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江戸通りが神田川を渡る橋を浅草橋と言いますが、その袂に浅草見付跡の碑が建っています。江戸時代ここには浅草御門が築かれて府内への出入れを監視する浅草見付が置かれていたところです。(写真1)
武士社会であった江戸時代、浮世絵とか俳句・川柳は町人たちの遊び事として低く見られていましたが、人間の喜怒哀楽を映像や言葉で巧みに表現する藝術として、近世のヨーロッパで高く評価されました。浮世絵は印象派絵画に大きな影響を与えましたし、俳句と川柳はアメリカのイマジスト詩人エズラ・パウンドなどの詩に大きな影響を与えたと言います。 世界的にも認められた高いレベルの江戸文化の舞台は、神田川以北のこの寺町辺りであったり、或いは隅田川以東の本所、深川でした。 (以上) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
はじめまして。tommyと申します。よろしくお願いいたします。
このあたり、注意深く散歩すると、街のさまざまな顔が見えて楽しいところですよね(場所によっては少々治安がおっかないところがありますが) なのですが、歴史的にいうと、寛文年間に形作られた上野・浅草間の寺町は、幕府当局としては江戸府域の「新しい防衛線の構築」であって、地方城下町のそれと全く同じ機能のものだと思うのです。「市域拡張に伴う、江戸の北東側の防衛線の再構成」です。この主たる相手(仮想敵国)は、ずばり仙台の伊達氏でしょう。仙台藩はこの時期いわゆる「伊達騒動」に揺れているのですが、このお家騒動に江戸幕府の幕閣が蠢動しており、一枚噛むどころか明白に介入して仙台藩の弱体化を狙っていたことは、通説と言ってもよいだろうと思います。飢饉で弱った幕末にはいいところなしの仙台藩ですが、この時代、まだ奥州の大藩は潜在的な脅威だったのです。 江戸の都市構造は、基本的には地方の城下町と全く同じです。ただ一つ異なるのは、地方城下町にやってくるのは、その地方諸侯の家臣だけであるのに対し、17世紀初頭から1862年(文久の改革)までの間、徳川家臣たる譜代旗本のみならず、親藩家門に外様諸侯まで定期的にやってくる「実質的な政治首都」だったことだけです。 (2015.02.10 23:16:16) |