オリパラが終わって・・・
東京2020 オリンピック、パラリンピックが終わった。はじまりのソフトボールと 最後のボッチャぐらいしかリアルタイムで観戦できなかったけど、どちらもその桁違いのテクニックとチームワークのすばらしさに感動した。ソフトボールは、自分自身がソフトボーラーだから 思い入れが強い。ルールもわかるし、それぞれのポジションの役割も、そのときどきの緊張も気持ちも 一球一球のドラマも、ストレートに ズズズズズドーーーーーーーンと 伝わってくる。手に汗握るとは こういうことだ。ボッチャは はじめてみた。「スギムライジング」 マスコミは なかなかのいいネーミングをつけたなと思った。耳に残ってしまった。にしても、数ミリ単位の絶妙なコントロールでボールを操る選手たちがすごすぎる。ボッチャは、青と赤の持ち球を投げ、目標球(ジャックボール)に近づけたほうが勝つ、いたってシンプルなスポーツだ。誰が見ても、勝ち負けの白黒がはっきりしてるシンプルさ。それがわかりやすいから 見てられる。難しくないから 誰が見ても楽しめる。でも、そのシンプルさの中に 奥深さがあるスポーツだなと感じた。すっごいシンプルに見えながら、幾通りもの球筋をコントロールして戦略を練る緻密なスポーツだと思った。「ライジング」ボール。これまたすごい。密集した球にせり上がるように乗せて目標球に近づける。シンプルながらも さまざまな技がある。スッレスレの球筋にハラハラドキドキもした。団体戦最後、銅メダルを確定した後の未投球者への粋な計らいによる投球にも感動した。こういう粋な計らいって 他の競技には なかなかないことだなと思った。結構面白い。見ていても面白いだろうし、やってみたら きっと もっと面白いと思う。これだったら、障害者の方、健常者の方、関係なく楽しめると思う。4年に一度のオリンピックで思うこと。まずはじめに オリンピックが盛大に行われる。続いて、なんとなく少しトーンダウンした雰囲気でパラリンピックが行われる。なんでいっしょにしないんだろうと思う。なんで健常者競技が先で、障碍者競技が後なんだろうと思う。なんでオリンピックのほうが華やかに開催されて、パラリンピックは 少し暗い印象を受けるのだろうと思う。健常者と障碍者がいっしょにできる競技はないものかと思う。いっしょに競える競技を なぜ開催しないのだろうと思う。それこそ、ボッチャのように、オリパラ関係なく、その壁を越えて 競えるスポーツがあってもいいのにと思う。障碍者に対して、どうしても偏見の目がある。それは、わたしたち社会が そうさせているんだと思う。オリンピックとパラリンピックをはっきりと区別していることもそのひとつ。パラリンピックを見ていて思った。パラは、お互いの違いを認め合う競技だなって。小さいころから、障害者という枠が社会の隅っこにあり、その人たちと接したこともなく育つ。健常者の社会と 障碍者の社会が区別されてる。だから、大人になっても障害のある人たちと どう接していいのか分からないまま大きくなる。どう接していいのか分からないから、少し抵抗感を持ってしまう。そして、こうしたパラリンピックのようなときだけ、障碍者の方たちがいっとき注目される。障害を持ちながらも こんなにすごいんです!。。。。。って。こう思う。お天気キャスターが 義足のおねえさんであってもいいのにって。超きれいな スタイルのいいおねえさんじゃないとダメなのかなって。原稿を読むニュースキャスターが 車いすのお兄さんであってもいいのにって。そこそこかっこよくてスーツが似合う 完璧に原稿読みこなせるお兄さんじゃないとダメなのかなって。コメンテーターに 視覚障碍者の人が いちゃいけないのかなって。言葉を選び、毒を吐かない 万人受けする芸能人じゃないとダメなのかなって。中継レポーターを 片腕の人がやっちゃダメなのかなって。1分きっちりに原稿を読み切ることができる人じゃないとダメなのかなって。もっと社会の中に障碍者の人たちがごく自然と混じってて、それを幼いころから 普通の光景として見て育つことができたら、もっと違った見方ができるだろうにと思う。社会の中に 普通に打ち解けていたらそれが普通のこととして とらえることができたらそれが当たり前のこととして育つ環境だったらきっと もっと抵抗なく接することができるのにと思う。祭典のときだけいくら障碍者の方の特集を報道しても そのときだけのものに終わってしまうような。