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東京今昔物語  (写真の世界 http://wakowphoto.world.coocan.jp/ より)

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2014.06.18
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江戸通りが神田川を渡る橋を浅草橋と言いますが、その袂に浅草見付跡の碑が建っています。江戸時代ここには浅草御門が築かれて府内への出入れを監視する浅草見付が置かれていたところです。(写真1)
  • 1.浅草見附跡-02D 1401q.jpg
  • 写真1 浅草見付跡の碑石

    東京の代表的な下町は何処かと問うと、多くの人は浅草を挙げますが、江戸の伝統的下町は府内の神田、日本橋であって、浅草は江戸時代には下町ではなく江戸の郊外だったのです。しかし、江戸の街が膨張すると町人たちは府外である神田川以北にも住むようになります。

    明暦の大火(1657年)は外濠の内側全域を焼き払ったと言われます。そのため内濠内の大名屋敷は外濠内に移転し、外濠内の町人たちは府外へ移転する契機となりました。そのとき下町にあった多くの寺院が浅草通り周辺に移転して、大きな新しい寺町が誕生しましたが、そこがこの上野と浅草の間でした。

    現在では東側の国際通りと西側の昭和通りに挟まれたこの地域は、広大な寺町を形成しており、その寺町を背景として浅草通りには全国でも珍しい大きな仏神具問屋街があります。こうして神田川以北に誕生した江戸の町人の街は、東に浅草寺があり、西に上野の寛永寺が控えており、真ん中に本山東本願寺が鎮座する構図の下町なのです。そして観光案内用に作成された寺院・名所旧跡散策マップによれば、浅草全体では152の寺院があり、その大半はこの地域に集中しています。(写真2)
    2.浅草通り:仏神具問屋街-08D 1405qr.jpg
  • 写真2 浅草通りの仏神具問屋街

    大抵の地方都市は昔は城下町であり、その郊外には時々寺院を集めた寺町がありますが、城の外縁に寺を配置したのは戦いのときに守りの施設としたからです。しかし、この江戸の寺町は、そのようなものではなく、町民たちの宗教生活の場でした。江戸の府内の土地は、武士階級が70%を、残り30%を寺社と町民で半々に分けて使っていたそうですから、それだけ寺院の存在は大きく、かつ、町民の生活に密着していたのです。

    ここで幾つか由緒ある寺院をご紹介しましょう。
    先ず中央に鎮座する本山東本願寺は、京都の東本願寺(真宗大谷派)が神田に京都の別院として江戸御坊光瑞寺を建立(1651年)したのが始まりです。明暦の大火で消失して神田から浅草に移転し、当初浅草本願寺と称していましたが、戦後は東京本願寺と称し、現在は京都の東本願寺から独立して、全国にある同じ系統の寺の本山となりました。
    (写真3)
    3.本山東本願寺-04D 1302qt.jpg
  • 写真3 本山東本願寺

    現在の本堂は震災と戦災で焼失してコンクリート造りの平凡な屋根となっていますが、葛飾北斎が「富嶽三十六景」の一枚として描いた当時の「東都浅草本願寺」では、遠景の富士山と対となった本堂の屋根には、豪華絢爛たる屋根瓦が載っています。江戸時代には浅草御坊として多くの参拝者に親しまれた寺だったのです。(写真4)
    4.本山東本願寺-10D 1405q.jpg
  • 写真4 「浅草東本願寺」という昔の名前が今でも残る石碑

    その他の由緒ある寺としては、台東区松が谷にある源空寺、報恩寺、曹源寺です。源空時には侠客の元祖と言われる幡随院長兵衛と江戸後期の日本画家、谷文晁の墓があります。報恩寺には幕府の御用釜師、堀浄甫が製作した銅鐘があります。堀浄甫は日光東照宮、上野東照宮の銅灯籠を製作しています。曹源寺は別称かっぱ寺と言われ、合羽橋道具街通りの排水工事を手伝った河童を河童大明神として祭っています。(写真5、6,7)
    5.松が谷:源空寺-01D 1405qt.jpg
  • 写真5 源空時の境内

    6.松が谷:報恩寺-04D 1405qt.jpg
  • 写真6 報恩寺の銅鐘

    7.松が谷:曹源寺(かっぱ寺)-05D 1405qt.jpg
  • 写真7 曹源寺境内にある河童大明神の社

    これらの寺院ほど立派でありませんが、江戸時代の有名な文化人が眠る寺と言うことで参拝者が絶えない寺があります。一つは元浅草にある誓教寺でして、ここには風景画の浮世絵師、葛飾北斎が眠る墓があります。もう一つは蔵前にある龍宝寺でして、ここには江戸川柳の開祖、柄井川柳が眠る墓があります。お寺さんに声を掛けて、本堂の裏手にあるお墓に参拝することができます。(写真8、9)
    8.元浅草:誓教寺:葛飾北斎の墓-01D 0804qt.jpg
  • 写真8 誓教寺にある葛飾北斎の墓

    9.蔵前:龍宝寺-05D 1405q.jpg
  • 写真9 龍宝寺にある柄井川柳の墓

    武士社会であった江戸時代、浮世絵とか俳句・川柳は町人たちの遊び事として低く見られていましたが、人間の喜怒哀楽を映像や言葉で巧みに表現する藝術として、近世のヨーロッパで高く評価されました。浮世絵は印象派絵画に大きな影響を与えましたし、俳句と川柳はアメリカのイマジスト詩人エズラ・パウンドなどの詩に大きな影響を与えたと言います。

    世界的にも認められた高いレベルの江戸文化の舞台は、神田川以北のこの寺町辺りであったり、或いは隅田川以東の本所、深川でした。
    (以上)





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Last updated  2014.06.18 23:24:43
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Re:上野と浅草の間 寺町としての下町(06/18)   tommy さん
はじめまして。tommyと申します。よろしくお願いいたします。
このあたり、注意深く散歩すると、街のさまざまな顔が見えて楽しいところですよね(場所によっては少々治安がおっかないところがありますが)
なのですが、歴史的にいうと、寛文年間に形作られた上野・浅草間の寺町は、幕府当局としては江戸府域の「新しい防衛線の構築」であって、地方城下町のそれと全く同じ機能のものだと思うのです。「市域拡張に伴う、江戸の北東側の防衛線の再構成」です。この主たる相手(仮想敵国)は、ずばり仙台の伊達氏でしょう。仙台藩はこの時期いわゆる「伊達騒動」に揺れているのですが、このお家騒動に江戸幕府の幕閣が蠢動しており、一枚噛むどころか明白に介入して仙台藩の弱体化を狙っていたことは、通説と言ってもよいだろうと思います。飢饉で弱った幕末にはいいところなしの仙台藩ですが、この時代、まだ奥州の大藩は潜在的な脅威だったのです。
江戸の都市構造は、基本的には地方の城下町と全く同じです。ただ一つ異なるのは、地方城下町にやってくるのは、その地方諸侯の家臣だけであるのに対し、17世紀初頭から1862年(文久の改革)までの間、徳川家臣たる譜代旗本のみならず、親藩家門に外様諸侯まで定期的にやってくる「実質的な政治首都」だったことだけです。 (2015.02.10 23:16:16)


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