィッセル神戸Jリーグ昇格記念パーティ」。 笹山幸俊神戸市長(当時)より神戸市スポーツ特別賞が送られた。 ・・・チーム誕生から2年足らず。阪神大震災など様々な苦難を乗り越えての『J昇格』。 この最終戦で、Jリーグ昇格条件である「2位」を確保。 11月19日のJリーグ臨時理事会で全会一致で承認される。 ガンバ大阪、セレッソ大阪、京都パープルサンガに続く、関西で4番目のJクラブにして、 日本サッカー発祥の地のプロサッカーチーム、白と黒のゼブラ軍団「ヴィッセル神戸」が1997年からJに参戦する。 1996年11月19日、川淵チェアマン(当時)から連絡をうける浜崎社長(当時)。 サポーター達はスペースシアターで選手らと祝った。 神戸ハーバーランドニューオータニにて。 新大陸「J」を目指す航海は終わった。 今度は「J」で新たな航海が始まる。 TURN THE COMPASS TO WIN! ~おわり~ |