カテゴリ:essay
金と暇があれば是非行きたいところ。クメール王朝の首都アンコール。ひそかに思っていた。アンコールトムやワットのレリーフ類や彫刻の頭部などが盗掘にあっているという記事を読んだ。カンボジアのどん底の経済状況と西洋のコレクターが結びついた仕業である。その記事にはインドシナを支配していた当時のフランス時代から連綿と続いている悪事であるという指摘もあった。かの有名なアンドレ・マルローも略奪をしたそうで、彼は戦後インドシナの法廷で有罪宣告を受け、3年の刑を言い渡されたが、当然それには従わなかったというようなことが書いてあった。ド・ゴール時代にフランスの文化相までなった作家で、美術論にも、今忘れたが有名なものがあったはずだ。
現在でも一年に百万人のツーリストがカンボジアに行くという。その大部分がアンコール詣でをするわけだから、水の問題をはじめ環境の悪化は避けられそうもない。また略奪に自暴自棄になった政府は自ら著名な作品群をその場から動かしてビルのなかに保管しているということだ。これは日本で言えばどういうことか。仏像をお寺から移して、倉庫にいれて、そこで拝ませるのと同様なことである。クメール・ルージュの時代に徹底的に破壊されたのだが、ベトナムは十分にこれらの西洋における価値を知っていて、トラックでずいぶん運び出したということでもある。これも略奪にはかわりはない。 ピエール・ロティの『アンコール詣で』(中公文庫・佐藤輝夫訳)は1901年の彼の当地への訪問をもとにして書かれている。カンボジアがフランス領になったのは1863年である。ロティ52歳である。以下は念願のアンコール・ワットの奥の院にはいった部分の記述である。 ―この高い廊下の暗闇の中まで彷徨い歩いているのは、たしかわたし一人であろうと思っていた。ところが、(略)、服装から察するに彼らはビルマから来た巡礼であろう。一体一体の仏像の前で礼拝しては、花を捧げ、香木を燃してゆくのである。床の上に崩れ落ちたどんな正なき仏の残骸にも、ゆきずりに会釈をしてゆく。そしてその残骸が、腕であるとか、虫ばまれた胴であるとか、体のない首であるとか少しでも解る以上は、その傍らに立ち留まって、腰板と腰板との間に火のついた香木を捧げてゆく。(略) そのうちにこの一行の先達であろう、一人の巡礼が「さあ、急ぎましょう、夜が近づいた」とでもいう意味であろう、何事か言った。すると彼らは礼拝を早め、勤行を縮めた。そして廊のゆきづまったところで、隠された聖殿を蔽う大仏の前にくると、仏の脛の金箔が一番剥げている部分を選んで、紙入れから取り出した金箔をその上に貼り付けてゆくのである。それが済むと彼らは遠ざかって行った。彼らの姿が見えなくなると、突然に静寂は一層威圧的になった。そしてそれは日の落ちるのを一層早めるように思われた。薄暮というもののないこの地方では、日没というのが文字通りつるべ落としに早いのである! ―― こういう記述を読むと、まだここが聖なる場所として確実に生きていた日のことがしのばれて、しかもこの巡礼の一行の敬虔さに心を深く打たれる思いがするのは私ひとりではないだろう。 こういう関係を根こそぎ植民地支配(当のロティはこのことに関してはなんの疑いももたない)や独立後の「近代」化とそれに続く内戦が破壊してしまった。そういうふうに私が断言できるものではない、ということを承知のうえで言うしかない。ここ日本も同じようなことは数多くあるだろう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
March 21, 2005 11:33:06 PM
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