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陶淵明の「帰去来辞」を読んでいて、それとペコさんに教えられた正岡子規の「小園の記」を重ねた(実は反対、子規を読み、それから淵明のくだんの辞を読み直した)。三径就荒という言葉は言うまでもなく「帰去来辞」にある。子規は従軍から帰り、我が庭に立ったとき、この言葉が自然と出たのだ。「三径」とは隠者の庭のこと。松、竹、菊を植えた三つの道のこと。違う解釈もあるらしいが。
老荘の思想に満ちた「帰去来辞」。それから「荘子」そのものの影響も強く子規の例の文章は受けている。夢に蝶となるのは荘子の斉物論の有名な寓話と全く同じである。 高校時代のことを思い出す。伊藤龍吟(しかし、すごい名前だな)が荘子のここを講義していて、突然ぼくに質問をしたのだった。「Mよ、これはどういうことなのか、どういうことを言わんとしているのか、言ってみよ」と。ぼくはしどろもどろ、わけがわからなかった。 森 三樹三郎は次のように解説している。 「人生を夢にたとえることは多いが、これはその最も早い例である。だが、人生を夢まぼろしにたとえるものは、人生のはかなさを嘆くのが普通であるが、荘周はそうではない。夢と現実を区別して、現実に執着するのは相対差別の立場である。夢も現実も一つの変化のあらわれであるとし、二つながらに肯定するのが万物斉同の立場である」 こういうことを答えれば龍吟は満足したのだろう。でもぼくには、この森の解説も実はよくわからない。「一つの変化のあらわれ」とはどういうことか?これはよけいなことで、ぼくのIQの無さを証明しているに過ぎないのであろうが、言いたいことはそんなことではない。 やっぱり陶淵明はイイナということ、そして子規はもっともっとイイナということだ。 子規の「小園の記」は青空文庫でネットで読めます。これはぼくの今年読んだものの中で、ベストワンくらいに位置しています。 子規の「小園の記」のテーマは萩の花と思うから、萩の句を備忘録として書いておこう。 浪の間や小貝にまじる萩の塵 芭蕉 小狐の何にむせけむ小萩はら 蕪村 白萩を植ゑてさびしきこと殖やす 中村路子 萩の風何か急かるる何ならむ 水原秋桜子 こうして書き写していてもやっぱり芭蕉と蕪村がいいですね。かないませんね、とくに先師には。子規にももちろんあるのだろうが、今てもとにないので失礼。 柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺 子規 by pecoさん お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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