カテゴリ:essay
参院の質疑で安倍首相がなめらかな口調で意気揚々と答えていた。郷土の偉人や文化などを勉強、学習する姿勢を評価するのは当然ではないでしょうかと。そこから「愛国心」の評価まではわずかな距離である。そのあとのnhkの「クローズアップ現代」では、「学校選択制」の実施で廃校に追い込まれた小学校、その反対に「勝ち組」の中学校などのにぎわう様子が紹介されていた。「愛国心」論議などとは無縁であり、ただ、その学校が区の共通の実力テストで高い成績を独占しているということが公開されたからにすぎない。噂や評判が一人歩きをして、いい学校、悪い学校を決めてしまう、悪い学校は廃校になり、その存在する地域もゴーストタウン化して、治安の悪化状態を招く、こういうことはイギリスなどで顕著である、と東大の佐藤学先生は苦渋に満ちた表情で解説を加える。教育基本法を改正すれば「いじめ」もなくなると安倍は参院で答えていた。ほんとうに、そうか?
佐藤先生の苦しそうな表情と安倍の晴れやかな表情、ここには良心的な研究者とほら吹きの政治家との違いというよりも、もっと深刻な対立があるように、ぼくには思われる。一言でいうなら、「言葉」の極端な質の違いである。この二人は水と油のように、絶対に交じり合うことのない「言葉」で話しているのだ。さらさらとビッグマウスから出ては消えてゆくことば、その背後にあるのは、権力を取ったものの自信と自己を省みない、一種の忘我状態であり、それをサポートする近年にとみに力を得ているかのように見えるクールな、人を人とも思わぬ言論の競争(ディベート式の)、市場の競争と似たような言葉の羅列にすぎない。それに対して、学先生の、歯切れの悪い、しかし一つ一つが、石のような言葉は、聞いていて苦しいが、彼の経験の地平がはったりではなく、地を這うようなフィールドワークの積み重ねからなることを自ずとわからせる、そこから出てくる言葉である。 いじめの淵源にあるもの、それは、このような「ことば」の違いである。一つの言葉が生まれるためには、どもらなくてはいけないはずなのに、その吃音を、端的に、経済的な効率をかかげて、切り捨てたこと、そのせいにほかならない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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