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First of MAY

First of MAY

萬年筆物語

ジュニア用モンブランを私に下さった、寺西さんとの出会いは印象的だった。田舎で育った中学生にとって、外の世界を意識させてくれた存在になったと思う。年齢的にも両親と私の間に位置する世代という事で貴重な存在だった。

都会で生まれ育った寺西さんは、慶応ボーイで外資系の企業に勤めていたが、サラリーマン生活に嫌気がさし、あっさり辞めた。木工ミシンの製造をしている父の所に、なぜ来る事になったのか当時は知らなかったが、外資系サラリーマンだった彼が、油まみれの木工ミシン製造を長く続ける事はないだろう、というのが父の見解だった。

父が一度だけ寺西さんを我が家の夕食に招待した事があった、私にとって寺西さんの話はすべてにおいて魅力的に聞こえた、なんたって栃木弁じゃないし、中学生の私にもわかりやすかった。寺西さんは、こんな事をいっていた「自分は、自分になにができるか色々試してみたい、だから職業はこれからも何回か変えるかもしれない」と、当時周りでそう考えている大人が少なかったと思うので、面白い考えの人だと判断した。その頃の私は、大人というか両親や教師に少々不満を持ち始めていて、つまり反抗期だったわけだが、常識を超えた考えを持つ人を求めていたと思う。私が人生について一番色々考えていた時期だった、答えは見つからなくても多くの意見が必要だった。

新婚旅行はハワイが圧倒的に多かった時代に、寺西さんはドイツを選んだ。私と妹に色違いのモンブランとりんご型のチョコレートをお土産に。りんご型のチョコレートも、また私たちを喜ばせた。我が家にドイツの風が吹いた瞬間だったと思う(笑)
その後、輸入品を取り扱うお店で、このりんご型チョコレートを見かけると、必ず買ってしまうという習慣になった。

言葉通り寺西さんは、木工ミシン製造も数年で辞め料理人へと転職した。しかし、栃木を離れることはなかった。栃木の古い商店街の一角に、天ぷらのお店を構えもうどれくらい経つだろう。流行り廃りの多い飲食の世界で、しっかり定着している。たぶん、お店の常連客は、天ぷらに舌鼓を打ちながら寺西さんとの会話を楽しんでいるに違いない。

外の世界に憧れ、都会へ飛び出した私も6年半で地元に戻った。これからの自分に悩んでいた中学時代の私に、風をおくってくれた寺西さんもまた悩んでいたのだなぁ、と今なら思えるのだが、なぜだか楽しんでいるように見えた。そして、私も悩みながらも楽しむしかないと思っている。


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