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6月も終わりだ。和泉式部に「思ふこと皆つきねとて麻の葉を切りに切りてもはらひつるかな」という激情の傑作がある。
Passionというのはどう訳したらいいか迷う言葉だが、キリストの受難を意味するとしたら、要するに受身で自分が被る苦しみの感情を言うのだろう。自分ではどうにもならない感情だから、時として激情に変化する。式部のように祓いをするほどの感情は今の私には幸いというか感情の枯渇のせいといった方が正しいのだろうが、ない。 この世界では多くの人が身に覚えのない受難を被り、それがpassionとして暴発にいたる状況が多くある。暴力とは根源的な意味での「祓え」であるという思いもある。それは取り戻せないゆえに、悲劇である。そういう意味でcatastropheであり、カタルシスである。 この連想はもちろん誤りだが。 理性的なものが現実であるとヘーゲルは言った。現実は理性的であるとも。そうだろうか?時として激情の瞬間こそが理性の核心であり、現実だといいたいときもある。理性の老いさらばえた姿を照らし出すという意味で。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
June 30, 2004 12:02:41 AM
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