2007/04/02(月)22:46
ただざわめいているだけでいいんだよ
――「そもそも道徳性は不完全なものだから、ある個人を不道徳と呼ぶことはもともとできない相談である。したがって誰かをそう呼ぶとしたら、その理由は恣意的なものでしかない。こうした経験的判断が意味や内容をもちうるとしたら、それはただ、幸福というものは本質的に少数の人々のものであってはならないと思われているからである。言い換えると、それは道徳性の仮面をかぶった嫉妬である。しかし、ではなぜ他の人々にもいま言った幸福を与えたいと思うのかというと、その理由は、他の人々にもまた自分自身にもこの恩寵を、言い換えるとこの偶然を惜しまず与え、かつ願うところの美しい友情からなのである。」
おそらく単なる市民なら、こうは言わなかったに違いない。既存の体制を称揚する市民の賛辞には、いつも次のような妄想がつきまとっている。それは個人、すなわちこの既存の体制のなかでは主観が自分自身に対して必ずそうしたものとなって現れるところの純粋に自立的な存在者(フュール・ジッヒ・ザイエンデ)は、善でさえも自分の意のままにできるという妄想である。だが、ヘーゲルはこの妄想を打ち砕いた。それゆえ彼の道徳批判は、もうその社会自身が不当なものとなっているのに、なんとか命脈を保とうとして、個人に道徳イデオロギーをもつことを要求する、つまり個人は幸福を断念せよと要求する、そのような社会を擁護するあのよくある弁明とは、けっして融和できないのである。――
「三つのヘーゲル研究」テオドール・W・アドルノ(ちくま学芸文庫)
上記で引用されているのはヘーゲルの「精神現象学」の―道徳性―からのものだが、それを引きながらアドルノはヘーゲルという「西洋近代の市民的原理」の基礎付けをなした言われる観念論者の弁証法的思弁をいわば唯物論的に脱構築することで、カントにはあった厳格な道徳的格率とはことなるヘーゲルのそれを明らかにしようとする。「アプリオリなものはアポステリオリなものである」というヘーゲル弁証法の媒介の極致が彼の道徳批判にも貫かれていて、「善」を個人的なものとして主観的に分離する「市民社会」の倫理と、人倫として、義務として要求するカントの命法のいずれをも超出しようとする。アドルノのヘーゲル論を読みながら考えることは哲学的思考のもつ隠れた、しかし永続する批判力ということである。情勢や経験をどう己の思考に繰り込むかということなのだが、その繰り込み方の独特な迂遠さといってもいいような仕方、つまり「概念」的な思考の進展の力というようなものを今になって感じているのである。概念の共通の地盤ということも考えるが、哲学にもっとも、いやもっともヘーゲルなどは苦手な人間にも、アドルノの読解の面白さは伝わってくるのである。
アドルノの言葉だが、「その社会自身が不当なものとなっているのに、なんとか命脈を保とうとして、個人に道徳イデオロギーをもつことを要求する、つまり個人は幸福を断念せよと要求する、そのような社会」というような規定の鋭さを当今の社会に移し変えてみる、そうするといろんなことがここから分かるような気になる。アドルノはヘーゲルを擁護しいるのだが、その擁護の仕方が、存在論的な擁護の仕方では全然ないのも、私には面白かった。アドルノはハイデッガーのヘーゲル読解と、それにつづく実存主義者たちのヘーゲル再興を批判している。実存、存在、などの「直接性」と彼らが持ち上げるものでさえも媒介されているのである、というのがヘーゲルの考えであるという理由で。
一知半解の感想にすぎないが、もう少しアドルノは読んでみようと思う。できたら、ヘーゲルの「精神現象学」も。しかし、読まないだろうな。ぼくには時間がない。孫引きでいいや。