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友人の詩論を読み返していた。だれが次のようなことを考えるだろうか、そしてこのように表現できるだろうか。
言葉を暗がりではなく明るいところで使うこと、について友人は次のように書いている。 ― たとえば人に自己紹介しようとするとき、私は名刺を差し出す(現実の私は名刺など持ったことはないが)。そこには私の肩書きと名前が記されている。人はそれを受け取って、そうか、この人は××をしている××さんなのか、と思う。この人がこんなことを言うのは、この人が××だからなのだ。こうして私の言葉は影のなかへ、暗がりのなかへ入ってゆく。 だがしかし、私が失業したら事態はどうなるのだろう。私は肩書きと職分をなくして、名刺の代わりに「履歴」書を内ポケットに入れて、あちこちの職場を巡り歩く。だがどこにも私を雇ってくれるところはないので、一日の大半を私は公園で日向ぼっこをしたりして過ごすことになる。私は生きるために「嘘」の履歴を述べるかもしれないが、生きることは人間の隠れるところのない権利だ。私たちの言葉はこういうふうにして明るいところに出てくるのである。 町では、冬の路上生活者の湖が きらきらしていた (稲川方人 「君の時代の貴重な作家が死んだ朝に書いた幼い詩の復習」より)― この文は瀬尾育生が02年「現代詩手帖」6月号の「稲川方人」特集号のために書いたものの冒頭部からの引用である。稲川について書いているのであるが、そのことをぬきにして瀬尾の考えているところの鮮明な主張としてもよめる。 明るさと暗さの思いがけない脱臼。瀬尾の「詩人」批判、詩の言葉に「資格」や「責任」をあえて問いかける瀬尾のモチーフが簡潔に表現されている。 ただ私は単純に、 ―私は生きるために「嘘」の履歴を述べるかもしれないが、生きることは人間の隠れるところのない権利だ。私たちの言葉はこういうふうにして明るいところに出てくるのである。 ― という部分に深く心を動かされ、この友人のこの言葉を信頼するのである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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