詩人たちの島

2006/05/14(日)22:09

The Snow Man

essay(268)

Wallace StevensにThe Snow Manと題する詩がある。 One must have a mind of winter To regard the frost and the boughs Of the pine-trees crusted with snow; 霜や、雪の皮で蔽われた 松の枝をじっと見つめるためには、 冬の心を持たねばならない。 というように始まる詩で、岩波文庫「アメリカ名詩選」の解釈によれば、 ―スティーヴンズによれば、この詩は、「現実を理解し楽しむには、現実と一体化する必要があるという一例」だという。なお彼の四季のたとえによれば、冬は想像力が枯渇して、むき出しの現実だけがそこにある状態。原詩は紆余曲折するただ一個のセンテンスでできている。―とある。  この詩について何か言いたいのではない。電車での行き帰りや自宅で暇をみつけてはエドワード・サイードの「故国喪失についての省察1」(みすず・大橋洋一他訳)を読んでいる。このタイトルと同名のエッセイを今日読んでいてとても心動かされたので、その感想でも書こうと思って、このエッセイについての訳者(大橋)の解題があって、それを読んだところ、上記の詩が出てきたのである。  このエッセイには別版があって、そのタイトルは「冬の精神」と題されているということだ。サイードはエグザイル(故国喪失)について縦横に論じた最後に次のように、スティーヴンズのこの詩について言及する。 ―しかしながら、これ(エグザイルの新しい環境における生活習慣や表現や活動の独特の獲得、その達成感覚についてサイードは述べる―ban注)には危険がつねにともなう。まやかしの習慣は心労を蓄積させ神経をさかなでする。エグザイル状態とは、満足も充足も安心もない状態である。ウォレス・スティーヴンズの言葉を借りればエグザイルは「冬の精神」である。このなかでは夏や秋の情緒は、近づく春の気配ともども、すぐ近くに感じられるのだが、しかし手に入らない。おそらくこういうかたちで言わんとしているのは、エグザイルの人生が、異なる暦にしたがって動き、故郷での人生よりも、四季に左右されず、落ち着いているということだ。エグザイルは、習慣的な秩序の外で起っている生活である。それはノマド的で、脱中心化され、対位法的である。またそれに慣れてしまうやいなや、その静まることのない力が安定した生活をふたたび揺さぶるのである。― この訳にもうまく理解できないところがあるのだが、それはさておき、サイードがこのエッセイの最後で述べているのは、エグザイル状態に屈することのない心のあり方であってエグザイル状態を礼賛しているのではない。このエッセイの初出は1984年、ポストモダン的な脱主体化とは異なるエグザイルとしての「傷」の感触がこのエッセイにはあって、そこがぼくを打ったところである。 エグザイルはもちろん「特権」ではないが、「選択肢」として、「現代生活を支配する大衆諸制度に対抗する」選択肢としてありうるというのがサイードの切実な戦略である。「自分の傷をなめているだけの傍観者にとどまる」のを拒まなければならないというのも、エグザイルとしてのサイードの「主体」的な生き方である。 サイードはこういう考えから、彼の尊敬する二人のエグザイルを紹介する。 一人はテオドール・アドルノである。アドルノの「ミニマ・モラリア」はサイードにとってのバイブルみたいなものになっている。サイードはアドルノの見解を次のように要約している、 1.すべての生活は、出来合いの鋳型にはめられ、あらかじめ規格化された「故郷=家庭ホーム」にからめとられている。…人が語ったり考えたりするすべてのことは、人が所有しているすべてのものと同じく、究極的にたんなる商品である。言語は抽象的になり、事物は販売するためにだけ存在する。こうした状況を拒否することが、エグザイル知識人の使命となる。 2.アドルノの省察は唯一存在する故郷(ホーム)とはその著述のなかにしかないというもので、それ以外のところ、たとえば「家はもう過去のものとなった。ヨーロッパ諸都市の爆撃は、強制労働収容所の建設ともども、テクノロジーの固有の発展がとうの昔に家屋の運命と定めたことを、執行者として始めたにすぎない。こうした家屋は、古い缶詰のように、捨ててしまうのがよいというわけだ」。かくしてアドルノは深刻なアイロニーとともに、こう述べる―「自分の家でくつろがないことが道徳の一部なのである」と。  もう一人は時代をさかのぼって、12世紀の修道士「サン=ヴィクトールのフーゴー」という人物の「美しい一節」に見られる考え。 ―…自分の故郷がすばらしいと感じている者は、まだ弱々しい未熟者にすぎない。あらゆる土地が自分の故郷であると感ずる者は、すでに強くなっている。しかし世界が残さず外国の地であると感ずる者は完璧である。強い人間は、自分の愛をあらゆる場所に広げた。完璧な人間は、自分の愛を消滅させるのである。―  この修道士の考えは謎めいていて、美しい。どういう文脈で使われるのだろうか、こういう言葉は。サイードは「20世紀の偉大な文学研究者で第二次世界大戦中はトルコで亡命生活をおくったエーリッヒ・アウエルバッハはこの一節を、民族的あるいは地理的境界を越えようと望むものにとって模範となるものとして引用している。こうした姿勢をとることによってはじめて歴史家は、人間の経験とそれについて書かれた記録を、その多様性や個別性を損なうことなく把握できるのだ。さもなければ歴史家は先入見からくる排除的反動的姿勢に与するだけで、知的発見からもたらされる自由な意識を失うことになる。」と説明する。 (この項つづく)

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