テーマ:ホントにそうかな?(2)
カテゴリ:随筆系
私たちが子供のころは、
「こんにちは」は○で 「こんにちわ」は×だった。 授業でもきっちり教わったし 「こんにちわ」と書いてる文を(見ることさえ以前はなかったけど) 万に一くらいで見かけると書いた人を頭悪いのではと思ったりした頃もあった。 私たちの世代の殆どは、そのくらい小学校からずううっと誰もが常識的に 「こんにちは」を書き文字に使ってた時代を生きてきた。 しかし、10年ほど前になるが けっこういい大学でてる30代後半の上司が「こんにちわ」と 書いてるのを見かけてからずっと言葉の変換を感じてきた。 他ならぬ尊敬するその人が書いたのを見てから それは「間違い」ではなく「時代の推移」ではと感じはじめた。 最近ではネットをはじめいろんなところで 「こんにちわ」を見かけるようになった。 調べると、今は学校でも 「こんにちは」は○で 「こんにちわ」も○だという。 どちらもOKらしい。驚いた。 歴史は動いてる。口語から文語に変わってきたように かなも読みそのものに変わってきている。 文語は書き言葉。 口語は話し言葉。 近年、短歌や詩の世界も文語から口語へと移り変わってきた。 今では当たり前のような口語自由詩。 だけど、萩原朔太郎が最初に口語で詩を作ったとも言われるように 国語では「口語自由詩」と分類があるし昔は珍しかった時代があったみたい。 短歌も口語で作って評価されるというのも 今では地位を得てる感じだが それは俵万智の短歌「サラダ記念日」くらいからではなかったかと感じる。 文語は歴史的に見ても徐々に口語に集約されてきている。 仮名遣いも然りだ。 旧かなづかい→ 新かなづかい 発音 いう、いふ、ゆふ→ ゆう ユウ さう、さふ→ そう ソオ だう、だふ→ どう ドオ きやう、けう、けふ→ きょう キョオ 「旧かなづかい」は、「新かなづかい」に変換した。 しかし、未だに「新かなづかい」でさえ「発音」と違ってる。 きっと国際化の必然や、教育の問題からして 日本語は最終的には「発音」がそのまんま=かなづかい となる時代に向けて緩やかに流れて行ってるように思う。 正しいは時代で変わるもの 言葉の歴史一つ見てもそう。 最近は、間違いだと思っても、法則に変換の可能性のある間違いには 間違いと思うより、「ほう、確かにそう変わっていくかもなあ」と そう心で思うようにしてる。 そういう時代の流れを感じるのは言葉ひとつとっても楽しい。 移り行く歴史の中に生きてるのだと感じさせてくれる。 年取る醍醐味でさえあるように思う。 ひとつひとつの知識の事実に左右されずに、それで決め付けずに 流れを見てそこに見えてくる事実でなるべく変化は享受しなくては 単なる頑固者の昔の人間になってしまう。 辞書が変わるのは最後、辞書が実際的に正しいわけでもない。 ・・・と言いながら 分かってはいるけど自分が書くとしたら 「こんにちは」としか書けない世代の私でありまする。。。 受け入れても自分が率先して変わる気はないらしい。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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