|
カテゴリ:マンション・ライフ
70歳になった、今年も間もなく終わり。 ボチボチ終活の時期になった。 コロナ、ウクライナ紛争、統一教会、等々、色々あったけど、まあまあの年だったかなぁ。 これから何年生きられるか? 本人は100歳まで、生きてやるぞぉと意気込んじゃいるが、天命は神のみぞ知る。 さて、これまで幸せだっか? 「禍福は糾える縄の如し。」 幸せの量と、不幸の量は、ほぼ同じナンじゃなかろうか? 幸せばかりが、不幸ばかりが、続くわけじゃない。 幸せが続けば、その代償は神さんから求められる。 不幸が続けば、その分、神さんは幸福を下さる。 念のためですが、わたしゃ、怪しげな宗教家ではありません。 経験からです。 幸せが続いている時に、油断すれば、しんどい事が待っていた。 しんどい時に踏ん張れば、必ず、大切な人の「笑顔」に出会える。 幸せの形って? 人が100人いれば、100通りの幸せの形がある。 本人が幸せだと感じれば、その時が幸せ。 統一教会に寄付して「あぁ、シ・ア・ワ・セェェェ。」と感じる人に、そりゃ「不幸でっせ!」と申し上げても聞く耳を持たない。 昭和なら「幸せの形」ってのは、それほど多様じゃなかった。 親の考える「幸せ」を、子供も受け継いだ。 ところが親の考える「幸せ」が必ずしも、子供にとっちゃ、幸せであるとは限らない事は、「トーイツ」問題を観れば明らか。 残念ながら、親は生きてきた人生から幸せの定義してきた。 自分が不幸だったと感じる人ほど、次世代に幸せになって欲しいと、己が欲する幸せの形を押し付けてくる。 昭和世代が思いもよらなかった「幸せの形」をZ世代が求めたとする。 昭和世代は、まず「ハンタ~イ」する。 人は理解できないものを恐れ、恐れを抱かせる「それ」を峻拒する。 「今」を理解出来なくなった人を、年齢が若くとも他人の生き様を、受け入れられない人間を「老人」と呼ぶ。 理解しているふりをして、若ゾーに迎合するような、ジジィにはなりたかない。 でも、とりあえず、意見は傾聴する。 反対するジジィに負けちゃぁ、イケない。 ジジィに反対されて、へっこむ様な「考え」なら、大したこたぁない。 いじわるジジィ共は、反対される君を試している。 それでも、意見を通そうとするなら、意見の内容でなく、君の熱意に免じて、その「異見」を許容する。 認めたわけじゃない。 異見を実証して行く責任がある。 新たな幸せの形を求めるのなら、幸せになる必要がある。 ・・・・って、クドクドご託を並べちゃいるが、個人的な「異見」です。 個人的には、今までの、幸せのツケが回ってきたかなって思います。 欽ちゃんも「ダメなときほど運はたまる」と言ってます。 まぁ、今の状況がずっと続かないと己に言い聞かせながら、「ブログ」を書いてます。 残り、3日。 ガンバリマァァァァス! お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2022年12月28日 00時47分46秒
コメント(0) | コメントを書く |