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詩人たちの島

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February 11, 2007
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カテゴリ:essay
ネグリとハートの『マルチチュード』を少しずつ読んでいるのだが、啓発されることがとても多い。レイモンド・カーバーの詩を読んでいて、その根底にあるものを「貧しさ」として考えたことがあった。その貧しさは一言で言えば、知的な不誠実さからの「貧しさ」ということであり、肯定的な意味合いで、この言葉を使ったのである。

ネグリとハートの考察のなかで、「貧困の豊かさ」という形で、グローバル経済のなかでの、反抗的階級の表象として、二人が特筆しているのは「貧者」である。われわれは労働者階級であるということが、一昔前の抵抗の根拠であるとしたら、「われわれは貧者である」という宣言にポスト近代、ポスト・フォーディズム下の労働形態における抵抗の根拠を彼らは認めているのである。

―― 自らの置かれた貧困状況に対する貧者の闘いは、強力な抵抗であるだけでなく、生政治的な力を肯定するものでもある。言いかえればそれは「持つこと(having)」における悲惨さよりも強力な、「在ること(being)」における共同性の表明なのだ。支配諸国では20世紀を通じて貧者の運動が、貧困によって引き起こされる分断化や失望、諦め、さらには恐怖や動揺までも克服し、中央政府に富の再分配を求めて陳情と異議を申し立ててきた。今日の貧者の闘いはそれよりももっと一般的で生政治的な性格を帯び、一国内ではなくグローバルなレベルで行われる傾向がある。
  たとえば南アフリカのダーバン近郊のチャッツワースで行われた、立ち退き要求と水道・電気の遮断に対する抵抗運動について、地元の活動家であるアシュワン・デサイはこう記している。いわく、この運動の際立った要素の一つは、それが共通の基盤に立っていたことである。南アフリカの黒人とインド系南アフリカ人は一緒にデモしながらこう叫んだ―「われわれはインド人ではない、貧者だ!」「われわれはアフリカ人ではない、貧者だ!」
  もう一つの際立った側面は、これらの貧者がグローバルなレベルで異議申し立てを行ったことである。もちろん彼らはアパルトヘイト終焉後、自分たちの悲惨な状況を悪化させた元凶は地元の当局者や南ア政府だとして、それらに対する抗議活動を行ったが、それと同時に新自由主義的グローバリゼーションも貧困の原因だとみなし、2001年にダーバンで開かれた国連主催の世界人種差別撤廃会議でその主張を表明した。これら南アの抵抗運動参加者が「われわれは貧者だ!」と叫んだのはまさに正しかったし、その主張は彼ら自身がこのスローガンに込めた意味以上の一般性をもっていたといえるかもしれない。私たちは皆、社会的生産に参加しているのであり、これこそが、究極的には貧者の富にほかならないのだ。―― (p 226)

「生政治的biopolitical」という概念は、本書の重要な概念であるが、それは「生権力biopower」の敵対的な概念として用いられている。両者ともグローバル権力、経済のもとでの、ネグリとハートの考察から生まれたものであろう。もちろん、フーコーの影響があるが。「生権力」は、われわれのすべてを、生そのものまでも支配している、「主権的権威として社会の上に超越的に聳え立ち、命令を下す」、対して「生政治的」生産biopolitical productionは「社会に内在し、労働の協働形態をとおしてさまざまな社会関係や社会的形態を創出する」。この視点に立つことによって「マルチチュードのプロジェクト」が可能になるようなものであるとされる。

ここまでが今日書きたいことの前提である。ネグリとハートは二人の考察がマルクス以後の労働形態、労働階級、社会の変化のためにあること、必然的にそうならざるをえないことを述べながら、それでも彼らの到達地点のそこに、いやそれより向こうにマルクスの19世紀の考察が待っていることを、再三吐露している。マルクスを越えて、ここまで私たちは来たと思っていたのに、マルクスはそこに待っていた、というような感慨を述べる、私はこの二人の営為の筋道の、なんというか正しさというとおかしいが、その努力の正しさを、こういう感慨から受け取る。私はマルクスを知らないが、どうしてもそういう感じを持つのである。ネグリとハートは「補説1 方法―非物質的生産をどうとらえるか」(p 234)という素晴らしい論文をこの本のなかに挿んでいる。これはとてもおもしろい。この二人のマルクス理解の水準の高さというようなもの、マルクスを知らない私が正直に言えば、吉本隆明のマルクス理解と似通うものを強く感じるのである。「へー」と思いながら読んだのである。いや、これはどうでもいいことだ。私は次の箇所を紹介したいだけだ。

―― 世界の変化を考慮に入れながら、マルクスを超える新しい方法論を描き出そうとする旅の最後にいたって、私たちはふたたびマルクスがすでに同じ場所に到達していたのではないかという不思議な感覚にとらわれている。『経済学批判要綱』の書き込みに特有の断片的なスタイルで、彼は資本の下にある労働は絶対的貧困の状態を伴うと述べている。「それは、労働の実在的現実性のこれらの諸契機からの抽象として存在する生きた労働…であり、このような丸裸の存在、あらゆる客体性を欠いた純粋に主体的な労働の存在なのである。それは、絶対的貧困としての労働、すなわち対象的富の欠乏としての貧困ではなく、そこから完全に締め出されたものとしての貧困なのである」。しかしマルクスは、貧困を排除としてとらえる否定的な見解を提示したそのすぐあとで、それをひっくり返し、貧困を肯定的に定義しなおしている。「それは、対象としての労働ではなく、労働としての労働であり、それ自体価値としての労働ではなく、価値の生きた源泉としての労働である。それは、富が対象的に現実性として存在する資本に相対して、行為のなかで自己をそのものとして確証する富の一般的可能性としての一般的富である」。したがって生きた労働は二つの特性を持つことになる。一方の側から見れば、それは富を剥奪された絶対的貧困だが、それを反対側から見たとき、マルクスは貧困を人間活動の発生源(グラウンドゼロ)として、すなわちすべての富の一般的可能性の形象、ゆえにその源泉として認識するのである。私たち人間とは基本的に一般的可能性であり、一般的な生産能力にほかならないのだ。――(p250-251)

このようなマルクスの認識は、とくに現在のポスト・フォーディズムの「非物質的生産」の労働の諸形態、コミュニケーション、情報、サービス、介護、等等の社会的関係そのものを創出するような労働の現場においてこそ有効なのだとネグリとハートは主張する。農業をも含めて労働の形態と本質がすべて「非物質的生産」という傾向を帯びていて、それがグローバル化によってさらに促進されるというのが彼らの見解なのだが、そのときに、この「絶対的貧困」というマルクスの定義の照準の距離のすごさを思わずにはいられない。

おそらく、わたしたちの詩を書くという営為も「対象としての労働ではなく、労働としての労働であり、それ自体価値としての労働ではなく、価値の生きた源泉としての労働」であり、「絶対的貧困」としての「貧者」の、「being在ること」としての表出であり、その歴史なのである。





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Last updated  February 11, 2007 10:44:20 PM
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