東京今昔物語 (写真の世界 http://wakowphoto.world.coocan.jp/ より)
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東京の街は、江戸の伝統を受け継ぎ、明治の革新、大正と昭和の破壊と復興、平成の発展と続いています。今も激しく変貌する東京の街並みを観察して、写真でご紹介します。
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写真1 写真2 写真3 台東区と荒川区の境界の近くに、今は町名は消えましたが、山谷(さんや)と言う場所があります。最近まで、日雇い労働者が屯(たむ)ろして時々騒動を起こす場所として知られていました。 と言いますのも、荒川区、台東区、墨田区などの町工場や土木現場では、人手不足のとき、山谷に集まる労働者を臨時に雇い使いました。彼らは今で言う非正規雇用者よりも弱い立場でしたから仕事にあぶれることも屡々ありました。そのような時、彼らは山谷の簡易宿泊所でやけ酒を飲んで時々騒動をおこしたからです。 彼らが泊る簡易宿泊所が建ち並ぶ街を、人は山谷のドヤ街と呼びました。しかし、最近、そのドヤ街が外国人旅行者向けの安宿として変身しつつあるのです。 リュックサックを背負い、安い旅費で個人旅行を楽しむ外国の若者たち(彼らをバックパッカー(backpacker)と言います)が、先ず目を付けたのが旧式の日本式旅館でした。 安宿で日本的ムードを味わいたい、畳の部屋に寝て銭湯に入れる旅館に人気が集まりました。本郷の裏手にある、嘗て大学受験生が泊った日本式の宿屋がある通路を歩きますと、大きなリュックサックを背負った青い目のバックパッカー達がうろついています。 そのバックパッカーが、尚安い宿を求めて山谷に出没し始めました。彼ら外国からの旅行者には、山谷の古いイメージはありません。山谷は、世界のバックパッカー達が東京に来たとき、宿泊する宿として脚光を浴びているのです。 そのような需要に応じて、山谷の簡易宿泊所も小綺麗に変身しています。更には、外国人バックパッカーを目当てに、高層のホテルのような宿泊施設も建設されています。(写真1、2、3) バックパッカーが利用する旅館は、泪橋交差点付近に集中しています。泪橋は明治通りと吉野通りが交差するところです。今はその名前の橋はありませんが、昔は明治通りは思川という川でして、泪橋はその上に架かっていた橋だったそうです。その橋の上で小塚原で処刑される罪人と、送ってきた親族友人が涙して別れを告げた場所でした。 江戸時代、山谷の付近には、遊郭の吉原があり、遊女たちの投込み寺があり、処刑所の小塚原がありました。そのような土地柄から、明治以降も長いこと発展から見放された地域でした。まさか戦後の長い間、ドヤ街と言われた街が、外国人旅行者の宿泊する街に変身するとは思いませんでした。 (以上)