詩人たちの島

2007/01/14(日)22:10

常に流動するアイデンティティ

essay(268)

拓也のblog「芒洋の日々」の三回シリーズ「サダムが死んだ日に、サダム・フセイン・モスクで、サダムの死を悼むということ」を読む。彼は今イギリスに一年間の留学の最中で、主にムスリムの「移民」問題を研究しているというが、その行動力、生活力、とくに友人をつくる力には感服せずにはいられない。このエッセイも今、拓也が考えていること、感じていることが、ムリに力むことなく、とても自然な感じで表現されている、そういう点でぼくにはすごく面白かった。 漱石はその昔イギリスはロンドン到着後間もない自らを「往来にて向うから背の低き妙な汚き奴が来たと思えば我が姿の鏡にうつりしなり、我々の黄なるは当地に来て始めてなるほどと合点するなり」(明治34年1月5日の日記。表記と仮名遣いを変えた、以下同じ)とか、 「我々はポットデの田舎者のアンポンタンの山家猿のチンチクリンの土気色の不可思議な人間であるから西洋人から馬鹿にされるのはもっともだ」(明治34年「断片八」)などと書いている。 20世紀の冒頭と21世紀の今、百年余りの歳月の経過は、すごいものである。ものの見方、世界の変化をドラスティックなものにした。いい意味でそうだと思いたい。拓也の書くものを読んでもそう思う。漱石のアイデンティティに対する感覚と考え、拓のそれとは当然のことながら全く異なる。拓がサイードを引いて、それに自らを重ねる「常に流動するアイデンティティ」という考え。ここから生まれてくるものを期待したい。

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