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わさびくま日記

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路線レポート・鉄道その他

2021.02.16
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「その4」に引き続き、「その5」では昭和戦前期の車両を掲載します。





40系「クモハ40074」です。40系は鉄道省初の20m級車体を持つ鋼製電車として、昭和7年(1932年)から製造が開始されました。当初は片町線(現在の愛称は学研都市線)と城東線(現在の大阪環状線の一部)の電化に伴って関西地区で運用開始され、遅れて首都圏の京浜線(のちの京浜東北線)で運用開始されました。現代の電車にも通じる3ドア・ロングシートといった通勤路線向けの設備をもち、首都圏と関西圏の輸送事情の改善に大きく貢献しました。

鉄道博物館に展示されているクモハ40074は昭和11年(1936年)に川崎車輌(現・川崎重工業車両カンパニー)で製造され、中央線などで使用されました。昭和54年(1979年)には国府津電車区(のちの国府津車両センター)の開設に伴って、同じ系列のクモハ40054とともに職員輸送車や牽引車として使用されました。JR発足後はイベント列車などにも使用されましたが、平成18年(2006年)に廃車され鉄道博物館に保存されることになりました。

ちなみに、国府津電車区で職員輸送車として使用されたクモハ40054は、廃車後に東京都青梅市の「青梅鉄道公園」に保存されています。





車内はロングシートとなっており、吊革やポール(握り棒)が設置され大量輸送に適した構造となっています。床や窓枠は木製で、温かみがありあすね。





前面の運転室付近です。現代の電車のように全室が運転室ではなく、半室のみが運転室となる構造でした。そのため乗務員扉付近まで座席が設置されています。





キハ41300形「キハ41307」です。国鉄の非電化路線向けには、昭和初期からガソリンエンジンを搭載した気動車が導入され始めていました。このキハ41300形も、当初はガソリンエンジンを搭載していました。キハ41307は昭和9年(1934年)に川崎車輌(現・川崎重工業車両カンパニー)で製造された車両です。戦後にはディーゼルエンジンに換装され、小海線など非電化路線で活躍しました。昭和32年(1957年)には形式称号の変更に伴って「キハ04 8」に改番されました。





キハ04に改番された1年後の昭和33年(1958年)には遠州鉄道に譲渡されました。遠州鉄道では非電化路線の国鉄二俣線(現・天竜浜名湖鉄道)に直通するための気動車が必要となったため、国鉄からキハ04の払い下げを受けました。二俣線乗り入れが終了すると、北陸鉄道→関東鉄道と移籍を繰り返し、昭和60年(1985年)まで筑波線(現在廃止)で活躍しました。

廃車後は鉄道愛好家たちの手で整備が進められ、茨城県つくば市の「さくら交通公園」に昭和62年(1987年)より保存されました。保存後も定期的な修繕などが行われていましたが、平成19年(2007年)に東日本鉄道文化財団に寄贈されました。その後はキハ41307時代への復元が進められ、同年より鉄道博物館で展示されています。

車内の写真は人が多く撮影していませんが、当時キハ41307が活躍していた小海線の映像が車窓に映し出されていました。





車外の製造銘板です。「昭和9年 川崎車輌 製造」と表記されています。






Last updated  2021.02.16 21:12:59


2021.01.30
「その4」では昭和戦前期の車両を掲載していきます。





「マイテ39 11」です。マイテ39は、昭和5年(1930年)に特急「富士」用の展望車として製造されたスイテ37010→スイテ39を戦後に改造した車両で、昭和24年(1949年)より特急「へいわ」用の展望車として活躍しました。製造は鉄道省大井工場(現在のJR東日本東京総合車両センター)が担当しました。

展望車は主に特急編成の最後尾に連結され、乗客が景色を楽しめるよう車端部に開放式のデッキを備えている客車です。乗客が運行中にデッキに出るといったことは少なく、始発駅で見送る客に手を振って応えるといった利用が多かったようです。また「イ」の記号が示すように当時最高級の一等車であり、富裕層や外国人観光客に利用されたといわれています。





車端部の展望デッキ部分です。デッキ部分には「富士」のテールマークが掲げられています。また窓は非常に大型のものが取り付けられています。







マイテ39 11の大きな特徴といえるのが、「桃山式」と呼ばれる和風の豪華な内装です。日本の伝統的な建築様式を鉄道車両に取り入れた桃山式の内装は、当時の鉄道省が外国人観光客を誘致しようと努めていたことが反映されたもので、実際に外国人からは非常に好評だったようです。

しかし、戦後になると「霊柩車のようだ」などと言われるなど次第に人気に陰りが出てきたため予備車となり運用から外れてしまいました。1963年からは東京都青梅市にある青梅鉄道公園に保存されました。しかし屋外展示だったため状態が悪くなり、かつて製造を担当した大井工場に引き取られたあと可能な限りの修復をおこなって鉄道博物館に展示されています。





車番表記です。「東シナ」はかつて所属していた品川客車区(のちの品川運転所)の略称です。





続いては「オハ31 26」です。オハ31形は鉄道省初の鋼製車体を持つ客車として、昭和2年(1927年)から製造されました。

この時期は鉄道車両の車体材質が木製から鋼製へと移り変わっていく時期で、国内でも全鋼製車体を採用した電車などが私鉄を中心に導入され始めていました。また、木造車体では事故時に安全性が保てないといった問題もあり、鉄道省でも鋼製車体の客車を製造することとなりました。

オハ31形は当初は「オハ44400」と称し、「オハ32000→オハ31」という改番を経ています。主に急行列車や普通列車に使用された三等座席車です。







車内は木材を多用したクロスシートが並んでいます。背の部分にはモケットが貼られていないのも特徴的です。





網棚と日よけ用の鎧戸です。かつての鉄道車両はカーテンなどはなく、日よけには鎧戸を用いていました。現在はあまり見ることができなくなっていますが、阪急電鉄など一部私鉄では現在も鎧戸が使用されています。





このオハ31 26は国鉄での廃車後に津軽鉄道に譲渡されており、「ストーブ列車」として運用されていたため車内にはダルマストーブも残されています。






Last updated  2021.01.30 12:30:05
2021.01.21
「その3」では大正時代の車両を掲載していきます。





1913年(大正2年)から中央線・山手線などの電化区間で活躍した「ナデ6141」です。先述した「デ968号→ハニフ1」が活躍していた中央線では利用者の増加によって車両も大型のものが要求されるようになり、当時の鉄道院は独自設計の電車として「ホデ1→ホデ6100→デハ6250」を登場させました。これは16メートル級の木造車体を持つ電車で、デ968などよりも大型の車体を採用していたため一度に多くの旅客を運べるようになりました。

ここに展示されている「ナデ6141」は、16メートル級車両の増備の過程で大正2年(1913年)に登場しました。両運転台で、片側に3つの扉を備えています。製造は鉄道院新橋工場(のちの大井工場→現在のJR東日本東京総合車両センター)が担当しました。





ナデ6141の車内です。木造車なのでニス塗りとなっており、重厚感があります。天井は二層式(ダブルルーフ)となっており、座席はオールロングシートです。

この車両は鉄道院から目黒蒲田電鉄(現在の東急電鉄)に譲渡され、さらに鶴見臨港鉄道(現在の鶴見線)→日立電鉄と譲渡されました。国鉄が昭和47年(1972年)の鉄道100周年を記念して日立電鉄から引き取り、製造元の後身である大井工場で復元したうえで展示されています。





電気機関車ED40 10号です。1919年(大正8年)に登場した国産初の電気機関車で、鉄道院大宮工場(現在のJR東日本大宮総合車両センター)で製造されました。

この機関車は信越本線横川~軽井沢間(1997年廃止)のアプト式(線路の真ん中に凹凸のあるラックレールを敷き、車両の下部に設置された歯車と嚙み合わせることで急勾配を登る方式)区間専用に導入されたもので、箱型の車体を持つ独特なスタイルが特徴的です。

碓氷峠での運用終了後に東武鉄道に譲渡され、同社の日光軌道線(1968年廃止)で貨物列車を牽引していました。日光軌道線の廃止後に国鉄に譲渡され、製造を担当した大宮工場で保存されたのちに鉄道博物館での展示が決まりました。





電気機関車ED17 1号です。1923年(大正12年)にイギリスから輸入した機関車(製造元はイングリッシュ・エレクトリック・カンパニー)で、東海道本線電化の際に導入され、主に旅客列車の牽引に使用されました。東海道本線時代は「1040形→ED50形」でしたが、中央本線への転属に合わせて改造が行われ、「ED17形」に変更されました。

中央本線で活躍した後は身延線などに移り、廃車後は山梨県甲府市の舞鶴城公園に展示されていたものをJR東日本が引き取り、鉄道博物館で展示されることになりました。






Last updated  2021.01.21 20:14:45
2021.01.16
「その1」に引き続き、明治期の車両を掲載していきます。





「1290形1292号機関車」です。この機関車は1881年(明治13年)製で、主に鉄道建設工事や入換用として活躍しました。展示されている1292号は東北本線などを開業させた日本鉄道が工事用に導入したもので、「善光号」の愛称で知られています。

この機関車は日本鉄道から鉄道院に引き継がれ、後に東武野田線の前身である千葉県営鉄道野田線で資材輸送用などとして活躍しました。「善光号」の知名度があったことから、廃車後に保存されることとなり、1942年(昭和17年)に東京・神田の交通博物館に移され、2007年からは鉄道博物館で展示されています。





「ハニフ1」形です。この車両は、現在の中央本線の一部を開業させた「甲武鉄道」【1906年(明治39年)国有化】が1904年(明治37年)の電化(飯田町~中野間)に合わせて製造した、「デ968形」という電車を改造したものです。

甲武鉄道は都市内の路面電車的な電車とは一線を画す、都市と郊外を結ぶ通勤電車的な電車を日本で初めて運行し、「郊外から都市への電車による通勤」というスタイルを確立させたことで知られ、「国電の始祖」ともいわれています。

デ968など甲武鉄道時代の電車は、国有化後にさらに大型の車両を導入したことで余剰となり、各地方の私鉄などに譲渡されていきました。この車両は現在の大糸線を開業させた信濃鉄道(現在の「しなの鉄道」とは別会社)に譲渡され、さらに現在のアルピコ交通上高地線(松本電鉄線)を開業させた筑摩鉄道に譲渡されました。筑摩鉄道時代に荷物室を設ける改造を受け、「ハニフ1」に形式を変更しています。

筑摩鉄道→松本電鉄では、廃車後も長らく保存されていましたが、国電の始祖としての価値を認められ、晴れて鉄道博物館入りすることができました。この車両は復元が困難なことから、現在は筑摩鉄道時代のまま展示されています。






Last updated  2021.01.16 15:20:05
2021.01.09
2020年1月に、大宮の「鉄道博物館」に行った際に撮影した保存車両の写真を掲載していきます。私としては10数年ぶりの鉄道博物館で様々な見どころがありすべてを回り切れていないため、注目する車両を中心に掲載していくことにします。





まず掲載するのは、日本初の鉄道開業時に使用された記念すべき車両となる「1号機関車」です。1872年(明治5年)の新橋(のちの汐留駅で、現在の新橋駅とは別)~横浜(現在の桜木町駅で、現在の横浜駅は1915年開業)間の開業に際してイギリスから輸入された蒸気機関車で、1871年にバルカン・ファウンドリー社で製造されました。鉄道開業後は客車や貨車を牽引して人々の注目を集め、後に関西地区などでも入換用などとして活躍していました。

1909年には「150形」という形式名が付され、その後の1911年には長崎県の島原鉄道に譲渡され、同線の開業時から活躍しました。日本の鉄道開業時に導入された貴重な車両であることから保存の機運が高まり、1930年には島原鉄道から国鉄に譲渡、1936年からは神田に存在した「交通博物館」の展示物となりました。戦災もくぐり抜け、2007年からは大宮の鉄道博物館で展示されています。





こちらは「7101号機関車(弁慶)」です。北海道最初の鉄道(官営幌内鉄道…現在の函館本線など)開業時にアメリカから輸入された機関車で、アメリカ製の古典機関車らしい外観を持っています。1880年ポーター社製で、開業時に最初に導入された機関車のうちの1両となっています。北海道で活躍し、1940年に交通博物館の展示物となり、2007年から鉄道博物館で展示されています。





「弁慶」の後ろに連結されている「開拓使号客車」です。こちらも1880年に官営幌内鉄道がアメリカから輸入した車両のひとつで、主に開拓使などの要人輸送や明治天皇のお召し列車として使用された実績があります。車内は転換式のクロスシートを備え、トイレやストーブが設置されるなど、当時最先端の客車でした。

1923年には保存のために東京・大井工場(現・東京総合車両センター)に移され、1948年から交通博物館で展示されていました。






Last updated  2021.01.09 00:50:04
2020.03.22
地下鉄博物館でカットモデルでの保存となっている、東京高速鉄道(→営団)100形129号車を掲載します。現在の銀座線渋谷~新橋間を開業させた東京高速鉄道が開業時に導入した車両です。

東京高速鉄道は東京地下鉄道への乗り入れを行っていたため、先述の東京地下鉄道1000形と並んで日本の地下鉄の黎明期を飾りました。





角ばったデザインが特徴の東京地下鉄道1000形と異なり、丸みを帯びたデザインが大きな特徴となっています。また、カラーリングも1000形の黄色に対して、100形はクリーム色+緑色となり、独自性を主張しています。このデザインやカラーリングは、親会社だった東京横浜電鉄(のちの東急電鉄)の影響を受けているといわれています。





100形は東京高速鉄道の開業後、1941年の営団の成立で1000形とともに銀座線で長く使用され、1000形とともに1968年まで使用されました。1962年には丸ノ内線分岐線(中野坂上~中野富士見町)の開業に伴って一部が丸ノ内線で使用されるようになり、こちらも1968年まで使用されました。

引退後、129号車を含む2両が中野検車区の牽引車(事業用車両)となりました。1981年に2両とも使用停止となり、1986年には129号車の車体がカットされ、現在のように地下鉄博物館で保存されることとなりました。博物館では車両の仕組みを学べるような展示物となり、ドア開閉の体験やモーター、ブレーキの操作が体験できます。





側面に貼られている東京高速鉄道の社章です。





車内には当時の路線図も掲示されていました。自社線だけでなく、乗り入れ先の東京地下鉄道の駅名もしっかり表記されています。イラストを多用し、当時の東京の街の様子をうかがい知ることもできます。






Last updated  2020.03.22 00:00:21
2020.03.11
地下鉄博物館の保存車両となっている東京地下鉄道(→営団)1000形1001号車を掲載します。
1000形は、1927年(昭和2年)の上野~浅草間の地下鉄開業(のちの銀座線の一部)に合わせて東京地下鉄道(現在の東京地下鉄【東京メトロ】とは別会社)が導入した車両で、日本初の地下鉄車両です。

それまでの日本で例がなかった地下鉄車両ということで徹底的な不燃化対策が施されており、当時は珍しかった全鋼製の車体が採用されました。また、外観は暗い地下鉄で明るさや温かさを感じてもらうことを意図して黄色一色の塗装を採用し、現在の銀座線1000系にもこの塗装が受け継がれています。





黄色一色の車体と、屋根部分の茶色が印象的な1001号車です。先述した丸ノ内線301号車と並んで展示されています。

現役末期のころの姿で保存されている301号車と異なり、1001号車は製造当初の姿に限りなく近い姿で保存されているのが特徴です。

この1001号車は、開業から1960年代まで銀座線の主力車両として活躍し、1968年に廃車となりました。その後は旧万世橋駅跡地にあった交通博物館に譲渡され、製造当初の姿への復元作業が行われました。そして、1986年の地下鉄博物館の開館時に同館に保存されて現在に至っています。





1001号車は2017年に国の重要文化財に指定されており、車内見学はできなくなっています。(以前は車内の見学もできました。)





「T」と「C」をかたどった東京地下鉄道の社章と、車番表記です。東京地下鉄道は現在の銀座線のうち浅草~新橋間を開通させ、その後に新橋~渋谷間を開通させた東京高速鉄道(当時は東急系列)との乗り入れを開始し、現在の銀座線の基礎を確立します。1941年に両社は合併し、国策で設立された「帝都高速度交通営団」(営団)となります。営団が民営化され「東京地下鉄」(東京メトロ)となるのは2004年のことです。





1001号車の車内です。車内には立ち入れないため外からの撮影となります。照明を天井方向に向けて照らす間接照明や、木製車両が当たり前の当時において違和感を感じさせない木目調の内装など、随所に工夫が光ります。

また、吊革はばねの力で跳ね上げる「リコ式」と呼ばれるタイプを採用しています。このタイプの吊革は1000形以降も営団の車両で広く採用されていました。





車掌用のドアスイッチです。1000形では、当時としては極めて珍しい自動ドアを採用しており、車掌が「此の戸」(スイッチに隣接する扉)のボタンを押して一か所のドアを開いて安全を確認し、「他の戸」のボタンで全部の扉を開くという仕組みが採用されていました。





運転台です。人形が配置されているため良く見えませんが、路面電車などと同様の運転台となっているようです。





車内での禁止事項を記した注意書きです。現在のマナー啓発ポスターにも通じるものがあります。





製造銘板です。1001号車は昭和二年(1927年)日本車輌製で、銘板はお洒落なデザインです。ちなみに、現在東京メトロ銀座線で活躍している1000系も全編成が日本車輌製となっています。









1001号車の展示されているスペースは、開業当時の上野駅をモチーフにしています。当時の駅名標や広告も復元されています。

広告にある「地下鉄ストア」は現在の「駅ナカ」のルーツにあたるもので、東京地下鉄道が地下鉄の需要喚起と増収を意図して直営で運営していました。上野駅の「地下鉄ストア」は現在の「エチカフィット上野」の前身となっています。






Last updated  2020.03.11 00:00:20
2020.03.04
地下鉄博物館に展示されている、丸ノ内線の初代車両300形のトップナンバー、301号車を掲載します。1954年の丸ノ内線開業前の1953年に製造された車両で、国内で唯一残る300形として貴重な存在となっています。





博物館に入るとすぐに見えてくる鮮やかな赤色の電車、それが301号車です。赤色の鮮やかな車体に白い帯が入り、銀色の波模様(サインウェーブ)が入るお洒落なデザインです。当時は非常に画期的で斬新なデザインで、初めて見た人は驚いたことでしょう。





前照灯も点灯した状態で展示されており、まるで現役の車両のようです。





300形、400形、500形の一部(569~645号車)では行先表示器の両脇に標識灯が設置されていました。当初、この標識灯は行先を示しており、青色(「池」のイメージ)が池袋行き、緑色(「お茶」のイメージ)が御茶ノ水行きとなっていました。標識灯は丸ノ内線の延長に伴って、のちに点灯が停止されています。





車内です。特徴的なピンク色の壁面と、えんじ色の座席モケットが特徴的です。吊革は当初「リコ式」と呼ばれる、ばねを用いた跳ね上げ式のものが設置されていましたが、後年の更新工事に伴って丸型の通常のものに交換されています。





運転台もピンク色に塗装されています。





車内に複数設置された非常灯です。当時の丸ノ内線はポイント通過時に通電が一瞬停止しており、その際に点灯していました。





1950~60年代の路線図も見ることができました。





窓には「帝都高速度交通営団」のステッカーが残されていました。





車番表記です。プレートではなく、壁面に直書きされていたようです。以前「ポッポの丘」で撮影した454号車も同様でした。





製造銘板です。昭和28年(1953年)、汽車会社東京製作所で製造されています。






Last updated  2020.03.04 22:07:15
2019.12.24
今回は、183系・113系の隣に保存されている24系客車を見ていきます。





DE10 30号機の後ろに、かつて「日本海」などで活躍したオロネ24 2、オハネフ24 2の2両が保存されています。





オロネ24 2です。オロネ24は、2段式(プルマン式)のA寝台車として製造された車両で、3段式寝台よりも少し豪華な寝台を備えているのが特徴です。最後まで残ったのは2、4、5の3両で、「日本海」で活躍しました。オロネ24は最後まで残った3両すべてが保存されており、「ポッポの丘」の2のほか、京都鉄道博物館に4、岩手県岩泉町の「ふれあいらんど岩泉」に5が保存されています。





オハネフ24 2です。オハネフ24は3段式B寝台を備え、ブレーキを装備した緩急車です。こちらの車両も「日本海」で活躍し、最後まで残ったオハネフ24の中で最も若い番号でした。





車両の方向幕は破れてしまっています。






Last updated  2019.12.24 00:00:18
2019.12.19
続いては113系です。私が通学などでお世話になった車両で、房総地区の普通列車といえば113系といえるほど定着していました。保存されている2両とも、私の思い出の車両です。





左からクハ111-1072、クハ111-2152です。このように並ぶと、113系1000番台と2000番台の顔の違いがよくわかります。





クハ111-1072です。総武快速線用として製造された113系1000番台で、当初は大船電車区(現在の鎌倉車両センター)に配置され、のちに幕張電車区(幕張車両センター)に転属しました。総武快速線で活躍し、同線へのE217系導入後は房総各線で活躍していました。末期には4両編成のマリ218編成に組み込まれていました。製造から廃車まで一貫して横須賀色でした。







千葉駅で撮影したマリ218編成の現役時代の写真です。幕張の1000番台クハは踏切事故対策で前面が強化されアンチクライマーを装備した車両が多かったものの、この編成はアンチクライマーがなく、比較的原形をとどめていました。





クハ111-2152です。東海道線用としてシートピッチの改善などの改良を施した113系2000番台で、当初は田町電車区(現在の東京総合車両センター田町センター)に配置され、その後国府津電車区(国府津車両センター)に転属し、東海道線へのE231系導入に伴って幕張車両センターに転属しました。

幕張では4両のマリ117編成に組み込まれました。幕張への転属時に横須賀色に変更されましたが、2009年に湘南色に変更され、廃車まで湘南色のまま房総各線で活躍しました。また、湘南色であることを生かし、東海道線のリバイバル運行などにも使用された実績があります。







千葉駅で撮影したマリ117編成の現役時代の写真です。多数の横須賀色の中に混じって湘南色が活躍する姿は、房総各線に花を添える存在でした。


2両の113系はいずれもカットモデルですが、1000番台・2000番台の保存車としては唯一の存在で、113系が使用されていた房総各線の思い出をよみがえらせてくれます。






Last updated  2019.12.19 00:00:17
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