カテゴリ:essay
「今までは、どうして虎などになったかと怪しんでいたのに、この間ひょいと気がついてみたら、おれはどうして以前、人間だったのかと考えていた。これは恐ろしいことだ。いま少したてば、おれの中の人間の心は、獣としての習慣の中にすっかり埋もれて消えてしまうだろう。ちょうど、古い宮殿の礎がしだいに土砂に埋没するように。」 いわずと知れた中島敦「山月記」の一節である。虎に化した詩人、李徴が昔日の友人に邂逅して言う台詞である。きみを「食わなくてよかった」という安堵の思いとともに、ここには切ないほどの「人間らしさ」への希求がある。愛情や笑いに満ちた人間の世界が「古い宮殿の礎」として形象化されているのだが、ここには中島敦という作家自身の短い「生」を予感させるゆえに「切ない」ほどに「人間」としての生への希求がある。 しかし、中島敦はよく知っていた。これを「人間」の台詞とするのは大間違いであるということを。「虎」であるからこそ、より切ないほどに「人間」であるのだ。いや正確には「虎」になったからこそ、より「人間」を希求するのである。どういうことだろうか。虎になればなるほど人間化するのである。その機微がここに述べられている。 今日、多摩動物園に行ってみた。おそらく何十年ぶりだろう。教え子がそこでアルバイトをしていたので、ちょっと様子を見たかったのと、新緑を見たかったので行ったのだが、その両方をかなえた歓びはさりながら、実はひさしぶりに「動物」たちを拝観できた歓びを言いたかったのである。 教え子のSはあんまりいい調子ではないと言ったが、でもこの新緑のなかでぼくにはやはりまぶしく、美しく見えた。 瞬時も静止しないのであるが、その動きのすべてが無駄の無い美しさで統一されているような動き、それは大いなる「静止」である、この虎の動きがそうであるように。 「人間」であることは難しい、それにもまして難しいのは「動物」であることだ。いや「虎」であること。これはだれにも可能な道ではない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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