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2006年01月16日
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カテゴリ:実家の母のこと
阪神大震災から明日でもう11年なんですね。
私は結婚するまで親元を離れて暮らしたのは、大学の四年間だけで、就職する時も実家から通えば、生活費も浮くしその分、金も貯まるし・・・ウヒヒなんて調子で、就職も実家に戻ってからしたので、本当に甘えん坊だったなぁなんて時々思うのですが、そんな私が、母親になって、いま思い出しても、胸が詰まることが幾つかあるのですが、大震災の日もそうでした。

私の実家は、関西から離れた場所で、滅多に地震はない土地ですが、父の転勤で子供の頃、何度か地震に遭遇したことはありましたが、あんなに大きな地震は記憶にはありません。

11年前の1月17日、私はちょうど仕事が休みで、確か、日曜出勤の代休もらってて、前の晩、友達で新年会と称して飲み歩いて、午前様の帰宅して、朝寝を決め込んでたんです。そこへ、母が、飛び込んできて、大声で、
近畿のほうで大きな地震があったらしい。よくわからないけど、高速の橋脚が倒れたり、火災が起きてるみたい

最初寝ぼけてた私は、近畿で大きな地震があるのと何が関係あるの?って呟いて、すぐに母の心配の矛先が何であるか思い出しました。

当時、弟は大阪在住、現在も勤務する会社で当時は本社勤務、そして姉は当時勤務してたのは本社勤務だったが、神戸の支店への出張で1月16日の朝から神戸に入って、17日夕方まで仕事して、夜、東京へ戻ろうと思ってるが、せっかくだから、17日の夜、弟と合流してご飯でも食べてから東京へ帰るのだ、と、15日の夕方、母に電話で話したばかりだって事を思いだした。

TVで見る神戸の市内は壊滅状態。

電話も繋がらない。せめて大阪の弟の会社でもと思うけど繋がらない。

メールよ、メール、姉ちゃんも弟もノートPC持って歩いてるはずだからメール送れば何とか返事と思うけど、返事も来ない。

東京の姉の会社の在籍する部署に電話したけど、まだ確認が取れない。宿泊してたホテルでは被害が出てない模様だが、三宮は近づける状況ではない様子だし、また神戸支店の電話も繋がらない、確認が取れ次第、大至急電話しますから、と、言ってはくださったが、思うように連絡の取れないことの歯がゆさ、腹立たしさで気持ちは焦るばかり。

そんな時、フッと母を見たら、びっくりするくらい、急に白髪が増えてて、いつもピシッと留めてる鬢もほつれて、顔はこれまた驚くほど、皺が増えてやつれた顔。

そう言えば、朝ごはん食べてなかったと思って、
「お母さん、朝ごはん食べたの?」って訊いたら、
父が
「食べようかって言いながら、TV点けたら地震のニュースで、それっきりなんだよ、お母さん、少しでも食べようや」
って声かけても、母は、
「私、いいから、あんた食べなさい、姉ちゃんもクウちゃん(弟のこと)も電話でもなんでもいいから連絡してくれればいいのにね、悪いけど、お汁自分で温めて、おかずも冷たくなってるからチンして食べて。」

母の横顔は、見るのも辛いくらい、何ともいえない横顔でした。
そうしてるうちに、兄から電話が来たり、当時元気だった祖母から電話が入ったり、大阪の弟から連絡があったのは、17日の昼過ぎでした。

「ごめんね、電話したかったけど、とにかく、会社のほうで色んな手配することでバタバタしてて、上司から実家に電話したかって言われてしてませんって言ったら、早く電話しないか、親御さん心配されれるぞって怒られちゃってねぇ」

あんたらしいよって少し笑ったけど、姉のほうからは連絡は入らないまま。

母は、昼過ぎ、突如、着替えて、出かけると言い出しました。
どこ行くの?って訊いたら、
このままここでジッとしててもラチあかないから、神戸行く、姉ちゃんね、動けないでいるかもしれないじゃない、お腹もすいてるはずだよ、迎え行ってあげなきゃ

ダメだって父と二人で抑えようとするけど、行くの、と言い張る。
新幹線だって停まってるし、飛行機もいつ飛ぶか判らないし、ダメって言うと、自分で運転して行く、から放せ、って、その時のすごいチカラ


そんなのを1時間ぐらいやって、母の着てたセーターなんて、袖がノビノビ状態、母は父に向かって、
「この人でなし親父、娘がこんな大変な時に行ってやる気持ちも持ち合わせてないのか、そうさ、あんたは私がお産する時だって一度もいなかった、子供達が麻疹の時だって、仕事、仕事でいなかった。だから姉ちゃんがこんなときに神戸に行ってるんだ・・・」と、エンエン泣き出す。

母は、かなりテンパッテタ状態に気持ちがなってたのだと思う。泣いてみたり、ぼんやり座り込んだり、姉の部屋に行って、姉の小さい時のアルバムを持ってきて、
「姉ちゃんはね、陽菜ちゃんと違って小さい頃はよく病気したの、すぐ熱出す子でね、だから水泳したり、ジョギングしたりして、体力つけたのよ、大きくなるに連れて病気はあまりしなくなったけど、時々怪我すると、骨折ったりとかね、生傷たえない陽菜ちゃんとは対照的でね、大きな怪我する子だったのよ・・・」
そんな話をしてたかと思うと、また泣いて迎えに行くと言ったり。

17日の夕方、16時近くでしたね、姉の会社の上司から電話が入ったのは。
「遅くなってすみません、神戸支店の支店長が、宝塚に住んでて、さきほどホテルで娘さんと合流し、本日中に何とか大阪へ移動するとのことです。今夜はたぶん、本人の疲労の度合いもかなりの状態のようですので、大阪の方で一泊して、明日、本社へ戻ってもらって、近いうち一度、ご帰郷させますから。親御さんもご心配でしたね。お怪我もないみたいです。ただ精神的にお疲れとのことです。」

その連絡の入った時のホッとしたなんてものじゃない。
そうなったら、今度は、母、
「なんで携帯から電話してこんのよ」

「あのさ、お母さん、朝からずっとTVで言ってるでしょ。繋がりにくくなってます、って、だから差し控えてくださいって言ってるでしょ」って言うけど
「ちょっと一言、大丈夫よって電話したっていいでしょうに」ってブツブツ言いながら、でも、泣き笑いの顔でした。

姉から直接電話入ったのは、17日の22時頃でしたね。いま、大阪のホテルにはいったところって。公衆電話も、列出来てるから、って、すぐ切れたけど。

姉から電話があってから、母はやっとご飯食べてくれたんですよ。そして、
「明日、東京に行って来るから。朝一番で行くから」って言うんで
「何しに行くの?」って訊いたら
「姉ちゃんの顔見に行く、まともに連絡もしないで」
結局、行きましたけどね。

その年の3月には、地下鉄サリン事件があって、姉の会社は、丸の内。
朝の出勤時間にあの事件で、最初、ニュース速報で
「地下鉄日比谷線でゲリラ事件発生」みたいなテロップが出て、
あの日も私は仕事が休みで、少し遅い朝食食べてて、母とTV見ながら
「いやぁね、地下鉄でゲリラだって。怖いねぇ」
「姉ちゃんの会社は丸の内だよね、、日比谷って、音楽堂のあるところだよね、あの噴水のある公園のところだよねぇ」てな会話を交わしてた。

東京の地下鉄をよく知らない私と母は、へぇってな調子で見てた。

父はその時、犬の散歩に出かけてて、帰ってきた父に話したら、
「そりゃ姉ちゃん使って通勤しとるがなぁ」
「でも姉ちゃんの会社って丸の内でしょ?」
この時点ではまだ暢気な私、しかし、母はすでに顔色が無く真っ青

父は、時刻表の線路図のような地図を持ってきて、ここが姉ちゃんの住む独身寮、ここから何線に乗って、乗り換えて、日比谷線に乗って・・・

仕事中だろうが、なんて言ってられない、姉の勤務先に電話した。
すると、姉は、月曜日の「早朝営業会議」に出席してた。月曜日は、早朝会議があるんで、いつもよりずっと早く家を出て、6時前から会社で会議に備えるんだと。

母の白髪はまた一気に増えてた。

でも、今、思い出してみても、母親だからなんだなって思うんです。
もし、娘が、そんな状態になったと重ねてみれば、なっては欲しくないけど、あの時の母の気持ちが判るような気がします。

母の白髪って、大きくなっても子供を思う母の気持ちの表れなのかもと思い、今更ながら、母に感謝してます。





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最終更新日  2006年01月17日 01時05分20秒
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