カテゴリ:politics
イスラエルは一体どういうつもりなのだろうか? asahi.comによると、 ―― 国連レバノン暫定駐留軍(UNIFIL)関連の国連施設が空爆を受け、停戦監視要員4人が死亡した事件にからんで、この施設を含めて攻撃開始の12日以降合計10カ所のUNIFIL関連の施設が146回にわたってイスラエル軍の攻撃を受けていたと、国連PKO(平和維持活動)局幹部が26日明らかにした。国連施設が標的にされたと見た同局幹部やマロックブラウン国連副事務総長は、イスラエル側に繰り返し攻撃中止を訴えていたという。―― これは実にひどい話で、論外と思われるのだが、それよりもテレビ映像などによると、レバノンへの空爆で、テロリストと見なすヒズボラとは関係のない市民を殺傷していることはもっとひどいものがある。暴力の圧倒的な非対称性(ヒズボラはゲリラ的なねばり強さを発揮しているが)のなかで、イスラエルはなぜここまでの暴力の拡大を選ぶのか?そしてアメリカはそれを国連の場においても支援するのか? この問題は、この時代、この地球に残存している「政治的な問題」のなかで、一番の難題に属するものかもしれないが、これまでの様々なアメリカ主導の和平「ロードマップ」なるものがことごとく実を結ぶことなく、破産してしまうのはなぜだろうか? 遠回りかもしれないが、このことについてハンナ・アーレントの考えをたどりながら考えてみたい。 アーレントは1941年にアメリカに亡命した。その年に彼女はドイツ語新聞『アウフバウ』のコラムニストの仕事を得た。彼女がそこで展開したのはユダヤ人軍団の創設の主張であった。これはエリザベス・ヤング=ブルーエルの『ハンナ・アーレント伝』(晶文社)からの引用だが、エリザベスは次のように書いている。 ―― 彼女はユダヤ人が「ヨーロッパ人として」ヒトラーとの闘いに加わることを望んだ。…彼女が将来的に望んだのは、将来のどの講和会議にも、ユダヤ人が連合国側に加わることであった。「戦いに加わらない者は、和睦にも加わらない」。彼女はヨーロッパ人と協力して行動することが、ユダヤ人に「民族的解放への大きな機会」を与え、伝統的にヨーロッパの諸国民を隔ててきた反目が、ヒトラーに対する戦争という共同の努力のなかで消滅するはずだ、と思っていた。彼女は、パリで最初に明確にしたこの期待を、すなわち将来のヨーロッパ連邦はユダヤ人に母国(ホームランド)を保証するだろう、という期待を言葉にした。しかし彼女はヨーロッパの結束という議論を展開すると同時に、かつて彼女がパリで闘った「ゲットーへ帰れ」とう主張の別の形である広く受け入れられているシオニストの立場を攻撃した。彼女はシオニストたちが、将来もパレスチナ人にならない離散(ディアスポラ)ユダヤ人を無視して、その関心をもっぱらパレスチナにのみ集中させることに警告を発したのである。アーレントは、ユダヤ人の政治的状況の特異性とかユダヤ民族の特異性という概念が、― とくに民族主義的調子を帯びたり、民族の「有機的統一」というゲルマン的理念を思い起こさせる場合は― ユダヤ人を他のヨーロッパ諸国民から疎外することになるのを恐れた。 ―― 「シオニストたちが、将来もパレスチナ人にならない離散(ディアスポラ)ユダヤ人を無視して、その関心をもっぱらパレスチナにのみ集中させ」た結果、ナショナリスティックなベン・グリオンたちとイギリスの思惑でイスラエル建国ということになる。いろんなことを端折って言っているし、わからないことも多いのだが、アーレントが警告しているような陥穽に入ってしまって、そこから脱け出せないでいるのが、イスラエルなのでないか? ―― …ヨーロッパに完全に背を向けたのは、シオニストの場合だけである。しかしその根底にある民族哲学ははるかに一般的なものであり、(…)それは、ドイツ的精神をもったナショナリズムを無批判に受け入れたものにほかならない。このナショナリズムによれば、ネイションは不滅の有機体、内在的特質の不可避的かつ自然な成長の所産であり、また諸民族は政治的な組織体ではなく生物学的な超人格とみなされる。こうした考えによってヨーロッパ史は相互に関係のない有機体の歴史に解体され、フランスの壮大な人民主権の理念もナショナリズムの求める、自給自足的体制の主張と曲解される。シオニズムは、このようなナショナリズムの思想的伝統と密接に結びついていたので、国民形成の前提である人民主権に格別わずらされたことは一度もなく、むしろ初めからあのような民族主義的独立を望んだのである。―― (「シオニズム再考」アーレント・『パーリアとしてのユダヤ人』未来社) くり返し、彼女が言っているのは、パーリア(のけ者)の民である自分たちユダヤ人が真に誇りをもって生きうる道は、ヨーロッパで自分たちがうけた差別の構造の裏返しであるような形で、アラブ人を排除し、「成り上がりもの」のようにふるまうのではないということにつきるのではないか。内にこもるのではなく、その「壁」を開いてゆく、それが「政治」だというようなことを、アーレントは繰り返す。 アーレントの反対側にサイードがいる。彼の思想はアーレントとそんなに異なっているだろうか?彼がアラファトやハマスを批判したのは、アーレントがシオニズムのナショナリズムを批判したのと、ちょうど同形であるように私には思える。 小さな、思慮のない、子どものような大統領がいて、「ヘズボラはイランとコネクトがあって、テロリストで、民主主義ではない」というようなこと、オウムに似たことを、にやけた調子で一方的に語っているのが「世界」である。なんとアーレントの複雑さや、サイードの苦渋から遠いことよ。そんな「白」「黒」の単純な考えで「世界」が俯瞰されているとしたら、21世紀は中世と等しいということになるのではないか。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
July 29, 2006 09:41:29 PM
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