詩人たちの島

2007/04/03(火)23:10

休止

essay(268)

休止           ルードルフ・ボルヒャルト (渡辺祐邦 意訳) 深い記憶の蔭に時が癒着している。 昔の道はひと気がなく広かったが、今は人間でごったがえしている。 ああ、ぼくの心の奥底に今も聞こえる木の葉のざわめきよ。 おまえは、ぼくが好きだったあの音を今ももっているだろうか。 ちっともぼくの邪魔にならなかった音調は、 今もおまえのなかにあるだろうか? ただザワザワとざわめいているだけでいいんだよ。 はっきりとした音を おまえから聞きたいなんて、思っていないのさ。 耳を澄ましたりすれば、きっとおまえも痛いだろうから。   この詩はアドルノが偏愛した詩人の詩で、彼の「三つのヘーゲル研究」(ちくま学芸文庫)の第三部「暗い人」のエピグラフとして「ただざわめいているだけでいいんだよ」というのが掲げられている。その詩の全体を訳者の渡辺氏が意訳したとして訳注にあるもの。私ははじめて、この詩を読み、いたく感動した。渡辺氏は次のように書いている。   ―ちなみに、ここで使われている木の葉のざわめきを表すrauschenという語は、本書第一部の末尾でも「ヘーゲルの哲学はザワザワとざわめいている」(”Hegels Philosophie rauscht.”)という語句のなかに使われている。察するにアドルノはこの言葉によって、ヘーゲル哲学のけっして超俗的でない、リアリスティックな性格を言い当てようとしたのだろう。この見方は第三部全体の根底にある。―   私はこの渡辺氏の見解に対して付け加えるなにも持たないが、昨日のblogのタイトルに「ただざわめいているだけでいいんだよ」という語句を拝借したとき、その「ざわめき」というのがたしかにザラツイタ現実との関連を失おうとしないヘーゲル哲学の感触をかすめたものかもしれないと思った。しかし、この詩を書き写しながら、私に迫ってくるのは、やはり喪失感である。それはルサンチマンとはきっぱり切れた「喪失感」である。第三部「暗い人」をまだすべて読み終わっていないで言うのだが、アドルノは渡辺氏の言う意味でこの語句を使用しているのだろうか?   ヘーゲル哲学のrauschenとはアドルノにとって、この詩の詩人が「木の葉」の痛みを忖度しながら優しく呼びかける距離感のなかに定着されたそれではないのか。ヘーゲルの痛みまでも推察しながらアドルノはヘーゲルを救助しようとしているのではないか。その痛みとは、それこそ「けっして超俗的でない、リアリスティックな性格」というような現代的な規定がもしかしたら贔屓の引き倒しのようにして曇らすかもしれないヘーゲルという「深い記憶」である。 「はっきりとした音」を「深い記憶」から取り出すことにはいつも大きな誤解と錯覚がひそんでいる。だれでもそうしたくなるところで、自らの浅さと曖昧さを反省することもヘーゲルの弁証法が教えることなのだ。「耳を澄ます」ことを、耳を閉じることで媒介する、その反対もおなじく大切だが、ヘーゲルが教唆するのは、単純な明晰さや明快さ(そう人を強制するもの)に対していつでも疑いを持てということではないか。 しかし、この詩はヘーゲルの哲学とは関係なしに深い。「音」はあらゆる郷愁をこえて現在である。

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