2004/10/12(火)22:23
wintry fever
緑の導火線を通して花を駆る力が
ぼくの緑の時代を駆り立てる。 木の根を枯らす力が
ぼくの破壊者ともなる
だが、ぼくは口がきけぬのでねじれた薔薇に語れない
ぼくの青春も同じ霜枯れの熱病でゆがんでいると。
岩間を通して水を駆る力が
ぼくの赤い血を駆り立てる。 河口の流れを涸らす力が
ぼくの血の流れを蝋に変える。
だが、ぼくは口をきけぬのでぼくの血管に離してやれぬ
山の泉で同じその口がどんなふうに水を吸い取るかを。
水たまりの水をかきまわす手が
流砂を揺り動かす。 吹く風を縛る手が
ぼくの経帷子の帆をたぐる。
だが、ぼくは口がきけぬので吊るされている男に告げられぬ
首吊り役人の石灰がどうしてぼくと同じ土から造られるかを。
時の唇は泉の源に吸いつく
愛は滴り集まるが、落ちた血は
愛の傷口を癒すだろう。
だが、ぼくは口がきけぬので荒天の風に語ってやれぬ
星々のまわりでどのように天国が刻まれたかを。
そしてぼくは口がきけぬので恋人の墓に語ってやれぬ
ぼくのシーツを同じゆがんだ蛆虫どもがどんなふうに這っていくかを。
Dylan Thomas, The force that through the green fuse drives the flower
上記の詩は高松雄一訳。放送大学教材「改訂版 イギリス文学」(高松雄一著)から引用した。
なぜだかわからないが、最近Dylan Thomasのことを考えていた。乱雑な書棚の一隅に研究社版の「英文学 ハンドブック D.トマス G.S.フレイザー著 国学院大講師 富士川義之訳」という古い本があるのを見つけた。薄い冊子状のものだ。奥付を見ると昭和45年とある。ぼくのものではない。中を見ると特徴のある文字で几帳面な書き込みがあった。ぼくにこのウェールズ出身の詩人Dylan Thomasの魅力を教えてくれた福間健二の字だとすぐわかった(年代からすれば、彼の院生時代の書き込みだろう)。たぶん彼の研究室などに遊びに行ったとき、詩書の山からくすねてきたものに違いない。
この詩はThomasの最初の詩集、20歳のときに出版された『十八編の詩』(1934年)のなかの有名な一編である。この詩について先の本の著者G.S.フレイザーは次のように解説している。すこし長い引用になるが、
― トマスはこの詩のなかで、力強い調子で、人間の肉体と世界という肉体とを同一視している。成長や衰退や、人間生活の美や恐怖を支配しているさまざまの力は、外的自然のなかに働いている力に単に類似したものにすぎないのではなく、それとまさに同じ力なのだということを彼は言っているのだ。けれども、こんなことを言っているからといって、どうしてトマスはぼくたちの支持を得、ぼくたちを感動させることができるのだろうか?
ある意味ではそれは陳腐な言葉である。それは、少なくとも、ぼくたちの大多数がある程度までは大して興奮もせず、心の動揺を起こすこともなく、あるいはまた、条件付けで受け容れるような記述なのだ。動物としての人間は自然の一部である。これは新しい、驚くべき考えであろうか?何年も前に、この一節(注、フレイザーは第一スタンザのみを引用しているから、そのことだろう)のきわめて強烈な衝撃の謎を始めて考えてみたとき、ぼく自身の解答はこうであった。つまり、人間と自然の等式はここでは人間および自然とのあいだのさまざまの特質の―あるいは、もっと厳密に言うと、人間および自然に対するぼくたちの感情の―相互転移から生じた力強さを獲得しているのだと。ぼくたちはトマスの「ねじれた薔薇」に対して人間的な同情を感じる。またその反面、青年の満たされない性的欲望である「霜枯れの熱病」は、いくぶん、自然過程の非人間的な威厳とでもいったものを獲得している。
こういうふうにぼくたちが彼のことを、いささか人間的威厳の欠けた青年期の欲求不満に、自然の威厳を付与しようとした人間として考えざるをえないということが、少なくともトマスの処女詩集『18編の詩』を解明するための最上の手がかりに依然としてなっていると、ぼくには思えるのである。―
このフレイザーの解説はとても行き届いていてよく分かる。リフレインされるAnd I am dumbという音の響きに一回限りのadolescentの「口のきけぬ」爆発が集約されているのである。黙している「自然」に自分が転移すること、そのとき自然はどんなに雄弁に「人間」的な感情に身もだえしていることだろう、だがぼくは「口がきけぬので」。
今日、トマスの詩を書き写していて、ぼくはほとんど泣きそうになる。
時の唇は泉の源に吸いつく
愛は滴り集まるが、落ちた血は
愛の傷口を癒すだろう。
だが、ぼくは口がきけぬので荒天の風に語ってやれぬ
星々のまわりでどのように天国が刻まれたかを。
The lips of time leech to the fountain head;
Love drips and gathers, but fallen blood
Shall calm her sores.
And I am dumb to tell a weather’s wind
How time has ticked a heaven round the stars.
こうして原詩とならべて訳を読むと素人だが疑問もあるが、こういうところなど今回あらためてこういうイメジャリーの源泉をたどりたくなるとともに心にもしみたのである。
ところで、ずっとトマスのことが脳裏から消えなかったここ数日間に、これも不思議な暗合というべきか、今日福間健二からの葉書が届いたのである。しかも彼は奥様とウェールズからリスボンに旅行していて、葉書は10月2日にリスボンで書かれ投函されたものだった。
「ウェールズのカーディフとその周辺で一週間すごしました。最高気温が15度から16度cくらいという、ふるえるような寒さのなかで、いろんな知り合い、友人たちと再会しました。…」と彼は書いている。この寒さももしかしたらトマスの「霜枯れの熱病」(wintry fever)と深く関連しているのかもしれない。そして時空を越えて今もそのwintry feverはわれわれの中で「ゆがんで」いる、今度はわれわれの人間的な証しとして。