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七夕
朝と夜の二回目の日記? 「我がためと織女(たなばたつめ)のそのやどに織る白たへは織りてけむかも」 「天の川梶の音聞ゆ彦星と織女と今夜(こよひ)逢ふらしも」 「我が待ちし秋萩咲きぬ今だにもにほひに行かな彼方人(をちかたひと)に」(わたしが待っていた秋萩が咲いた。今すぐにでも色に染まりに行きたい。向こう岸の人に) 万葉集の巻十の秋の雑歌の部立てに「七夕」と題された歌群がある。万葉全体で百三十二首、七夕の歌があるが、この巻はそのほとんどを占めている。 元来は中国の伝説をもとにした「七夕」がなぜこんなに古代の日本人の興味をひき好まれたのだろうか?年に一度の星合の夜に、頻繁に逢うことのできぬ恋人たちのランデブーの歓びや、また来年まで逢えぬ悲哀を重ねた歌が圧倒的なのは、藤原・奈良朝時代の詩人・歌人たちのこの伝説によせる興味の中心がどこにあったかを語るものだろう。ロマンチックな心自体には時代の違いはないということでもあろう。 あるいは、当時の「知」の最前線としての中国渡来のこの伝説をこぞって彼らが歌にしたのは、自分たちの「知」を誇ろうとするスノビズムが多分に要因を成しているということもあるだろう。そのことも現代と同様である。 しかし、彼らの心の奥底にはまだ確かにその記憶があり、現代の我々にはその残欠もない、古代日本のある信仰生活の記憶がこの中国種の伝説をかくもポピュラーにした最大の原因であるという折口信夫の説がある。 昭和二年に発表された「水の女」という論文。それによるとタナバタツメは神の来臨を待つ聖なる処女のことである。村里ではそのような娘を選び、村外れの川辺にタナと呼ばれる建物を造り、その中に娘を入れる習俗があったというのだ。娘はそこで神の着物(かむみそ)をハタで織り、神の来臨を待つ。「後世には伝説化して、いけにえと言った型に入る」と折口先生は冷厳に述べる。 このような固有の習俗の記憶があって、いとも自然に中国の伝説と結びついたのである。神聖なミソギのための川は天の川(天漢)に、タナバタツメは織女に、神はケンギュウに移行したわけである。 まあ、どうでもいい考証だが、逢うべき人もいない中年の寂しさをかみしめている七夕の夜ということです。(奥さん、ごめんなさい、文飾です)。 2003/07/07 20:28:11 野球観戦 二十年ぶりくらいで、ボールパークに行った。 鎌倉に住む友人の画家、今度出るぼくの詩集の装丁を引き受けてくれたのだが、彼との打ち合わせのために横浜まで行ったのだ。前日に、彼から電話が来て、ベイスターズとカープの試合のチッケトが二枚あるという。打ち合わせの前に、観戦しないかということだった。 子供たちが小さかったころ、西武球場に連れて行って以来だ。もちろん横浜球場ははじめて。内野席の三塁側の前列(画家がかれの生徒さんからもらったオーナーズシート)に陣取る。ここではじめて、ぼくは画家が広島出身でカープ狂であることを、うかつにも思い知らされることになるのだった。 テールエンド争いの試合だ、と彼は自嘲気味につぶやいて座ったのだが、さあ、それからの熱狂的な応援ぶりはすごいものだった。内心、ひぐまさんに肩入れして、ベイスターズに応援しようかと思っていたぼくは、広島ファンの声援のなかで、小さく小さく、ガンバレよ、タカノリなどというしかなかった。 前田という広島の有名な好打者をはじめて見た。この男の一挙一動が実に面白い。人生をはかなんでいるように、いつも下を向き、ゆっくりとした足取りでレフトの守備位置に向かう。苦虫をかみつぶしたような、泣きそうな、怒ったような顔で、にこりともしない。画家曰く、ホームランを打って泣いた男だよ。よろこんで?とぼく。ちがう、会心のホームランじゃなかったからだよと。交替のときぼくらの前にくると、画家が「まえだー、おぬしー、たまには、笑わんかいー、死ぬなら、おれがナワをクレテヤルワイー」と普段の紳士らしい振る舞いからは考えられぬ、広島弁丸出しの、ヤジをがなりたてる。彼にしてみれば、これが正しい激励の仕方なのだ。 そういうことで、日本のプロ野球を堪能したのだが、ひぐまさんのベイスターズは九回裏、意地を見せたのだが、タカノリが二塁牽制に引っかかって、あっというまの幕切れになり、また負けたのでした。もちろん、画家は元気になりました。 2003/07/07 19:41:13 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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July 7, 2003 08:28:11 PM
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